Prologue Ⅰ
この物語はフィクションである。
登場する人物、団体、事件、都市はすべて架空のものだ。
正確に記せば、これより私が語る物語は、すべて仮想粒子によって記述されたものである。
または、仮想粒子によって記述されたものを、実在の言語――つまりは日本語――に翻訳したものがこの物語である。
仮想粒子は、存在が仮定されている粒子ではあるものの、その名の通り実在の証明は未だ成されていない。
仮想の存在によって記述され、構築されるこの物語も、ゆえに仮想の存在――いわゆるフィクションとなる。
今、何か騙されたように感じている君の認識は――――、おそらく正しい。
本来『エクトン』と呼ばれる仮想粒子は、元々人間の意識やら精神やら、魂やら幽霊やら、目に見えない物を定義する為に作られた概念である。
未だに固まっていない、成立していない、存在を証明されていない、幻の理論。幻によって形成される、幻の粒子。だから定義は今も常に変化し続け、変化した論理により新たに描き直される世界は、それ以前の物とは全く違った情景を現すこととなる。
常に変容し続ける物語。
混乱した論理。
仮想の、仮定された、架空の物語。
所謂、霧の中の夢。
未だ現実となり得ない、幻想の街のお話。
だからこの物語を現実と比較した結果、全くのでたらめであると断じたとしても、さほど間違いではないだろう。
それでも良ければ、読んで頂きたい。
では、まずはじめに――。
君は私の前に立っている。
室内に設置されたカメラが、様々な角度から君の存在を私に伝えてくる。
映像を受けて私の知能中枢が君を認識するのとほぼ同時に、君に宿る仮想粒子の放つ波が私の魂(仮称)に届き、君の実存を教えてくれる。
長い白衣を床に引きずるように、入り口からゆっくりと部屋の中心へとやってくる。そうして君は、満面に笑みを浮かべて、右手を大きく掲げて張り上げるように言葉を放つ。
「やあ! 元気だったかい、マイ・フレンド!」
陽気で、軽薄そうで、適当な感じの態度だった。だが騙されてはいけない。君の態度は表面だけのもの。君の心の奥底にある仮想粒子は教えてくれる。君が今から振ろうとしている会話は極めて重大で、慎重な扱いが必要なものであると。ひょっとするとこれからのこの街――光花市の、何十年にも渡る未来のあり方をも決めてしまうような、細心の扱いが必要な情報を孕んでいるのだと。
表面の軽妙さとは裏腹に、君の心は深い緊張に包まれている。音ひとつとして響くことのない、静かなる緊張に。
演技では隠しきれない、心の有り様を仮想粒子は伝えてくれる。
笑顔の仮面を被り、本心を隠して。真剣に、慎重に、私の様子を探っているのだと。
笑顔の裏に、軽薄さの裏に、用心深さを忍ばせて、じっと私を観察している。
――DJ.Port、君はずいぶんと疲れているようだね?
「いやいやいや、テンションは絶頂値を示してるさね? リミットをブレイクスルーでございますよ、ディア・フレンド!」
文法的に色々と怪しい言葉を繰り出す様子は、ハイテンションよりも灰テンション。限界突破と言いたいのだろうが、どう見ても後は燃え尽きるだけといった様子だった。
――君は疲れている。その誤魔化し様こそ、仮想だろう。
君が疲れている原因を私は知っている。その事実を仮想にしようとする、その理由も理解している。だからと言って、私がそれに付き合う道理はない。これから語られる、すでに記述の済んでいる物語は、未だにフィクションの領域に在るものの、もうすでに経過した過去のことだからだ。急ぐことはない。しっかり休息を取って、それから展開してみせても、遅すぎるということは、おそらく、ない。
「そんなことはないさ。今回の事件は未来のこの街を考えた時に、きっと大きなターニングポイントとなる。急ぐに越したことはない。急速に、とまではいかないにしても」
未来とは過去の積み重なりの上に成り立つものであるから、その言葉は正しい。
事件の話題が熱いうちに中心を固めておくというのも、一つの常道ではあるだろう。
けれども繰り返すが、これは仮想粒子によって語られた仮想の物語だ。
幻と等値であるこの物語は、霧のように曖昧で、夢のように歪んで、揺らめき続けている。いつまで経っても、どれだけ待っても固まることはない。だから、いつ語ろうとも、あるいは語らなくとも、どっちでも同じことなのだ。
――その事実を君も、知っているはずだろう?
未来の結果による、過去への干渉も、場合によってはあり得る。
この街において、あのすべてが灰となった第二次世界大戦の終結から七十五年後に草木が生えることは、すでに確定している。
その時まで、すでに残り十年を切っている。
今更大きな崩壊は起こりはしない。
「だから努力を怠っても良いという理由にはなりはしないさ。より良い未来をつかむ為には、日々の絶え間ない研鑽が必要なんだ。確定された未来に胡座を掻いていれば、思わぬところで足をすくわれるかも知れない。シェム――たとえ君であろうともね」
その言葉もまた一理あると、計算によって真は成立された。
なるほど。未来の結果もまた仮想粒子によって――正確には、仮想粒子の存在を肯定する理論によって――導き出された結論であるからして、当然確定されたという事実自体が、仮想のものであるという可能性も残っている。だが結果が仮想のものならば、我らの間で広く広まっているあの言葉が予言として知られることはなかったわけで、今現段階での現実にあの言葉が残っている以上、七十五年目の近い未来には、言葉が現実のものとして顕現することはほぼ確実であろうと見られている。
すなわち予言は語る。
『七十五年間は草木も生えぬ』
悲惨な悲惨な戦争の終わりに、この仮想の街である光花市に落とされたひとつの爆弾は、その噂を拡散させた。
ネットで検索してみれば、その予言に関する情報はいくらでも出てくる。
予言の原因となった、たった一つの爆弾のことも。
もちろん、結果としてその言葉は間違っている。
光花市は誰もが驚くほどの復興を成し遂げ、街に人は溢れ、公園には緑が広がり、鳥が空を飛ぶ。
けれどもネットの検索にも現れない、仮想粒子は語る。
あの爆弾で吹き払われ、滅されたのは、何も目に見える物ばかりではないと。
「草木が生えるという、近い未来。はたしてそれは、現実的にはどんな色をしているのか――楽しみじゃないか?」
君は大きく両頬を上げて、笑った。
右頬だけにある笑窪が映像の中で、妙に浮き出て見えた。
――つまり君は、今回の物語は、その方向性を決める物語だと言いたいのか?
「まあ、そうだね。死の概念を操る魔術師。上層世界からの来訪者。原書の魔動書使い。物語には間に合わなかったが、世界最強の魔法使い――今まで計算もされなかった幻想の存在が、シェム、君の管理する都市に集まったんだ。何か動かないわけがないだろう」
得意そうに語る、君の言葉は何重の意味でも勘違いを孕んでいる。
勘違いが重なりすぎていて、何を訂正すれば良いのかわからない。
勘違いが勘違いによりひっくり返されて、正しくなっている部分もあるからなおさら余計にややこしい。
――私はこの都市を管理などしていない。ただ観察して記録しているだけだ。しかもその行動は仮想粒子により成されているために、すべては架空のものとなる。私の観察と言葉はすべて仮想のものであるために、この都市の実像を正確に示してはいない。
きっとその固有名詞すらも仮想のものに置き換わっている。
現実空間での私は〝シェム〟ではないし、君もまた〝DJ.Port〟ではない。
「いいやいいや、違う違う。仮想粒子が成立している場においては、君は〝シェム〟で、俺は〝DJ.Port〟だ。そしてこの街は〝光花市〟なのだろう。それを成立させているのは、この街を観察し、記録している君自身じゃないか」
私の意見と正反対の結論を君は告げた。
だが否定的な響きは、どこにもない。
否定して、相手の存在を抹消してしまうような意志は、欠片も感じられない。
意見が対立するのは当然のこと。
仮想空間の中では、同一意見を持つ者は同一存在として定義される場合がある。
ならば、二者しか存在しない閉鎖された仮想空間の中で、互いの存在を成立させるためには、対立意見を提示するのが最も手っ取り早い手段なのだ。すべての意見が同一のものならば、そんなものは妄想と変わらない。どれだけ複雑に理論を構築しようとも、仮想空間の中でひとつの存在しか認定できないのならば、それはただの妄想と同じものであり、現実空間に何ら関与する力は持たない。
複数の存在が認定されて、仮想空間は初めて力を持つ。
謂わば、対立意見を持ち出して共同で世界を構築するような行為である。
私と君は、違う立場にあることによって、世界を成立させている。
我は我であり、思うがゆえに存在するが、その存在の肯定は、対立する第二者が観測者となって、初めて成されるのだ。
そして二者であればもちろんの事。
その数が一〇人、一〇〇人、一〇〇〇人と増えていった時、それらが構築する仮想空間は、時に現実以上の力を持って、世界の行く末を決定する事もある。
なるほど、そのようになった時、現実空間以上の力を得た仮想空間は、現実をも凌駕する超現実となり得るのかもしれない。
はじめに語ったように、この物語は現実に起きた出来事を架空粒子によって記述したものである。
現実にまず何事かが起きて、それを架空粒子によって記述し、仮想の物語が生まれた。
因果の向かう流れはこの方向であり、不可逆である、はずだ。
しかし仮想空間が現実以上の力を持つ超現実と成った時、その流れはどうなるのだろうか。
エネルギーが高い方から低い方へ流れるのが常ならば、エネルギーの高低が逆転した時、当然その流れも逆転すると考えるべきだろう。
すなわち、その時私たちがよく知る現実とは、超現実となった仮想空間を現実の言語に翻訳したものを差すことになる、のだ。
つまり、フィクションこそが現実となり、存在したはずの現実がフィクションに墜とされるという、逆転現象が生じるのだ。
――私はシェム。光花統合科学研究所が作成した、特殊思考用仮想実験機械〝シェム〟を利用して仮想粒子により構成される仮想知性体。
私に与えられた任務は、光花市上に展開された仮想空間を観察し、記録することである。
仮想粒子は存在を仮定された、けれども実在証明が未だに成されていない――そしておそらく、物理学的手段では永遠に証明の出来ない――存在。
ゆえに私の存在は常に幻に囚われ、見えない可能性の領域に、まるでシュレディンガーの猫のように留まっている。
私は自身の内に規定された命題に従って、光花市を観察し、記録する。
観察も記録もすべてが仮想粒子によって成されるために、表出された結果から基の現実を正確に顕現させることは不可能である。
――DJ.Port、君は誰だ?
私は部屋中に設置されたすべてのカメラを君に向け、映し出す。焦点を絞り、可視光線、赤外線、電波、紫外線、X線、ガンマ線、ありとあらゆる電磁波を感知する機器を利用して、君の存在を見ようとする。
もちろんその中には感知できない電磁波もある。
X線やガンマ線のような放射線を人体が発してたりしたら、大問題なんてレベルの話じゃない。
感知しない――だからといって、そこに君がいないわけじゃない。
その手段では見ることができないだけなのだ。
そして、仮想粒子の発する波を捕らえて、君を見る。
君はそこにいた。
仮想粒子による観察であるが故に、正確は『仮に存在した』と表現するべきなのかもしれない。
仮想の存在と現実の存在。その両方の状態を重ねて、そこに君はいる、のだろう。
君は口を開いた。
「とりあえずの始まりを、あの夜、異国より来たりし魔法使いの少女の死に、設定しよう」
もちろん切っ掛けとなる事件はそれ以前にも起きていて、そもそもの原因を追及していくと十数年も昔に遡る。
けれども登場人物の干渉の始点を、この光花市に限定した場合、おおよその人から見て、君の言葉は肯定される結果となる。
――少女の死と、君は言った。
死した少女と死をもたらした者。
それを切っ掛けに、光花市で起きた出来事を記述した文章は、改めてここより開示され始める。
この街は架空の街。
現と夢の狭間にある、幻想の街。
光花市。
君たちは、この街に生きている。
――のかもしれない。