2.少女と老人
少女は横断歩道にいた。歩行者信号は赤色の光を発している。目の前を車が次々と行き交い、少女は信号が変わるのを待っていた。
ふと、横にいた老人に目がいった。まるで吸い寄せられるように、少女は老人を見てしまった。その老人はどこにでもいそうな髪の薄い痩せこけた老爺で、別段変わっているとは思えなかったのだが、少女は老人から目を逸らすことができなかった。
そして、老爺も少女を見た。少女はこの瞬間に気付いた。老人が、生ける死者であることを。だがもう遅い。老爺はニタリと嗤った。少女の身体に、いっきに鳥肌が立つ。
逃げなければと、少女は思う。しかし信号機は、未だ赤いランプを灯している。
生ける屍に見入られれば、助かる術は二つしかないことを少女は知っている。逃げることが無駄な足掻きだということは、少女自身がよくわかっていた。彼らは死者となって最初に見たものを喰らう。そのためには、追いつけないことなど気にはしない。標的の家の前に居座り続けてでも、狙いをつけたただ一人の生者を喰らおうとする。たとえそれに、何十年のときを必要としなければならないとしても。既に死んでいる彼らには、そんな時間さえも関係ないのだ。
老爺は近付いてくる。ゆったりとした足取りで。少女を喰らうことを、愉しむように嗤笑しながら。少女はただ後ずさることしかできない。殺すための武器など、少女は持っていなかった。
その瞬間、信号の色が緑に転じた。少女はそれを見ながら、この生ける屍から逃げ出す策を思いついた。残酷なやり方だが、そうするしか生き残る術はない。
少女は視界の隅で信号を確認する。後退しながら、それでも信号を認識し続けた。緑色のランプが、ゆっくりと点滅を始める。少女はそれを見て走り出した。突然動きを変えた少女を、老爺がゆったりとした足取りのまま追おうとする。愉楽の表情を浮かべたままに。
老爺がやっと横断歩道の中程まで来たとき、信号機は無情にも再び赤色へと変わった。車輛用の信号機が、緑色のランプを点灯させる。止まっていたトラックが、ゆっくりと前進した。
老爺の身体をトラックが撥ね飛ばす。叩きつけられる、老人の痩せた肉体。少女はその作り出した事故の光景を、渡りきった道の向こう側から見ていた。少女の顔に浮かんでいたのは安堵の表情などではなく、哀しみを湛えた眼差しだった。
自分の身を守るための行動だったとはいえ、この瞬間少女は、自分が人殺しだということを確かに自覚していた。