第一章 白の少女 その04
一色は自分の意志と言うものに自信がなかった。
七海の病室に通い続けているのにも、何か特別な意味があるわけじゃない。
明確な言葉があったわけじゃないけれども、七海に請われたから、通い続けているのだと、それ以上の意味はない。
いつか七海が、本心から「もう来なくても良い」と言えば、きっと自分はあっさりと病室に通うことを辞めて、七海とは何の関わりのない、新たな日常を過ごすようになるだろう。そしてそのことに、きっと何も特別な感慨を抱くことはないのだ。
意志が弱い。
七海の病室に通っているのは、強固な意志があるからじゃない。
むしろその逆で、何も決めていない、決められない、決意をしていないからこそなのだと、理解していた。いや、少なくとも、そうだろうと考えていた。
だから相手にしないでおこうと決めたはずの椎子の態度にも、ついつい反応してしまう。
そして乗せられたまま、あっさりと相手の思惑に従ってしまう。
待合室の中、陰鬱とした悔恨にも似た気持ちを抱くのは、これから椎子が一色に告げようとする内容を、何となく理解しているからなのだろう。
七海の病状。きっと、それに関する話。
本を読みながら椎子を待つ。
けれども気懸りが大きすぎて、上手く内容が頭に入ってこない。
気付けば一章を読み終えていて、しかし話の筋が全くわからなくなっていて、始めから読み直す。その繰り返しで、まったく進まない。
七海のために借りてきた海外翻訳物のファンタジー小説。少年と少女が出会い、巨悪から逃亡する物語。
七海が面白いと言っていたから、面白いに決まっている。経験上、それは確かなことのはずなのだ。
けれどもこんなに他のことに気を取られていては、面白いはずのものも面白く感じなくなってしまう。
深く息を吐いて本を閉じる。
「やあ、酒々井くん。今日も姫のお見舞いかね?」
一色が本から目を離すのを待っていたのだろう。声を掛けてきたのは、お互い病院の常連であり、すっかり顔なじみになってしまった男性だった。
その言葉に悪意は無いが、ほんの少しの揶揄を感じてしまう。
『姫』と呼ばれたのはもちろん七海のこと。市内随一の大病院の病棟、最上階の一部屋を独占し、五年も過ごしている。そういった表面的な要素は、七海に大金持ちのお嬢様、と言ったイメージを重ねさせてしまっていた。実際のところ、この病院は市民病院だし、運営するのは光花市自体だったりもして、半分公的な機関でもあるので、お金を積んだからといって豪華病室一人部屋を用意、なんてことはない。七海が一室を与えられているのは、その病気の特殊性にあった。特別な病気持ちゆえの、特別な対応。その対応について、七海が何を感じ、何を想っているのか一色は知らない。だから語ることもしない。
「見舞いはもう終わって、高嶋さん待ちですよ」
「……高嶋さん?」
「ほら、高嶋椎子さんです。看護師の」
「ああ、あの能天気な」
何だかあんまりな言い草だった。名前は憶えられていなくても、能天気な看護師で通じてしまうとは。
しかし常連の男性は七海に対してだけではなく、椎子にも、誰にでもちょっと毒の入ったような、悪意の入ったような物言いをしてしまうようだった。
なんでそんな言い方ばっかりなのか、当然一色が知るはずもない。だから言及はしない。ただ少し、かわいそうだと、考える。想いはしない。ただ考えるだけ。
「あ、いっくん! 七海ちゃんの検査、終わったよ!」
そうして大声で能天気な声を上げながら待合室に入ってくる看護師。
直後、年かさの看護師から「高嶋さん! 他の患者さんもいるのです。静かにしなさい!」などと叱られたりしながらも、どこか楽しそうにも見える高嶋椎子。呆れたような視線が、待合室に広がっていた。
一色は、ため息をつく。
一色は知らない。
七海の正式な病気も、病状も。だから何も語らないことができる。さすがに付き合いの長さから、想わざるを得ない、想いもあるけれども。それでもあえて踏み込まないことができていた。けれども、予感があった。
たぶんそれも、今日これまでのことなのだろう。
視線が合うと椎子は不意に表情から笑みを消した。
「相談室借りてるから、行こうか?」
そうして珍しく、無邪気ではない作った笑みを見せながら一色に手を差し伸べてきた。
一色は苦笑しそうになる表情を抑えて、頷いた。
その日一色は、漣七海の、正式な病名と、余命を知った。
自転車を押しながら一色は歩道を歩く。
一色の家は市内の北側、十キロ以上も離れた場所にあり、歩いていくにはとても時間がかかりすぎる。
自転車に乗って、スピードに乗って、風を切って走れば、陰鬱に沈みそうなこの気持ちも少しは晴れるだろうことはわかっていた。
けれどもどうしても、何かとても重たいものが背中に乗っているような気分になっていて、自転車にまたがる気力が生まれてくることはなかった。
とぼとぼと見慣れた道を行く。
市内中心部から離れ、光花城前公園広場の南の道を歩き、堀に沿って北へと曲がり、県道沿いに北上する。
だいぶ日も傾いてきていて、あれほど強烈だった太陽の光も力を弱め、すごし安くなっていていた。風はやや向かい風。山の方から吹いてくる風は、程よい冷気を含んでいて心地よい。けれどもそれも、一色の気分を浮上させる力にはなっていなかった。
考えるのは七海のこと。
七海の病気のこと。
七海はいつも、病室にいる。
五年も、白い病室から出られないでいる。
それは大病の証。
いつも見舞いに行ったときは元気そうに見えたからこれまではほとんど気にしては来なかった。
ちょっとした風邪がひどくなっただけ。ほどなく退院して、日常生活を送れるだろう。最初は、そう思っていた。
七海は一度も病人らしいところを見せたことがなかったから、なおさらだった。
けれども一色は、気付いている。
思い返せばこれまで一度も、ただの一度たりとも、七海の口から『退院』の言葉が出てきたことがないことを。
それは、その言葉が存在しないことを、七海自身がよく知っているからなのだろう。
そしてもう一つ、出てこない言葉があることに、最近気付いた。
それは『手術』。
その言葉を一色は、七海からも、主治医の式宮湊人からも、専属看護師の高嶋椎子からも聞いたことがない。
その選択肢が存在しないから。
それは、七海の病気が、解決手法の存在しない、未知の、そして不治の病であることを意味しているのではないか?
うん、その通り、だった。
一色は今日、自分の想像が正しかったことを知った。
だからといって嬉しくなんかない。嬉しいなんてこと、あるはずがない。
できれば外れていてほしかった想像だった。
『あの子、このままだともう、長くないの』
なぜ一色にそれを告げられたのか、理由はまるでわからない。
一番の友達だから?
ならば、もう一人の友達、湟野縁狩にも伝えるべきだろう。
七海はこのことを知っているのだろうか?
もちろん、きっと知っている。
七海のいつも変わらない、無邪気で、子供っぽくて、しかしどこか泰然とした、何もかもを受け入れているような自然体な態度は、きっと知っているからできることなのだ。
そんな自分に対して、七海は何を望んでいるのだろうか?
七海が自然体なのは、すべてを諦めているからなのだろうか?
わからない、わからないけれども。
白い部屋、白い病室、白い服。
一色の中で、七海の姿はいつも白の中にいる。
漣七海という、名前の印象からはどこまでも青い海を想像しそうなものなのに。一色の中では、七海の色はただ白の一色だけだ。
そこに以前から漂っていた強い死の気配。
それが具体的に、空気に隠れていた匂いが表に滲み出るように。
はっきりと、濃く、漂い始めて来た。
その死の匂いは白の色と結びつく。
だから、と言うわけでもないのだけれども。
今まで通りの日常を続けていこう。
そう想った。
それが、一色に対して変わらなかった、七海の希望だろうから、と想像して。
なんとか気持ちに折り合いが付いたような気がして、一色は深々と息を吐いく。「よしっ」と呟いて、自転車にまたがった。病院を出た時間は普段とそんなに変わらないが、あまりにもゆっくりと歩きすぎていて、遅くなってしまった。このままでは夕飯の時間までに間に合わないかもしれない。
そして自転車をこぎ始めた、その刹那だった。
視界の隅に、白い何かを見たような気がした。
その色が『白』でなければ気に留めることはなかっただろう。
白は七海の色だ。七海の周りにある、七海の部屋の色だ。
けれども今日の七海は、折り紙のせいで意味不明なまでに彩られていて、白ではなかった。
だから今日の一色は白不足だった。
七海に会いに来たというのに、白に浸ることがほとんどなかった。その事に物足りなさを感じていたのか、どうか正確な所は一色自身にもよくわからない。
けれども、実際の行動を後になって分析すれば、きっとそうなのだろう。
だからこそ『白』が視界を過ぎった瞬間、足を止めてしまったのだ。
咄嗟に、出会うはずだった白の、不足分を埋めるように、その色を渇望したのだ。
そんな理由は、訳がわからない。意味不明だ。全然整合性の取れた理屈なんかじゃない。
一色自身もそう思いながら、なぜかその言葉が非常にしっくり来るように感じられた。
ビルとビルの間に見えた白の何か。
わざわざ自転車の向きを変えて、戻ってまでその正体を確認しようとしたのは、気紛れと以外に言えるものがない。
白い、何かが落ちていた。
灰色の石畳の上、高いビルに囲まれて日中だというのに少し薄暗い感じのする路地裏。
また陽の光が遮られ、隙間を縫うように風が駆け抜け、ほんの少し、涼しさすら感じさせるその場所で。
うずくまるように、白い服を着た人影が倒れていた。
「はあ?」
人が倒れているなんて状況は、普通に生活していればまず遭遇することがない、最も身近な非日常の情景と言えるかもしれない。
だから一色は、その状況が何を示しているのか、理解するのに一拍の刻を必要とした。
その理解するまでのわずかな瞬間、漏らしたような疑問符は、何だか自分のものではない、何か他のものが出した声のように一色には感じられた。
そうして理解した瞬間、一色は駆け出した。
「お、おい、大丈夫か!」
慌てて白い服の人に触れようとして、一色は躊躇する。
近づくと判る、その人の様子。
白かった。
真っ白の、純白の、他に何の装飾もされていないゆったりとしたワンピースを、その人影は身に纏っていた。
白一色。
清潔感をもたらす色ではあるのだが、現実社会で白一色のみで構成された服を着ている者なんて、まず見ることがない。
スーツとかでもそんなコーディネイトはあるけれども、そんなのを着るヤツなんて、よっぽどの自信家だと一色は思う。
何か単一の色のみで自らを装飾するなんて、例えば自らの結婚式だとか、何かのパーティの主役だとか、よっぽどのことが無い限りすることはないだろうし、何より目立つ。当たり前のように街中で、普段着のように着るなんてありえない。
白のワンピースから、白っぽい綺麗な手足が真っ直ぐに伸びていた。その人は少女だった。一色や七海とたぶん同じくらい、つまり高校生くらいに見える。
足の先には白い靴下と、やはり白い靴。すべてを徹底的に白で統一させようという、その服には強烈な意図が感じられた。だから何かの衣装なのかと、一色は思った。
その顔は整っていた。
目を閉じて、苦悶に歪んでいる表情は、しかしとても綺麗だと感じた。
髪の毛の色は黒く、真っ直ぐで、背中を丸めた少女の白い背中で扇のように広がっていた。
「……う、くぅっ」
少女が小さくうめき声を上げた。
漏れた響きはとても小さかったけれども、真っ直ぐに一色の鼓膜へ飛び込んで来て、脳髄を揺さぶった。
響く、少女の声が響く。
やがて少女は薄らと目を開けて、一色を見た。
刹那、刻が止まった、ような気がした。