5 そんなに臭い!?(1)
5 そんなに臭い!?
(本当に追って来ないだろうな)
直久は思わず、小さな息を吐いた。弟が姿を消したとたんに訪れた静寂は、部屋に不安という暗雲をも連れてきた。
聞こえてくるのは、加藤の規則正しい寝息だけ。安全は保証されてない。なのに、危険に対抗する力もない。その事実が、直久の心を必要以上のネガティブな感情で塗り潰していく。
何か自分にできることはないか。何かやっておけば、無駄かもしれないか気持ちは落ち着くはずだ。
(来るとしたらどこだ?)
敵が侵入可能な場所として、すぐに部屋の窓が目についた。無駄に大きい。
直久は大股で歩み寄ると、窓が施錠されていることを確かめてから、勢いよく音を立ててカーテンを閉めた。
「ん……」
音にゆずるが反応する。しまった、と思ったが、そのままゆずるは再び眠りに落ちていった。ゆずるの顔は、相変わらず青白い。
(……)
良く考えたら、ゆずるとはあの日以来まだ一度もろくに話をしていない。
(悪いのは俺だ……)
ゆずるの態度は以前と何も変わっていない。
でも、知ってしまった以上、直久は今までのようにゆずるを扱うことはできそうにない。
だって、ゆずるは――。
直久の顔が、苦しげに歪む。
(なんで、十六年間も気がつかなかったんだろう。どう見たって、ゆずるは女じゃないか)
直久は肩をがっくりと落とし、深い深いため息をついた。
どんなに男の恰好をして、男の真似をして、男だと言い張っても隠せない体格差。
飴細工のように華奢な肩。
筋肉なんてこれっぽちも付いてない腕。
背だって直久よりずっと小さいし、体重だって肩手で持ちあがるほど軽い。
わざと低い声を出していることだって、今の直久には簡単に見抜ける。
今日みたいに、今にも消え入りそうな声で強がてる姿を見れば、いつもゆずるがどれほどの恐怖と闘っているか、嫌でも考えさせられる。
(怖くないわけないよな……いつも涼しい顔しか見せないから、全然気がつかなかったよ……)
直久は、そっとゆずるに手を伸ばし、頭をなでてやる。
(ばかだよなぁ……一人で頑張りすぎなんだよ。もっと、周りを頼ればいいのに……)
だが、ゆずるがそう出来ない理由も良く分かる。
ゆずるよりも強い力を持っているのは、祖父だけだ。
祖父以外の誰に頼れる?
頼れば、その人物は死ぬかもしれない。ゆずるが放った「助けて!」の一言が、多くの親類、しかも大切な人――親や妹の命を奪うのだ。言えるわけがない。
――自分一人でやるしかない。ゆずるがそう考えるも理解できる。
(特に、俺なんか……本当に何の役にも立たないしな)
ゆずるの寝顔を見つめながら、自分の胸がきりきり痛むのを感じた。
この先、一生、ゆずるが自分に助けを求めることはないだろう。
自分だけには、絶対に。
それが分かるから。――だからこんなに、悔しいのだ。
「ごめんな……」
思わず零れた言葉だったが、口にした直久が一番驚いた。
(は? オレ何言ってんだ? 何が『ごめん』なんだ?)
目をぱちくりさせて、直久が首を傾げた時だった。
ゆずるの瞼が、ぱちりと開いた。
「おわっ!」
直久の心臓が、天井高く飛び跳ねる。それとほぼ同時に、直久はゆずるの頭をなでていた手を、直久生命史上最速で引っこめた。
悪いことしてたわけじゃないのに、心臓が破裂しそうなほどバックンバックンいっているのが分かる。
(ど、どうしよう! なんて言い訳しよう!)
なにしろ体の一部に触れていたのだ。いや、確かに髪の毛だけど。肌には触れてない。それは、言い訳できる。でも寝ている無防備な間だし、無許可だし。あげくに、頭を撫でるとか「お前、俺をバカにしてるのかっ!!」と怒りの頂点に達して余りあるに違いない。本気で殺される。間違いなく殺される。切り刻まれて、池のコイのえさにされる。え、でもどこの池だろう。実家にも本家にも池なんてないぞ。
と、直久が一人でズレ切った思考を直久なりの高速で展開していると間に、ゆずるがベッドから上半身を跳ね起こした。
「わーっ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
間髪いれずに、床に平伏し、謝罪の呪文を唱える直久。16年の短い生涯を閉じる時が来たと悟った瞬間でもあった。
が、いつまでたっても ゆずるの鉄拳は降ってこない。