3.代償
少年は目を覚ます。ぼやけた視界に映ったのは、慣れ親しんだ自室の天井だった。
「目が覚めた?」
少年はゆっくりと首を動かし、声のした方を見た。そこにいたのは、幼馴染みの少女だった。心配そうな顔で、少年を見下ろしている。
「アンナ……?」
少女の名を呟く。自分でもかすれて聞こえるほど弱々しい声が口から漏れた。少女が安心したように笑顔になる。
「大丈夫そうね。よかった……」
「俺は、どうしたんだ」
少年は思い出そうとした。どうして自分がここで横になっているのか、全くわからなかったのだ。学校から出て家に帰ってくるまでの記憶がない。自分の身に何が起こったのか、少年はわからなかった。
「杏凪。大雅の様子はどうだ?」
少年はその声に、過剰なまでに反応した。自分でも驚くほど、その声に反応していた。その胸の内に芽生えたものは、明確な敵意と復讐心と恐怖だった。
「鏡矢さん」
杏凪と呼ばれた少女が、部屋の入り口に立つ少年にそう声をかけた。横になっている少年の中で、敵意と殺意が大きく膨らんでいく。この少年を殺さなければならないと、少年は思った。部屋の入り口に立つ少年が、静かに少年の元へ歩み寄る。
「大雅、生きているな?」
「兄ちゃん、俺をどうした」
兄であるはずの少年に向けて、大雅が発した声は厳しいものだった。およそ兄に向ける声音ではない。横にいた杏凪が、その顔を驚きと恐怖に歪ませる。
「そうか。記憶にないのか」
「説明しろ。俺に何をしたんだ!」
鏡矢は、近くにあった文机から一つの手鏡を取り出した。朱色の漆地に、金箔で鮮やかな文様を施した、美しい装飾の手鏡だった。それを、大雅の顔へと向ける。大雅はそこに映った自身を見て、言葉を失った。
「何だよ、これは」
大雅の左目を覆う、真白い包帯。暗い世界で、そこだけが白く輝いているようにさえ見える。大雅はそっと、そこへ手を伸ばした。残酷なほど白い包帯に、恐る恐る触れてみる。そして意を決したように、勢いよく無造作に取り去った。
手鏡に映った大雅の左目は、ただの黒い眼窩だった。どこまでも暗い、深淵のようなそこに、大雅の眼球は存在していなかった。
「俺の目は――……」
「見ての通りだ」
その声が、大雅の思考を漂っていく。それだけだった。漂っていくだけで、受け止めることさえもできなかった。
「どうして……」
理解できなかった。どうして左目がないのか。どこに行ってしまったのか。
「僕が」
静かな声が、大雅の思考に漂いながら流れ去る。
「僕が、お前の目を潰し抉り取った」
鏡矢が言った。ほとんど呟きに近い言葉だったが、それは迷いのない凛とした声だった。
「何言って――」
「言葉の通りだ。僕がお前の目をそんなふうにした。お前の左目を失わせたのは、僕だ」
兄の言葉を、大雅は信じることができなかった。しかしその言葉にこもったものは、それが事実であると如実に表しているように思えた。だとしても、信じることなどできなかった。
「何言ってんだよ。どうして、兄ちゃんがそんなことしなきゃならない?」
自分の左目を、鏡矢が簡単に潰してしまうなどありえないことだった。喧嘩ばかりして学校もさぼりがちな大雅とは違い、鏡矢は真面目な少年なのだ。常に考えてから行動する性質を持っている。だからこそ大雅には、鏡矢の言葉を信じることができないのだ。
「お前が死者になってしまうからだ」
死者。それが、ただの死者でないことを大雅は知っていた。
この世に未練を残してその命を終えた者は、時折動く死者となって甦ることがある。それは、本物の死者になるために生者を喰らうだけの化け物だ。死者となって一番に見た者を喰らおうとする、哀れな死人だ。それから逃げ出すには、死者を殺すか自分の身を差し出すか、二つに一つしかない。
「俺が死者になるって? そんなこと、本気で言ってるのかよ」
「お前は下校中に死者に見入られ捉えられた。そこから逃げ出す方法も、それが何を意味するのかも、お前はわかっているだろう?」
「だからって、俺の目を潰したって言うのかよ。抉ったってそう言うのか!?」
兄はきっと、自分を助けようとしたのだろう。そのことは、鏡矢に比べて頭の悪い大雅にもわかっていた。しかし、存在しない左目に対する衝撃は大きすぎた。それを前にしては、戸惑いを拭うことなどできるはずがなかったのだ。
「ちゃんと、俺にもわかるように言えよ!」
「大雅、ちょっと落ち着いて……」
今まで動揺し沈黙していた杏凪が、大雅を押さえるようにその肩を摑む。しかしその手を、大雅は荒々しく振り払った。兄である鏡矢を、殺意のこもった目で睨みつける。
「兄ちゃん!」
「わかることは、一つだけだ」
静かな声が、鏡矢の口から零れた。
「僕が大雅の目を失わせた、それだけで充分だろう?」