浮遊解(不愉快)
美しい公式から、美しい答えが導き出せるとは、限らない。
◇ ◇ ◇
僕は生来、移動中や体を動かしている最中に関係のないことを考えてしまう。まあ、直そうなんて思ったことはないのだけれど。
僕は今、猫田玉藻さんが死体の絵を描いたスケッチブックを盗むことのできる人間と話をするために、その人間の部屋に向かって歩いていた。――独りで。
希代は部屋で調べものを続けて、透子ちゃんはとりあえず役目を終えたということで自分の部屋に戻った。才さんは、僕と別行動でスケッチブック盗みの容疑者と話をしに行った。
廊下を歩きながら、僕は希代の部屋で話したことを整理していた。
まず、猫田さんはこの施設の美術サークルで和切八重子さんを中心としたメンバーに虐めに遭っていて、そのストレスから、和切八重子さんが傀儡人形のように殺されている絵を描いた。
猫田さんはそのスケッチブックを資料室を置き忘れ、何者かに盗まれ、その犯人が絵を真似て実際に殺人を犯した。――ということだろう。
そしてスケッチブックを盗んだ犯人――つまりは殺人を犯した人間の容疑者は《唯画独尊》の片羽美麗 と《学問の伍狂人》の合計六人。
ちなみに《学問の伍狂人》というのは、この《異端の流れ場》で特に学問で秀でている五人を指す言葉だ。その頭脳はその学問に取り憑かれ、周囲から《異常》と呼ばれるまでに研究に使役された。その五人は《天才を侮蔑できる存在》となっている。しかし、性格や価値観などが歪んでいる人間たちでもあるのだ。
メンバーは《言語学》の神埜美言羽。《数学》の四式数斗。《理科全般》の片羽科理。《人間学》の人見瞳。《禁忌学》の忌塚卿輔の五人だ。
さらに、容疑者には《唯画独尊》とまで呼ばれている《天才画家》片羽美麗も含まれている。
噂によると彼女はプライドがエベレストより高く、自己愛がマリアナ海溝より深いらしく、常に一人で生活し、特に絵を描く時は部屋の扉をノックする人間に対しても激昂するらしい。
さらに、彼女は《学問の伍狂人》の一人、片羽科理の双子の妹で、姉と二人は並ぶと見分けがつかないほど似ているらしい。
さすがにそんな一クセも二クセも、いやいや三クセ以上ある人間の相手を僕一人でやるのは、キツすぎるので、才さんに手伝ってもらった。
最初は六人になので、三人ずつで分けようとしたのだが、才さんが――
「あたしの担当にあの変態爺が入ってんだから、あたしは二人に話を聞く。リョースケは四人頼む。――変態爺がいるよりいいだろ」
と言ってきたので、僕の担当は四人だ。――それにしても、変態爺とはきっと六〇歳を越えている忌塚卿輔のことだろう。《変態爺》とまで呼ばれているとは、どんな人なんだろうか。知りたいが、関わりたくはない。
これは一種の怖いもの見たさだろうな。
ということで僕が話を聞くのは、四式数斗、人見瞳、そして片羽姉妹の四人になった。
今は四式数斗の研究室に向かっている。
「数学かぁ............」
僕は高校に通っていない。その代わり、この施設で希代のお守り(?)をしている合間に独学で一通り勉強はしているのだが、自分の学力がどれぐらいなのかは定かではない。
一応、才さんに見てもらった時は――
「すげぇな、リョースケ! なんでそんな問題解けるんだよ! すげぇすげぇ。訳わかんねぇぞ。すげぇすげぇ。お前、実は天才なんじゃねぇの?」
と、手放しで誉めてくれたが、やたら「すげぇ」を連発していたので、本当に「すげぇ」のかは不明だ。――才さんの学力も知らないし。
学力なんてものは、見る人間によって評価が変わってしまう。
凡人が秀才を見れば《天才》と称えるだろうが、《天才》が秀才を見ればたたの凡人の延長としか見えないだろう。
天才を見分けるには、最低限秀才でなければならない。――所詮、人間は平等ではない。
全人間において平等と言えるのは《生》と《死》しかない。
ならば、僕は《凡人》なのか《秀才》なのか、それとも《天才》なのか。どれなんだろうか。
僕は自分を《凡人》かそれ以下だと思っている。しかし、才さんの言葉がその想いを揺るがす。
『――お前は有能だ。間違いなくな』
僕はゆらゆらと頭を振って、考えることを放棄した。
我に返ると、透子ちゃんが教えてくれた四式数斗の部屋を通りすぎていた。
「ヤバいヤバい」
僕は戻って、四式数斗の部屋の扉をノックする。
「入って構わない」
若い男の声。僕は四式数斗の存在は知っているが、会ったことはない。
扉を開けて、中に入る。
部屋の間取りは、希代の部屋と同じだった。
しかし、部屋の真ん中に一際大きな机があった。――そして、その机の椅子に足を組み、座っている男がいた。銀縁の眼鏡が知的さを醸し出している。
――四式数斗、その人であった。
「皆好透子から話は聞いている。――座ってくれ」
僕は言われた通りに、椅子に座る。
「俺が四式数斗だ。よろしく」
四式は僕に握手を求めてきた。四式の手を見る。――革手袋をはいていた。
この人は、手袋を着けたまま握手するのかよ。
そう思いながらも、僕は四式と握手した。
「よろしくお願いします」
四式は何故か、握手を終えてから手袋を脱いだ。
なんで?
その理由を僕はすぐに知った。
四式は机の引き出しから新しい革手袋を出して、またはいた。
「..................」
「ん? どうしたんだ? ああ、手袋か。気にしないでくれ。――気にしているのは俺の方だからね」
何の悪気もないように、四式はそう言った。
この人、潔癖症か。しかも、極度の。
手袋で他人と握手して、その後に手袋を新しく替えるとは――なんて奴だ。
「――あ、君。もう少し俺から離れてくれ」
「は?」
「パーソナルスペースというのを知っているか? 他人に入られると不快に感じる空間のことらしい。俺と君まだそれほど親しくない。――会って三〇秒というところだ。だから、本当に悪いんだが、俺から一二〇センチ以上離れてくれ。それが社会距離と個体距離との境界なんだ」
「..................」
僕は椅子を少し後ろに動かした。当然僕も後ろに下がることになる。
《本当に悪いんだが》と思っているなら、普通そんなことは口にしない。――まあ、そんなことを言えば印象が悪くなるので言わない。――今のところは。
「そう言えば、君はまだ俺に名乗っていなかったな。客人が先に名乗らないとはどういうことだ?」
「............すいません。僕は、リョースケと言います」
「ほう、リョースケか。――で苗字は?」
「苗字なんて存在は、自分が長い時間の流れの一部だと――そんな虚しいことを認めていることになるじゃないですか」
「ほう。興味深いな。詳しく聞かせてくれ」
四式は、僕を観察するような目をして、そう言った。
僕は話し始める。
「苗字があるということは、一般的に父親の姓を授かったということになります。さらに授かったということは、母親の姓があったということが必然的にわかります。つまり苗字は自分は誰かから生まれてきた存在であり、時の流れの一部にしか過ぎないと主張してるに等しい――そう思うんですよ。僕は自分が時の流れの一部であることは自覚してますけど、そうやって自分の価値を虚しいものだと公表したくないんです。――まあ、自分が時の流れの一部であり、それ故、尊いという考え方もあるようですけど、僕は虚しさを感じるんです。流動するものの一点。――それはちっぽけなものですから」
僕は長々と、嘘をついた。実際、苗字どころか名前だってどうでもいい。
しかし、四式は愉快そうに笑いだした。
「はっはっはっ!! 面白い考え方だ。愉快だ。実に愉快だよ! 気に入った、君は面白い。うん、君は一二〇センチ以内に入って構わない。個体距離に入ることを認めようじゃないか。それぐらいの価値がある」
僕は嘘をつく。色々な狙いを持って嘘をつく。
今回は最初のやり取りで四式数斗に興味を持ってもらい、話をスムーズに進めるためについた。――そしてそれは成功したようだった。
「うんうん。まったくリョースケくん。君は興味深い。何故そんな考え方をするのか、ぜひ知りたいね。いやあ、素晴らしいっ! 気に入ったよ。君は俺のことを《かずちゃん》と呼んでくれ。数斗の《かず》だ。それぐらいの価値がある」
「..................」
――成功し過ぎたようだ。誰が初対面の相手を《かずちゃん》と呼ぶのだ。この人は、人との距離のとり方が変わっている。
「《交渉人》から話題は聞いている。資料室にあったスケッチブックのことだろう?」
急に話が本題に入ったので、僕は面食らった。驚きつつも何とか質問する。
「――は、はい。四式さんはスケッチブックが資料室にあったことを知っているんですね?」
「いや実際ね、スケッチブックのことはどうでもいい。――それより君ともっと話がしたいんだ。数学の話をしよう」
本題に入ったと思ったら、急に丸投げして、脇道に逸れやがった。――どうやら気に入られ過ぎたようだ。
「《1+1》の答えは?」
四式が投げ掛けてきた質問は数学者らしい、数学の話。――いや、算数の話か。――まあ、ここまで築き上げていた好感度を下げるわけにはいかないから、話を付き合った方がいいか。
「《2》です」
僕は迷わず答える。まさか、数学者が「正解は田んぼの《田》でーす!」みたいな下らないことを言うとは、思わなかったからだ。
「正解だ。――でも《1+1》の答えは《2》だけではないんだよ」
おいおい、まさか本当に「田んぼの《田》でーす!」と言うのか?!
「例えば、君は十進法で考えて、《2》という答えを導いたけど、二進法で考えたとすれば、答えは《10》なんだよ。《1+1=10》ということだ」
やはりそこは数学者だった。小学生みたいなことは言わない。
二進法――数字が《1》と《0》で構成されているという考え。――コンピューターに応用されているから、案外希代が詳しいかもしれない。
「確かに、それも正解ですね」
僕は言う。二進法の考え方は屁理屈ではない。
「さらにね、《1+1=1》という解もある。これは論理演算の考え方だね。さらにさらに、《1+1=11》という解だってある。これはまあ、文字列結合だから《11》は数字ではなく文字として扱っているんだけどね」
論理演算、文字列結合――チンプンカンプンだ。
「他にどんな解があるかな? リョースケくん」
僕は一考する。四式のような堅苦しい論理を僕は使えない。――ならば。
「《1+1=101》です」
「ほう!」
四式は目を見開き、感嘆の声を上げる。
「その考え方は?」
笑顔と共に訊いてくる。心の底から楽しそうな笑顔だった。
「《1cm+1m=101cm》です」
単位を付けて、数字の価値を変えるやり方。――言ってしまえば、これは卑怯だ。
しかし、四式は――
「はっはっはっは!!」
――笑った。
「素晴らしい! やはり君は愉快だよ! そうか、単位の変化か! 発想の転換というわけだなっ!さすがリョースケくんだ。俺のように堅苦しい理論には縛られんということか!」
――そして、褒め殺し。
「あ、ありがとうございます」
予想外の反応だった。
しかし何故に、四式はこんな話を続けるのだろうか。完全に関係のない話なのか?
「あの、スケッチブックの話、していいですか?」
堪らず、僕はストレートに問い掛けた。
すると、四式はまたニヤッと楽しそうに笑ったまま、言った。
「スケッチブック? いや、君は《傀儡人形殺人事件》の話をしに来た。 スケッチブックはその話の一端でしかない。――だろ?」
「..................っ!?」
バレていた。言っていなかったのに。
寸分の狂いなく、一から百までお見通しだったらしい。
「...............し、知ってたんですね」
「はっは! 当たり前だよ。俺はあのスケッチブックの中を見たんだ。――そして《交渉人》の紹介で君が来た。連想するための要素は充分過ぎるぐらいだったよ」
スケッチブックの中身を見たのか――。
どうする? これではまるで、手札を見せながらポーカーをしているようなものだ。
次の言葉が出てこない。来た理由を知られている以上、カマをかけることもできない。
言葉が出てこない僕を見て、四式は言った。
「君にはぜひ、俺が思い付いた新しい《1+1》の答えを考えて欲しいね」
「はあ。でも難しいんじゃないですか?」
頭の中がいっぱいいっぱいなので、間の抜けた返答をしてしまった。
「そうだなあ。――ヒントを与えるとしたら、今回の事件の犯人がどういう人間かを考えてみてくれ。一見数学と殺人で関係なさそうだが、共通項があるかもしれないぞ」
「は?」
何――?
何だその言い方は――? それじゃまるで――
「...............あ、あなたは、犯人を知っているんですか?」
「はっは! 知らないさ。知るわけないだろう。――と、ここでは言っておくよ」
何を――?
「まあ、別にどうでもいいんだよ。殺人事件なんて。――それより俺は、君が俺の考えに達するかどうかの方が気になるんだ」
何を――言ってるんだ?
「...............あ、あなたは何でそんなことを?」
この人は、犯人の正体を知っていながら、解決をせず、事件をヒントにして、数学の問題をだす――
――何故?
「だから、俺は殺人事件より、君が俺の考えた《1+1》の答えに辿り着くかどうか方が気になるんだ。だから、この際、殺人事件を利用させてもらおう、そういうことだ」
理解できた。うん、理解できた。はっきりきっぱり理解できた。――だけど、これぽっちも、微塵も一ミリも、共感できなかった。
ああ。
きっと、透子ちゃんは、こんな四式の人外な考えも、当たり前のように、共感するんだろうな。
「じゃあ、まあ、頑張ってくれ。問いは《俺が思い付いた新しい《1+1》の解はなにか?》思い付いたら教えてくれ。ヒントは、今回の事件の真相だ」
僕は何も言わなかった。――いや、言えなかった。
僕は目眩を感じながら、部屋を出た。
心底実感した。
《異端の流れ場》が《異端の流れ場》である所以を改めて実感させられた。
しかも、まだ一人目だ。
僕はまだこんな人間たちと関わらなくてはいけない。――次は《理科全般》の天才、片羽科理。
はっきり言って、憂鬱だ。