星の王子には出会えない
「ねえ、幽霊って信じる?」
この部屋に引っ越してきた時に買ったお気に入りのソファー
それに仰向けで寝っころがりながら菫は僕に聞いてきた。
「んー、まだ信じてないかな」
台所でヤカンに火をつけた僕はコーヒー豆の入った瓶を探しながら答えた。
「えー。なにそのまだって表現」
菫は手に持っていた本の読んでいたページを見失わないように人差し指を挟みながら閉じた。
頭を乗せた肘掛の部分から更に乗り出して、まだ豆の瓶が見つからない僕を目で探す。
「僕は実際に見たものを基準に信じるからね」
瓶は見つかったが中に豆は入っておらず、今度は詰替用のパックを探す。
「つまり、幽霊を実際に見たら信じるようになるってこと?」
寝ていたソファーの上で落ちないようにモゾモゾと体の位置を整えながら、今度はうつ伏せで肘掛に顎を乗っけるポーズで菫は突き詰めてくる。
「まあ、そうだね」
ようやく豆の詰め替えパックを発見した僕は、そこらへんにあったキッチンハサミでパックを開けた。
既に挽かれているタイプの豆を零さないように、かつ目一杯入るように瓶を微妙に振るとコーヒーの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「うわー、なにそれ。明らかに後出しじゃん。まさにザ・日本人の模範解答ね。事無かれ主義者の答えだわ」
まるで自分こそ日本人の悪い部分を発見した自称・グローバル人の言い分だ。
そんな菫は放っておいて、僕はドリップペーパーを取り出して一人分のコーヒー豆を注ぐ。
ちょっと自分が優位に立ったような心地の良い勘違いをしたすみれの質問はさらに続く。
「ねえ、宇宙人っていると思う?」
「いると思う」
その肯定は菫にとってとても意外だったらしく、好奇心で少し瞳孔が広がった目を輝かせながらソファーを腹這いで肘掛から身を乗り出してくる。
「え、何。宇宙人見たことあるの?」
「いや無いですよ」
「じゃあ、UFO!?UFO見たことあるの?」
さらに質問のラッシュは続く。
もうソファーから降りてこっちに向かってくる勢いだ。
「いや、それも無いね」
「じゃあじゃあじゃあ、ひょっとして・・・君の正体が宇宙人なの?」
「違います」
そんな訳無いだろう。
「じゃあ何?自分の見たものしか信じない君が宇宙人の存在を信じるなんて・・・納得のいく説明を要求します」
別に見たもの"だけ"を信じてるとは一言も言ってないんだけどなぁ
度重なる否定に業を煮やした菫がついに僕の目の前まで来て仁王立ちの姿勢だ。
その姿は宛ら敏腕検事。
「まあ、落ち着いて」
ちょうどヤカンのお湯が湧いたので、コンロの火を止めて鍋敷きの上に少し置く。ここがポイント。
まだ不満顔が治らない菫をダイニングのテーブル席に促して、僕は求められた説明に移る。
「今さ、ここに僕と君がいるだろう?」
「うん」
「それが理由」
面白いほどに拍子とか間とか色んなモノが抜けた菫の顔に満足しながら、いい具合の温度になったお湯をコーヒー豆に注ぐ。
ここでのポイントは出来るだけ注ぐお湯を細くすること。
さらに、もし出来るなら注ぎ口の細いキャトルを普段使うヤカンとは別に用意しよう。
「つまりさ、この広い宇宙で地球が生まれて人類が生まれて、ここに僕らがいるわけじゃない?」
「う、うん・・・」
細い線になったお湯を豆が吸い込む。
豆の膨張と同時にダイニングを豆の香りが広がっていく。
「でね、宇宙は無限に広がってるとしたら、地球と同じような星があると思うんだ」
「うーん・・・うん」
一回お湯を入れたら一分間放ってく。
膨れた豆と膨れた頬の菫を交互に見ながら彼女の理解が追いつくのを待つ。
「だからさ、この宇宙のどこかには宇宙人はいると思うんだ」
駄目押しの結論でようやく菫は納得したみたいだった。
「うーむ、なるほどね。でも聞けば聞くほど日本人的な理屈っぽい意見ね」
菫の目と、膨れた豆に現れた無数の気泡がまるで昆虫の複眼のように僕を睨む。
納得はして頂けたみたいだが、結局僕は菫にとってネガティブな印象で日本人という烙印を押されてしまった。
なんなんだ彼女の変なグローバル思考は。
「でも地球に来れる距離には居そうにないね」
一分経ったコーヒー豆にまたお湯を注いでいく。
ここから先は豆にお湯が浸ってる状態を絶やさずに入れ続ける。
円を描くように。
「だからきっと居たとしても出会えないと思うよ」
お湯を豆に注ぎ終わった僕は、余ったお湯でマグカップを温めておく
出涸らしになった豆はゴミ箱に捨て、コーヒーをガラスの容器から鉄のヤカンに移し替えた。
ほんのちょっとだけコンロで温める為に。
絶対に沸騰させないのがポイントだ。
「いや、私はそうは思わないわ」
僕がシンクにマグカップのお湯を捨てていると、嫌に自信を持った声がした。
「私は自分の運命の人が宇宙人だったとしたら絶対に出会うわ。いや出会えるはずよ」
なんだそれは。
「あ、笑ってるわね」
そんな眉一つ動かせないでいる僕の顔とは反した言葉を投げかける菫。
でもその言葉は何よりも正確で、僕は確かに笑っていた。
「いや、菫ならできるよ」
ほんの少しだけ温め直したコーヒーをカップに注ぐ。
「信じてないわね」
いや、その言葉ははずれだった。
僕は菫が出来ると言ったらやってしまう女だと知っている。
「菫ならできるよ。僕が保証する」
出来上がったコーヒーを差し出して、僕の方は冷蔵庫から炭酸飲料を出した。
「いいわよ。もし運命の人が星の王子様だったとしてもあなたには止めることはできないわよ」
とんでもない言葉が飛び出してきたぞ。
「星の王子様が私の所に来てシンデレラへの求婚みたいになったらどうするの?そうしたらあなたは星の王妃様の元カレよ。すごいじゃない!」
名誉なのか不名誉なのか全くわからない称号を付けられそうになっている。
「じゃあ、暴露本でも出そうかな。星の王妃の暴露本」
「無理よ、あなた文才がまるで無いじゃない」
酷い言われようだ。
「はぁー。なんでだろう」
一口コーヒーを飲んだ菫が呟く。
「悔しいなぁ。なんであなたの淹れたコーヒーは美味しいんだろう」
またその話か。
「君はせっかちすぎるんだよ」
お湯はドバドバ入れるし、豆の膨らませ方は下手だし、豆ケチってるくせにお湯多く入れるから薄くなるし。
「んー、確かに私は下手だけどさ。でもコーヒー嫌いな人が自分より美味しいコーヒーを淹れてるって納得いかないじゃない」
そう、僕はコーヒーが苦手だ。
唯一飲めるのがとびっきり甘い黄色い缶のヤツぐらい。
しかもそれを牛乳で割って飲む。
「こんなの本で見た手順を真似てるだけだよ」
「それでもさぁ、なんて言えばいいんだろう。こんなに美味しいコーヒーを自分で飲まないし美味しさも知らないなんて勿体ないし不条理よ」
不条理とは。
不条理の塊のような理屈しかこねない女が僕を不条理だといった。
適当に聞き流しながら喉に流し込む炭酸水は程よく気が抜けていて
わかりやすい甘さが好きな僕に繊細な苦味を理解できる理由など最初からなかったんだ。
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「さて、今日はそろそろ帰るよ」
「うん。ありがとうね」
コーヒーはまだヤカンにあるから温めれば一晩はもつだろう
帰り支度をしてると菫はパソコンの前に座っていた。
「また徹夜かい?」
「うん」
「体に悪いよ」
「わかってるけど、この締め切り前の切羽詰た感じが好きなの」
「わかるよ」
お互いにどうも体に悪いことが好きな性分らしい。
今、菫は作業中に音楽を聴くために大きめのヘッドホンをつけようとしている。
彼女がヘッドホンをつけて音楽を流せばそこから先はずっと彼女だけの世界だ。
「じゃあ、おやすみ」
これから寝ずに仕事をする人に全く見当違いな挨拶を送る。
「ええ、おやすみ」
それでも菫は僕におやすみと言ってくれた。
子供を寝かしつける母親のようなおやすみだ。
手荷物を持った時にまた菫の方を振り返ると
その時には既にヘッドホンは装着されていて、僕とすみれの世界は完全に遮断されていた。
終電なんてとっくに過ぎた線路沿いをぴったり一駅分歩いて帰る。
都心と言われるこの辺りでも空気が白くなるほど寒くなれば星もある程度見えるようになる。
あの星のどこかに菫の運命の人はいるのだろうか?
しかし、ここで僕はふと疑問に思う。
運命の人とはなんだ?
出会うべき人か?
将来結婚する人か?
結婚はしなくとも愛し合える人か?
どうとでも解釈できる運命の人という言葉。
極論で言い換えれば"出会わない運命"の人って意味でもいい。
星の王子様とは出会えない
そんな約束のはずだ
僕は菫にとってどんな運命の人なんだろう?
菫のために何がしてあげられるだろう?
僕はきっと答えが出ないまま、自分でも美味いのか不味いのか分からないコーヒーを淹れ続けるのだろう。
そして菫はそれを美味しいと言ってくれる。
自分では全く味が分からない男の淹れたコーヒーが美味いなんて誰が想像できただろう
そもそもコーヒーが苦手な男がコーヒーを淹れる機会に出くわしたとなれば
それは十分運命と言える出会いなんじゃなかろうか?
僕は痺れるような寒さの線路沿いで、甘ったるい自惚れで心を温めるように家路を歩いた。