第一章 白の少女 その02
切っ掛けは、覚えている。
――いや、正確には少し違う。
その時どんなやりとりがあって、誰がどんな言葉を交わして、どのような経緯を通りその行為に至ったのか、一色はもはや記憶していない。
けれども知識としては、おおよその経緯を知っている。
確かに自分がかつて経験したはずの物事は、すでに記憶の彼方へと霞んでしまい、明確な情景として思い返すことはない。
けれども知識としてどのようなことがあったのか、覚えている。
思い出すことはなくとも、知っている。
それはその出来事がもう思い出などではなく、主体的な感情の宿らない、ただの情報と化していることを意味するのだろう。
小学校の五年生――確か季節は秋だったと思う。
クラスメイトの少女――漣七海が病気で入院した。
――お見舞いに行こう。
どこの誰が言い出したのか、もはや忘れたその言葉は、今でも一色の耳に残っている。
いやひょっとすると記憶していると思い込んでいるその言葉すら、後日ねつ造した、偽りの記憶なのかもしれない。
けれども細かな文節やシチュエーションは違えども、ともあれそれと似たようなことをどこかの誰かが言い始めて、そうして物事が動き始めたことだけは、きっと確かなことなのだろう。少なくとも現在の状況の始まりを考えれば、それ以外に無いように思われた。
クラス全員で見舞いに行くのは迷惑だろうということで、いくつかのグループに分けられた。
一色は水曜日のグループにいた。
七海とはクラスメイトではあったが、当時の一色はそれほど親しくしていたわけではなかった。
というか、水曜日のグループには、七海と特に親しくしている人は居なかったように思う。そういう人はだいたい固まっていて、たぶん月曜日辺りに行ってたんじゃないかと思う。やはりその辺りの記憶も曖昧で、よく覚えていない。
一週目のお見舞いの時は、何事も無く終わったような気がする。
二週目の時には、あまり親しくしていなかったこともあって、もうすでに見舞う方も、見舞われる方も互いにぎこちない緊張感が出始めていたような気がする。
三週目の時は、誰かが『今日は行けない』と言い始めていた。
四週目の時は、人数が半減していて、五週目の時にはもう一色一人だけだった。
一人になっても一色は、毎週見舞いを続けていた。
本当に他の用事があった時もあったが、それでも無理やり時間を捻出して毎週欠かさず、七海の様子をうかがい続けた。
そこに何か、特別な理由があったわけではない。
お見舞いに行く理由はほとんど無かったが、それ以上にお見舞いに行かない理由もなかった、ということなのかもしれない。
六年に進級してしばらくたった辺りのこと。
本当にどうしても外せない用事があり、一週休んで次の週に見舞いに訪れた時、七海はひどく意外そうな表情をしていた。
「……どうして来たの?」
今週は別に来ないとも言っていないのに、なぜそんなことを言われるのかわからず首を傾げる。
「ふうん? 酒々井くんって、意外と単純な性格なんだね?」
「なんだそれ?」
馬鹿にしているような口調ではなかったので、素直に問い返した。七海は少し呆れたように息を吐いた。
「先々週のセリフ。『来週は用事があるから来れない』って言ってたでしょう? 遠回しに『もう来ない』って言ってるのかと思った」
「もう来ないんなら、ちゃんと言うよ?」
「……そうなの?」
「うん」
どうにも辿々しい、手探りな会話だったように思う。
相手がどのように反応するのか、相手がどのような形の心をしているのか、互いに暗闇で、手探りで確かめていっているような対話。
「……そっか。んで、来週は、く、来るの?」
「ん、特に用事はないからね」
相手に触れて、触れた感触に驚いて飛び退いて、だがすぐに再び近づいていく。
「じゃ、じゃあ、本、借りてきて! 図書館で! か、借りてきて、くれない……かな?」
その言葉に対する返答は、少し遅れてしまった。
図書館、と聞いて思い浮かんだのが中央図書館で、家から学校までの距離、学校から中央図書館までの距離、中央図書館から市民病院までの距離、市民病院から家までの距離が次々と頭の中に浮かんできて、その所要時間がかなり無視できない数値を示していたからだった。
「え、えっと…………だ、だめ?」
上目遣いで恐る恐る訊いてくる七海の不安そうな表情に、思わず鼓動が跳ねた。
「いや、大丈夫。うん、問題ないよ。本って、何を?」
――それ以降の会話は省略する。
特に重要でもなければ、ぎこちない、あまりテンポも良くない日常会話にすぎないからだ。
借りた本が何だったのか、夏樹はよく覚えていない。
海外の翻訳モノのファンタジーだったと思うが、それはそのジャンルを七海が特に好んでいたためにそのように思い込んでいるだけのような気がする。
ともあれこの時から一色は、七海と友人になったのだと思う。
一週間に一度の訪問だったのが、他の曜日担当だった人たちからも押しつけられて、徐々に日が増え、気づけばほぼ毎日になっていた。
七海を見舞う人間がもうほとんどいないと気づいたのは、いつの頃だろう?
少なくとも小学校を卒業する頃までは、月曜班の連中は通っていたように思う。しかし中学校へ進学し、生活環境も変われば、過去を忘れるのも早い。
中学に入って一月経った頃には、七海の元に訪れるのは一色と湟野縁狩、二人しか残っていなかった。
一色は思う。
もし――もしも、七海が病気にならなければ、一色と七海は友達になることはなかっただろう。
お互いがただ、一時を共にした、その他大勢のクラスメイトの一人としてだけ認識していて、そして忘れていくような、そんな関係に終わっていただろう。
何かの皮肉のようだ、と思う。
七海と友達になったことは喜ばしいことだ。少なくとも、嫌なことではない。けれども、不幸を端に発しているという事実は、まるでそれを喜んでいるように感じてしまい、罪悪感によく似た後ろめたさを浮かび上がらせてくる。
市民病院へ向かう自転車を漕ぎながら一色はぼんやりと考える。
しかし同じ理由を一色と縁狩の仲に適応することができないのはいったいどういうことなのだろう、とも。
ともあれその時からずっと一色は、七海のために中央図書館へと寄り、市民病院へと見舞いに向かうことを続けている。
七海のため、とは正確なことを言えば少し違う。
借りる本の選別は一色自身に委ねられていたし、七海が読んだ後にだが当然それらを一色も読むからだ。
元々一色と七海の好む本の種類は似通っていたのだろう。
一色が面白いと感じた本は七海も面白いと感じ、つまらないと感じた本はつまらないと感じた。
つまらない本を借りてきても、七海は一色に対してほとんど文句を言うことはなかった。本の中身についての文句は口にするが、それには一色も同調するので、それはそれで会話も弾むのだった。つまらない本を読んでもそれに対する文句で友達と盛り上がる。そんな発散方法でつまらない本に時間を費やしてしまった元を取っている――そんなことも考えたりもした。
七海の病室でただ互いに本を読んで過ごすだけの日も多い。
つまりそんな感じの七海と一色は読書友達であるわけなのだが、縁狩はいったい何なのだろう。
一色の行けない曜日は七海と縁狩はよく二人で遊んでいるらしいのだけれども、どんな遊びをしてどんな会話をしているのか一色は知らない。
七海と一色が本に関して話している時でも我関せず病室の隅で机を借りて宿題をしていたりするし。三人で何かをするってことは皆無に近いし、七海も特に一色と縁狩の仲を取り持つようなことはしなかった。一色の前にいる時の縁狩は、兎に角無口無表情で、一色との一切の交流を断とうとしている。少なくとも一色にはそう見えている。
これまでにも幾度も考えたことと同じ事を頭の中で転がしながら一色は自転車を漕ぐ。
いつものように結論は出ない。
焦って出す必要もないことだとは思うのだけれども、いつも釈然としない気分だけが残る。
だからこの日も、これ以上考える事を止めて、無心で自転車を動かした。
途中で交番の前を通る。
『今月の交通事故死者数 〇人』
大きな看板の文字が、なぜか目に付いた。
誇らしげな大きな数字。
とは言っても今月に入ってまだ一週間も経っていない。
前からこんな看板ってあっただろうか。あったにしても、こんなに堂々と飾るようなものなのだろうか。〇人は確かに誇れるだろうけれども、一人でも出てしまえば色んな所から非難が集まるだろう。だから今まで見たことがなかったのかもしれない。
自転車で足早に通り過ぎたために、どういう意図で掲げられた看板なのかまではわからなかった。
交通事故に対する警鐘を鳴らすためのものなのか、もしくは交通事故死を〇に抑えている、警察の業務を誇るものなのか。
交通事故死が無いのは警察の手柄とはちょっと違うだろう。
安全運転の警鐘が上手くいってるってことはあるかもしれないけれどさ。
それだって警察だけの手柄ではなくて、もっと教育とか、社会性とか、車の安全性能の高さとか、社会全体の手柄ってことじゃないだろうか。
それを警察の手柄みたいに公表するのはちょっと違うと思う。看板をじっくり眺めたわけじゃないから、そんな意図で立てられた看板かどうかはわからないけれども。
自転車は並木通りを抜けて病院前の通りへと出る。
さすがにこの通りはメイン通りにも繋がっていて、人通りも多くなり、自転車の速度も落とさざるを得ない。
例えば――同じような看板が、病院の前にあったらどうだろう。
『今月の死者数 〇人』
どん引きも良いところだ。
腕の良い医者がそれだけ多いってことかもしれないけれども。それで死者が出てしまった日にはどれほどの非難が降り掛かることやら。誇っても良いことなのかもしれないけれども後のことを思えば決して堂々とは掲げられない数字だろう。
もちろん病院にはそんな看板はない。
それどころか病院の名前自体も、正門の傍に石造りの看板があるだけで――それも安山岩に彫り込みだけで『光花市民病院』と記されているだけで――まったく目立たない。遠目に見れば安山岩の暗い色調に紛れてしまい、彫り込みだけの文字なんて見えなくなってしまう。
病院の裏門から入り、脇の駐輪場へ自転車を駐める。
ここでも駐輪場は建物の影になっていて、緩やかな風が吹いていて心地良い。
軽く息をついて、サックから水筒を取り出してお茶を飲む。
水筒の中身はもうあまり残っていない。自販機でペットボトルのお茶でも買おうかどうか迷いながら、ほとんど無意識の動作で自転車に鍵を掛けると建物に入っていく。
バリアフリーの通路を通り、自動ドアを開けるとロビーに出る。市民病院は人が多い。人が多いというのにどこか抑えられた気配が漂っていて、騒がしさは全く無い。病院特有の気配、というやつなのだろう。半数はきっと病人かけが人か老人なのだし。
一色は足早に通路を抜けて、建物の奥へと向かう。
入り口から奥は入院棟。
ナースセンターのカウンターで、書き物をしている女性と目が会う。顔は記憶にあるけれども名前の知らない看護師。軽く会釈をすると、相手も一色に見覚えがあったのだろう。軽く微笑んで、すぐに書き物へと戻っていった。
ほとんど顔パスに近い状態。奥のエレベーターへと向かうと、ちょうどドアが開いて、おじいさんがゆっくりと下りてくるところだった。下りるのを待って、ドアを押さえながらエレベーターの中へと入り、十階のボタンを叩き、扉が閉まるのを待つ。
エレベーターは止まることなく登っていき、十階へと辿り着く。
軽い音を立てて扉が開く。
エレベーターから出ようとしたその時、目の前の人影とぶつかりそうになり、慌てて飛び退く。
十階のエレベーター前に、乗り込もうと人が待っていたのだ。白衣を着た相手も、ぎょっとしたように目を丸くしていた。
その顔を見て、一瞬硬直する。ややくすんだ金髪に、青い瞳。彫りの深い顔立ちは、明らかに日本人ではなかった。
一瞬警戒心が沸いてきて、それは悪い癖だと思い直す。
黒髪黒瞳のモンゴロイドではない。それらを日本人ではないと思い込むのは日本人の悪い癖だ。帰化した日本人だとか、他にも色々と理由があるかもしれない。けれどもまあ、自分と違うモノを、差別……とまではいかなくとも『違うモノ』とレッテルを貼ってしまうのは、良くも悪くも――いや、悪い場合が多いのかもしれないが、それこそ『日本人』なのかな、と思ってしまう。――と、考え込んでいる場合ではなかった。
「し、失礼します」
頭を下げて、慌てて横を通り過ぎる。
白衣の外国人も中に人がいるとは思っていなかったのだろう。やや大げさな風に身を捩らせて、一色の通る道を作ってくれる。
すれ違う瞬間、冷気のようなものを一瞬感じた。
悪寒に似た、何か嫌な空気を感じたのだが、一色は通り過ぎることを優先して、何もしなかった。
けれども二、三歩いて足を止めて振り返った。
エレベーターの閉まる扉の向こうに、こちらを冷たい目で見てくる白衣の姿があった。
冷たいと思ったのは、瞳が青かったからだろうか。
白衣を着ているから医者なのだろうけれども、見たことのない顔だった。
光花市も一応国際平和都市とか自称している身の上だ。外国の人もよく見るようになったとはいえ、圧倒的に多いのは黒髪黒瞳の日本人。さすがにすれ違えば忘れようもない。週に一度は必ず病院に来ているのだ。大きな病院ゆえにすべてを知っているとは言わないけれども、ほとんどの医者や看護師とは顔見知りになっている。
新しい医者だろうか。
その医者が入院棟に何の用なのか。
留学生――にしては歳がいってるように思う。外国人の年齢はよくわからないけれども、おそらく三十は越えているだろう。
何か違和感があった。
その違和感が何か、一色にはわからなかった。
エレベーターの扉はとっくに閉まり、エレベーターの位置を示す明かりは順調に下の階へと下っていっている。
これ以上考えても仕方がないと思い、一色は違和感を忘れることにした。
エレベーターに背を向けて、迷わず奥へと進んでいく。
一番奥の病室。
五年前からずっと、幼馴染みの友人、漣七海の暮らす病室に。