第一章 白の少女 その01
冷房が頭痛いほど効いた図書館内から熱気溢れる館外へ出た瞬間、突き刺すように下りてきた日差しに照らされて、視界が一瞬暗くなり、体がふらついた。スロープの手すりに身体を預けて、頭を抑える。軽く息を吸って吐くと、目眩はすぐに消えていった。しかし日差しのもたらす凶悪なまでの熱は弱まる様子をまるで見せず、引き続き肌を焼いてくる。絶え間なく降り注ぐ陽光から逃れるように、建物の影へと身体を滑り込ませる。均等に並んだ植え込みの隙間から生温い風が入ってきて、身体にまとわりついてきた。
大きくため息をつく。
季節的にはもうとっくに秋に入っているはずなのに、このところ連日猛暑がぶり返してきているようだ。
太陽を遮るようにして手をかざし空を見上げれば、蒼はだいぶ高くに在る。あと数日もすれば気温はもっと下がって過ごしやすく――
「――なると思うんだけどなあ」
酒々井一色はひとりごちて、天にかざした手を下ろす。
気持ちを切り替えるように首を大きく左右に振って、借りたばかりの本をサックに放り込みながら、図書館裏手の駐輪場へと向かう。
親に少し無理を言って買ってもらったロードバイクには、当然、前かごなる便利な代物は存在しない。少々過剰気味に付けられた幾多の鍵を外し、背中にサックを背負ってまたがる。
駐輪場は建物の影に入っていた。すぐ外のフェンスの向こうは広い車道になっていて、並木の間を抜けてくる風が、良い感じに体感温度を下げてくれる。だがそれでもこれから炎天下を、自転車に乗って行かないといけない――と考えると、ペダルに掛けた足が止まってしまった。
目的地まではそれほど遠い道程ではない。時間にして精々一〇分も掛からないだろう。
けれども降り注ぐ陽光が街路樹を照らし地面に作り出す影の形は、日差しの強さを見せつけるように、やけにくっきりと浮き出ている。アスファルトからの照り返しも強すぎて、離れた日陰の中から見ても眩しさに目が眩むようだった。
天から降ってきた陽光が頭に突き刺さる光景を想像する。突き刺さった陽光が頭の中を掻き回し、目眩を作り出すことも容易に連想できた。浮かび上がった連想だけで、頭が痛くなったような気がする。汗すらも蒸発してしまいそうだ、なんて想像は大げさにすぎるとは思うけれども、兎にも角にも暑い。日向は暑い。きっとすごく熱い。
こんな日は、熱射病で倒れて運ばれて来た人で、きっと病院は混雑するのだろう。
これから向かう先の情景を想像すると、ますます日向に出たくなくなってきた。
「ああ……すっげぇ出たくない」
けれども日光の力が弱まる夕方になるまで待つような時間はないわけで。
一色は深々とため息を零すと、意を決して強くペダルを踏み込んだ。だが――、
突然胸ポケットから響く細かな振動に驚き、足を踏み外してペダルを空回りさせる。
ペダルの端が、勢いよく踏み下ろされたふくらはぎを激しく削り、鈍い痛みがふくらはぎ全体にじんわりと広がった。
「いっ……」
声を抑えて視線を下ろすと、ソックスに縦のほつれが出来ていて、それに沿うように肌に擦り傷が走っていた。傷を中心に、鈍い痛みが熱を伴ってじんわりと広がっていて、傷よりも打ち身によるダメージが深いことを伝えてきた。ここが後に痣となることは確実だろう。何やってんだかと息を吐いて、どこのどいつからだと思いながら胸ポケットから携帯電話を取り出す。振動はとっくに止まっていて、折りたたみ携帯の裏の液晶画面は一通のメールの着信を告げていた。
――湟野縁狩。
液晶画面に映る差出人の名前に一色は首を傾げた。
なんだかひどく場違いな名前が映っているように感じられ、目をぱちくりと瞬く。
長い黒髪の、常に眠そうな目をした、表情に乏しい地味目な少女の顔が、頭の中で浮かび上がる。
小学校の頃から付き合いのある、幼馴染みの少女だった。
珍しい。
確かにその名前を持つ少女は一色の幼馴染みであり、互いに電話番号やメールアドレスの交換も行っている間柄である。高校は違うが、小学校から中学校に掛けて、何度か同じクラスになったこともある。はじめて言葉を交わしたのがいつの頃だか思い出せないが、少なくとも一色が縁狩の存在を認識するようになって、だいたい五年か六年。十二分に幼馴染み、腐れ縁、そんな表現が通用する相手だとは思う。互いに名字ではなく、名前で呼び合っているところからも、十分に『友人』の要件を満たすだろう。けれども、どれほど長く付き合いを続けようとも、どれほど表面上は親しげに見えようとも、これまでのところ一色は、縁狩に対して親しみを感じたことはほとんどなかった。
顔を合わすことがある。
世間話をすることもある。
中学校で同じクラスだった頃は、ノートの貸し借りなんかもした記憶もあった。
けれどもどうしてか縁狩は常に一色に対して一歩引いたような態度でしか接してくることはない。
世間話だろうと、ノートの貸し借りだろうと、どこかしら事務的な雰囲気が常に漂っている。
メールなんかも滅多に送って来ないし、当然返事も来ない。それどころか顔を合わせたところでろくに会話も続かない。共通の友人である漣七海を介してはいくつか情報の交換を行うこともあるが、縁狩個人とは積極的に会話をしたことは断じてない。
――漣七海に会いに行く。
縁狩と一色とに共通する、その唯一の目的がなければ決して付き合うことのない相手なのだろう。
だから、とにかくメールの内容が想像つかなかった。
「くそっ、縁狩め。メールなんかを送りやがって」
そのせいでふくらはぎが痛い。まだ痛みでジンジンと痺れが走っている。たぶん、擦り傷になっているし、打ち身はきっと青あざになるだろう。ひょっとすると、血なんかも出ちゃったりしているかもしれない。
「今度会ったらただじゃおかないぞ」
などとまったく考えてもいない文句を適当な感じで毒突きつつ、まあどうせ今から顔を合わせる予定なんだけどな、と思いながらメールの本文を開いた。
[今日、行けない。よろしく]
実に簡潔な文章だった。
肩すかしというかひどく脱力した気分になって、一色はうなだれるように自転車のハンドルへと顔を倒す。だがすぐに気を取り直すように首を振って顔を起こした。
主語も何も無い、ただ要件だけを一方的に叩きつけるような文章。シンプルさを推し進めて、意味不明一歩手前になりかけているような簡潔すぎる文章。文章だけなのになぜだか突き放されたように感じられ、一色は軽い倦怠感を覚えた。
さらに言うならば、これだけ短い文章だというのに、伝えようとしていることはしっかりと理解できてしまっている自分自身に何だか納得のいかない、不安定な気分に落とされる。
行けないというのは、これから一色も向かう予定だった漣七海の所へ、ということだろう。よろしくというのもこれまた、漣七海へよろしく、という意味なのだろう。
それがわかってしまう。
一色と縁狩の唯一の共通項。そして特殊性なのだと、理解してしまっているのだから。
突き放された直後にひどく至近に引き寄せられるような、安定しない自分の心の距離に、一色は夏の暑さのように粘つくような緩い気持ちの悪さを感じるのだった。
うん、何の理由か知らないが、行けないのならば仕方がない。よろしく伝えるのも、特に問題はない。
一色はメールを打つ。
[わかった。こっちからも伝えとくけど、縁狩からも七海にメール送っとけよ。何か他に伝言あるか?]
送信すると、メールは程なく返ってきた。
[ない]
実にシンプルな返答である。
そして確実に、これ以上一色との間で会話を広げる気の感じられない文章でもあった。
一色はため息を付く。
別にシンプルなのがダメだとは言わないけれども。言わないけれども。愛想がないというか、折角今後も色々と交流のある相手なんだから、仲良くする努力をするべきじゃないのかとか、言葉のキャッチボールを楽しもうとする気はないのかとか、厳しい残暑の中せめて会話だけにでも潤いを持たせたいという希望とか、ああ、兎にも角にも、もう少しどうにかならないものだろうか。
「……嫌われてないよな、俺」
これまでにも何度も疑問に思ってきたことだけれども、よくわからない。嫌われるようなことをした記憶もない。覚えていないだけかもしれないが。例え記憶になかったとしても生理的に受け付けないとか言われたらどうしようもない。さすがにそれはないと信じたい。ぶっちゃけ、七海に相談したこともある。あまりにも無愛想というか無反応な縁狩の態度について。七海はのほほんといった感じに笑って言ったのだった。
「そんなことないよ? 縁狩と二人の時は、一色くんの話ばかりしてるしね」
まじかっ、と思ったのだが、その話の内容については全く教えてくれなかった。少なくとも悪口ではないらしい。しかし、一色の事を話しているという、その時の縁狩の表情が全く頭に思い浮かばなくて、何やら非常に現実味に乏しいと感じてしまうのだった。然りとて七海が嘘をつく理由もまた思い浮かばないので。何だか釈然としない気持ちのまま、一色は短くため息を付いて、改めて自転車をこぎ出すのだった。
日差しは案の定、刺すように強かった。
けれども思いの他風は道行く一色の背中を押すように強く吹いていて、清廉な空気を運んでくる。こぎ出す前はあれほど躊躇していたというのに、実際に動き出してみれば自転車は日の下を軽やかに動き始めた。道路沿いに植えられている丈の高い街路樹も、良い日除けになっている。時々突き刺さってくるような一瞬の日光さえ気にしなければ比較的快適とも言える道行きだった。
ペダルを強く踏み込む。
街中の中央通りから少し外れた並木道を走る。
ひとつ南の繁華街は観光地と観光地を結んでいることもあって、平日でも人通りはとても多い。けれども光花市中央図書館から城南通りを抜けたこの道路は、いわゆる裏道として、大きなホテルも面していたりするのだが意外なほど人が少ない。大きな百貨店の搬入口もあったりして大型トラックがよく行き交っているから、騒音はけっこう酷かったりするけれども、しっかりと整備された幅広の歩道があるこの道は、自転車にとってはとても走りやすい道だったりもする。
真っ直ぐ進むとすぐ正面に見えてくる。
T字路の向こう、開放感のある広場の奥にそびえる、十階建ての白い建物。
看板も見当たらないが、この街に住む人は、皆その建物が何かを知っていた。
光花市民病院。
一色と縁狩の共通の幼馴染み、漣七海は、そこの十階で、暮らしている。
もう、五年間も。