4 妖と人の狭間(1)
4 妖と人の狭間
直久は、気がつけば寄宿舎の前にいた。
もう大丈夫だと分かっていても、体が恐怖から立ち直ってない。
気が緩むと、呆然と立ち尽くすだけになってしまう。
あれは何だったんだろうか。
夢だったんじゃないか、そう思いたい気持ちもある。
「ゆずる?」
和久の声で、直久もゆずるの方を振り返った。
なぜか、ゆずるも和久に左腕を掴まれたまま呆然としていた。その表情は驚くほど硬い。
「大丈夫だ」
絞り出すように、ゆずるはそう言うと、和久の視線から逃げるようにそっぽを向く。ちっとも大丈夫そうじゃない。
自分が声をかけてもいいものか、直久が迷ってる間に、和久に先を越された。
「そうは見えないよ」
「大丈夫だって。少し、霊力を消耗しすぎただけだ」
「もしかして、あの悲鳴で霊力を吸い取られたの? 僕は何ともないよ。結界は張ってたんだよね?」
「張っていた」
「結界越しに吸い取られたってこと?」
「ああ。少し、油断した」
絶句する和久。信じられない、というように視線が泳がせている。
ゆずるも、それ以上何か言うのが億劫なのか、それほど疲れているのか、口を閉ざしてしまった。
二人の沈黙が、直久の背筋を徐々に凍りつかせていく。
ゆずるは一族でも有数の能力者。
そのゆずるの力を、あっという間に吸い取った妖。
それだけ相手が強敵だということに他ならない。
(もしかして、俺ら、今、相当ヤバかったってこと?)
直久の脳裏に、瞬間移動する直前に見た、あの薄気味悪い笑顔が蘇ってきた。
そう、彼女は確かに笑ったのだ。
こちらを恐れて逃げたのなら、あんな不敵な笑みは浮かべない。
明らかに、余裕を見せたのだ。
――また会いましょう。
記憶の中の彼女が、笑顔でそう言った気がした。
嫌な予感がする。妖怪に逃げられた、というより見逃がしてもらった、ような気がしてならない。思い返せば思い返すほど、そう思えてきて、悪寒が止まらない。
「とりあえず、中に入ろうぜ」
直久は、よいしょ、と加藤の上半身を引き起こしながら、そう言った。
とにかく外に居たくなかった。屋内が安全なんていう根拠はない何処にもない。でも、屋外よりましな気がした。
「カトちゃんの部屋にいこう。カトちゃん、個室だから」
加藤のジーンズの後ろポケットから、部屋のカギを取りだすと、和久にむかって放った。
わっ、と小さい声をあげて和久がキャッチするのを見届けると、直久は加藤を背負って寄宿舎へと向かった。
◇
「ずりぃ」
加藤の部屋を開けて、直久は思わずぼやいた。
別館の十畳の和室に押し込められている直久たちとはちがい、加藤は、一応、コーチという立場なので、本館に個室が用意されていた。どうやら、本館はちょっとしたホテルのようだ。テレビに冷蔵庫、クローゼットやユニットバス、さらにバスローブ、アメニティセットと、一通りそろってる。奥には、離れて並ぶベッドが二つ。さらに進むと大きな窓の手前に、おしゃれなテーブルセットとスタンドライト。加藤には、とんでもなく勿体ない高待遇だ。
「ゆずるは、とりあえずそっちのベッドで寝かせてもらいなよ」
加藤を手前のベッドに横にしようとしている直久を手伝いながら、和久が言った。
ゆずるは、素直に頷いて、空いてるベッドに体を預けた。瞼を開けていることすらだるいのか、そのまま眼をつぶってしまう。
そういえば、昔、霊力を消費した直後は、眠くて仕方がないと和久が言っていた気がする。
和久を振り返ると、寝かせておこう、と目で合図してきたので、直久も小さく頷いた。
「ゆずるは、寝れば大丈夫。それより加藤先輩だよ」
そのまま加藤が横になっているベッドの脇に膝をつくと、和久は何やら診察し始める。
「どうだ?」
「ちょっとまってね」
数十秒後、和久の柔らかい笑顔が返ってくる。
「よかった。妖怪の呪縛が解けて寝てるだけみたいだよ」
「そっかー……よかったああああ」
直久は、穴のあいた風船のように、へなへなとその場にしゃがみこんでしまった。どっと疲れを感じる。
「加藤先輩、相当、生命力を抜き取られてるみたいだから、二、三日は眠ったままかもしれないね。大丈夫かな」
「部員達には俺が適当に言っとくよ。どうせ、誰もカトちゃんには期待してないから大丈夫だろう。『あれ? 今日は何かだか静かだな』くらいにしか思われねーよ」
「……そうなんだ、なんか可哀想だね」
「可哀想とか言うなよ。五年後ぐらいに俺も同じこと言われてる気がするから」
「なんで?」
「なんでも」
きょとんとしている和久をしり目に、加藤の気持ちよさそうな寝顔を見やる。
(世話がやけるよ)
まったく。憎めない先輩だ。こっちまで笑顔になってしまいそうなほど、幸せそうに寝てるから、文句も言えない。
「一応、この部屋に結界を張っておこう。加藤先輩を追って、ここまでヤツラが来るかもしれないし」
振り返ると、和久が険しい顔に戻っていた。
「……」
加藤を狙って――?
直久の中で、何かが引っかかった。
加藤にも、直久にも、あの妖怪は興味を示していなかったように感じる。
もし、直久たちを得難い獲物として見ていたなら、あんな間近に居たのに、そのまま逃がすだろうか。霊力を持つ和久とゆずるをあんなに簡単に抑え込んだのだから、その間にどうにでもできたはずじゃないか。
むしろ、彼女の目が捉えて離さなかったのは――……。
直久はそっと視線をゆずるに向けた。
静かに寝息を立てているゆずるは、このまま消えてしまうんじゃないかと言うほど、真っ青な顔をしている。こうして見ていると、とても強大な霊力を体に秘めている能力者には見えない。
――ただの、普通の高校生だ。ちょっとか細いけど。
本当に、大丈夫なんだろうか。
明日の朝には、ケロリと目を覚まし、いつもの不機嫌そうな顔で、毒づいてくるのだろうか。
「これで、よし」
和久が、直久に向き直った。結界を張り終えたらしい。
「――それで、どういうことか、説明してくれる?」
直久も、このままこの件が終わったとは思えないし、このままでは、あの恐ろしい美女妖怪の顔が忘れられず、美人不信になってしまうかもしれない。直久の生涯において、それ以上の致命傷はない。
「何があったの? 説明してくれる?」
「詳しいバージョンと、短いバージョンがあるけどどっちがいい?」
「え、そんなバージョンがあるの?……じゃ、じゃあ、詳しいバージョンで」
直久は、大きく頷くと、神妙な面持ちで口を開いた。
「一昨日の朝、俺が、目覚ましを見たら、もう八時で。八時半に駅集合なのに、やべえっ、てなって。急いで朝飯食わなきゃって冷蔵庫開けたら、納豆が無くなってて……」
「そっから!? 絶対納豆とは関係ないよね? やっぱり、短いバージョンで」
「わかった、 じゃあ――昨日の夜、カトちゃんが良いとこ連れててやるって、俺んとこ来て、そしたら美女がいて、また明日ねっていうからカトちゃん、ウキウキで今日も行っちゃって、そしたら、美女は妖怪だぞってことになって、うわーってなって、走ってったらカトちゃんが、ぼーってなってて、そしたらカズ達が来た!」
直久は、弟の要望に精いっぱい、全力で答えたつもりだった。だから、一気にまくしたて終わってから、得意げな顔で弟の言葉を待つ。
「…………」
「…………?」
「…………」
「…………で、今にいたる!」
和久はがっくりと項垂れた。
「……ごめん、やっぱりっ!! 詳しい方で!」
「? いいけど?」
「よろしくっ!」
「だからー、一昨日の朝、俺が、目覚ましを見たら、もう八時で。八時半に駅集合なのに、やべえっ、てなって。急いで朝飯食わなきゃって冷蔵庫開けたら、納豆が無くなってて……」
「……やっぱりそっからなんだ」
「え?」
「ううん! 続けて続けて!!」
「んで、マジかよ、俺、納豆食わないと一日調子悪いのに、最悪! とか思ったわけ。たぶん、こっから今回の件は始まったと思ってるんだけど」
「……ざ、斬新だね。続けて?」
「それで、集合場所に来たら、カトちゃんがいるわけ。これが二つ目のツイてないことなわけ。さらに……」
結局、三十分ほど直久の漫談、もとい、妖怪体験談は続いた。