3 骨抜きにも程がある
3 骨抜きにも程がある
「カトちゃんを離せ!!」
勢いよく叫んでみたものの、直久に策があるわけではない。というより、何も考えてない。、
いや、一番何も考えて無さそうなのは加藤だ。魂を抜かれてしまったように、眼は虚ろ。手足は、だらりとなっていて、力が入ってない。
「カトちゃん! カトちゃん、しっかりしろよ!」
呼びかけにも、全く反応がない。
まるで、加藤にそっくりなロウ人形を見ているようだった。
(ちょっと、カトちゃん! 骨抜きされるにも程があるだろうっ!)
どうにか加藤が正気に戻ってくれないと、万が一、うっかり奇跡的に、加藤を奪い返せたとしても、あっという間に捕まってしまのは目に見えている。勿論、直久もろともに。
(…………)
ちらりと、美女に視線を投げてみる。
美女は、静かにこちらを凝視したまま動かない。直久の出方を伺っているようにも見えた。
直久が、足を一歩でも前に動かせば、襲いかかってくるんじゃないか。そんな緊張感が漂う。
直久は、ごくりと唾を飲みほした。
しかし、信じられない。
ほんとに美人なのだ。
改めて、彼女と対峙して、そう思わざるを得ない。
月明かりで輝く長い黒髪。
雪のように白い肌。
黒曜石のように、黒光りする瞳。
彼女の唇まで視線を運び、直久は思わず息を止めた。
見惚れた、だけではない。違和感があったのだ。
ぷっくりとしていて、柔らかそうな唇だけは、暗がりだというのに、鮮明に、浮き上がって見えたのだ。
目が離せなくなるほど美しい。
赤く――鮮血を思わせる色で――男を誘う。
眼を奪われるな、という方が無理な相談だ。
本当に妖怪なのだろうか。加藤が危険だ、という切迫した状況下でも、にわかには信じられなかった。
しかし、萌葱は断言した。
はっきりと、妖だと言った。
萌葱は『言わない真実』があっても、『偽りを言う』ことは無い。
だとすると、直久に出来ることは、一つしかない。
弟たちが来るまで、時間を稼ぐ。
しかも、直久に抵抗する力がないことを隠して、だ。
後半が、難しい。
バレたら最後。加藤と運命を共にすることになる。
きっと明日のニュースで、二人の名前が並んで放送されるのだ。まるで加藤の親友かなにかみたいじゃないか。そんな扱い、御免被る。
(なんか、だんだん、腹が立って来たぞ。だって、カトちゃんは自業自得じゃないか。俺を巻き込むなよ、まじでっ)
と、言いつつ、直久に加藤を見捨てる気は、さらさらない。
一人で逃げる? そんな選択しは、用意してない。
だが、このまま二人とも、妖怪のエサになるのも、いただけない。
だいたい、どうやってあんな美人が人を喰うというのか。
(まさか、服ごと、跡かたもなく、一気に――?)
無意識に、彼女に口元に視線を戻す。その、血のように真っ赤な唇を見て、ぞっとした。
と、その時だった。
彼女の唇が動いた。
まるでスローモーションのように。
徐々に、徐々に、引き上げられていく形のいい唇。
ついに、真っ赤な唇の隙間で、純白の歯が不気味に光った。
(なっ!)
直久は、足元から、さざ波のようなものがザワワッと這い上がってくるような感覚を覚える。必死に悲鳴をこらえた。
気づかれた!
そう思った。
危険。
危険。
逃げろ。
全身が警報を鳴らし始める。
その、直後。
「下がって、直ちゃんっ!!」
それは、今、一番聞きたかった声だった。
直久は振り返ることなく、声に従う。数歩下がる直久と入れ替わる形で、二つの人影が進み出た。
――助かった。
二人の背中を代わる代わる見比べながら、直久は全身から力が抜けるのを感じた。
現れた二人は、霊能力者。妖怪退治のスペシャリストだ。
一人は、直久の双子の弟、和久。
もう一人は、従姉弟のゆずる。
二人とも、遠く離れた直久の実家から、いわゆる、瞬間移動を使って、駆けつけてくれていた。
「怪我はない?」
振り返らずに、和久が兄を気遣う。言葉こそ優しいが、緊迫感があるのは否めない。
「俺は平気だ。ただ、カトちゃんが」
「うん。今、取り返す」
和久とゆずるは、互いにちらりと視線を交わすと、呼吸を合わせるようにして、呪文を唱え始めた。二人の声が化学反応を起こしたように、一つになって響き始める。すぐに、美女の顔が歪み出した。
(呪文が効いてる!)
そうこうしている間に、もがき苦しみ始めた妖怪は両手で胸元を掻き毟るような仕草を見せた。おかげで、加藤の体が自由になる。
(カトちゃん!)
直久は無意識に、地面を蹴っていた。
崩れ落ちそうになる加藤。
両手を伸ばし、スライディングする直久。
間一髪、加藤の頭が直久の腕に収まった。
(あっぶねー……頭打って、これ以上バカになったらどうすんだよ)
ほっとする直久とは対照的に、ぎょっと目を見開いたのは呪文を唱えていた二人の方だ。
さすがに呪文を止めることは無かったものの、直久に気を取られたことで、僅かな隙が生まれた。その一瞬の隙を、妖怪が見逃すはずもない。
妖怪が、くわっ、と瞼を押し開いた。
歯を食いしばり、醜く歪んだ形相。
怒りに血走った瞳。
もう、美女の面影はどこにもない。
一秒後、その場一帯の空気がびりびりと揺れた。彼女が叫び声を挙げたのだ。だがそれは、女性の悲鳴とは程遠い。まるで機械が出す警告音に似ていた。
いっせいに一帯の鳥たちが、騒ぎ始める。
草木までが、覚醒したように、ざわめき出す。
あたりは、異様な雰囲気に包まれた。
直久たち三人は、反射的に耳を塞いでいた。耳が痛い。塞いでいるのに、内耳で爆発が起きたのではないかと錯覚するほどだ。鼓膜が破けてしまう。そう思った。
まるで拷問のようだ、と直久は思った。
耳が痛い。
やめて、もう、やめて! そう叫びそうになった。
妖怪がその真っ赤な唇を閉じるまで、たった五秒――永遠にも思えるほど、本当に長く感じた。
「直久!」
ゆずるの声で、再び止まっていた時間が猛スピードで動き出した。
はっ、となって直久は体ごと振り返る。すでにゆずるは、直久ではなく、美女を威嚇するように見つめながら、呪文を再開していた。
早く、そこを離れろ。そういう指示だと捉えて、直久は加藤の腕をむんずと掴んだ。そのまま、加藤を引きずりながら、一歩後退する。
ふと、直久は、妖怪を見上げた。
彼女は、ゆずるの方を睨みつけていた。手の触れそうなほど間近にいる直久と加藤にはまるで興味がないようで、直久が加藤を引きずって、また一歩遠ざかっても、ゆずるから視線を動かさない。そればかりか、彼女のギラギラと黒光りする瞳からは、いつしか激高が滲んできた。
先ほどと、何も容姿は変わっていないのに、もう人間に見えなかった。
直久が、三歩目を踏み出した時だった。
(――――っ)
背筋が凍りついた。
ほんの短い時間だったが、確かに見てしまったのだ――朗らかに笑う彼女の姿を。
だが、笑いかけられたのは直久じゃない。
彼女の視線の先にいるのは――ゆずる。
次の瞬間。
視界から、彼女の姿が消えた。文字どおり、忽然と消えた。
静寂が時間の流れを再び止める。
どこかに素早く移動しただけかもしれない。
肩ごと首を乱暴に捻り、左右を確認する。居ない――――上か!?
見上げても、美しすぎる星空が見下ろしているだけだ。
「……逃げたのか?」
背後の和久に確認すると、和久が頷いた。
「…………わからない。ここに居ないのは確かだよ。でも早くここを離れた方がいい」
「戻ってくるかもしれない?」
「仲間がいれば、連れてくるかもしれないし」
直久は、つい、美女軍団に囲まれる想像をした。なぜか、美女はみんな同じ顔をしていて、にやりと笑いながら直久を取り囲んでいる。想像なのに、ぞっとした。
「は、はやく帰ろう!」
「そうだね――――ゆずる行こう」
ゆずるは、女妖怪がいた場所を静かに睨んだまま動かない。
ただ、逃がしたことが悔しくて、睨みつけているんだと思っていた。だから、直久は気が付かなかった。
「――行こう」
そう言った、ゆずるの唇が、わずかに震えていたことに。