2 腹黒い友人
2 腹黒い友人
案の定、先輩は翌晩も直久を悪の道に引き連れ込もうとしていた。
「だってさ、美女の誘いを断るわけにはいかないじゃん?」
夜、直久の同室の一年生が、早々に爆睡してしまうことを知っている加藤は、いつもにも増して得意げな顔で部屋に現れると、そう言ってのけた。
「え、あれって誘われたことになるの?」
「お前、ばっかだなーっ! 良く考えろよ。『また明日』って言われたんだぞ。誰がどう考えたって、また明日会いましょうねっていう意味だろうが」
そう言われてみればそのような気もするけど。いや、そうなのかもしれないけど。それを認めるのは、なんだか悔しい気もする。
だから、ベッドカバーを引き剥がし、夏掛けと布団の間に自分の体を滑り込ませて横になる。今晩は、加藤のお供をする気はないという最大限の意思表示だった。
「だったら、一人でいけばいいじゃないですか、どうせ俺は邪魔者だしい?」
言ったあとで、直久は少しだけ後悔した。
加藤に向けるべきものではないとは分かってるのに、なんとなく苛立ちが態度に出てしまう。なんで素直に応援してやれないのだろう。
加藤と昨日の彼女がうまくいけば、めでたい事じゃないか。
嫉妬?
――違う。
そうやって自分の子供な部分を、冷静に指摘する大人な自分もいる。なんだ、胸の中がもやもやした。
「わかった。お前、さては悔しいんだろう!? 俺にあんな可愛い娘を先越されて」
「先越されて、って言うほどのこと、何もしてないじゃん、カトちゃん」
「阿呆! これからするんじゃい、愚か者!」
「ハイハイ。ガンバッテ」
「うわ、心が全然こもって無い!」
「込めてないもーん」
「お前、最近、可愛くないぞ!」
そうかもしれない。
直久は、心の中で、加藤に返事をした。そう、直久は自分の中で良く分からなくなってしまっていた。
ある日を境に、直久の心の中で、何度も何度も繰り返される自問自答。
そして、その自問自答とほぼ同じ回数だけ頭をよぎる、ある人物の不機嫌そうな顔。
――『俺が女だと、お前に何か迷惑をかけるのか?』
そう言ったアイツの辛そうな顔が、頭にこびり付いて離れない。
迷惑だなんて思ってない。
ただ、混乱しただけだった。
驚いただけだった。
どう接していいか分からなくて、なんとなく避けるようになって数カ月。
何度自問自答しても、答えが見つからない。
『女は弱いもの。
男は強いもの。
男は女を守ってこそ、価値がある。
女一人守れない、俺は何?
ずっとアイツに守られてきた俺は何?
俺は役立たず。
あんな細い体で、アイツは俺を守ってくれていた。
じゃあ、俺はアイツのために何がしてやれる?
俺には守れない。
俺にはアイツを守ってやれる力がない――』
「良いのかえ?」
「え?」
気がつけば、部屋に加藤の姿は無く、変わりに風変わりな男が浮いていた。そう、文字通り、空中に浮いているのだ。
「おい、萌葱。突然来るなって、言ったじゃないか」
萌葱は、直久がひょんなことから式神に下してしまった山神だった。山神とは言っても、多種多様である。日本は古来から八百万の神を信仰してきた。だから、その辺に生えている草も、木も、魚も、花も、鳥も、何だって神と成りえ、崇められてきたのだ。
この萌葱だとて、もとは何かの動物霊が草花の精霊やもしれないと、弟から聞かされてきたので、直久は勝手にぞんざいな扱いでも問題ないだろうと思っていた。
例えば雑草が怒ったところで、大した威力も無いだろう。だって、草に何が出来る? せいぜい、どばっと伸びるくらいだ。問題ない、問題無い。
そんな安易な考えなのは、言うまでもない。
「いい加減、慣れたらどうだ。我は、たいてい直久の中におる。常人はその無能さゆえ、見えていないだけだ」
萌葱は、いつも表情を変えずに、低い渋い声で酷いことを言う。
そもそも、神仏は嘘を言わないらしい。だが、嘘を言わないのと、真実を隠すのは決定的に違う。そこには優しさという真心が足りない。
きっと、直久が女子高生だったなら、その端麗な容姿と美声に、ころっと騙されていたに違いない。
それに、萌葱は若い女性が喜びそうな二十代後半といった出で立ちで現れる。神様なんだから、年齢や性別なんて関係ないに違いないが、憂いを帯びたような切れ長の瞳を持つ、無駄に美形な長髪男性の姿で、いつも現れる。しかも、何故か和服。
(いや、でも、タキシードとかで出てこられたら、何者だかわかんないか)
などと、直久は一人で納得していると、萌葱は再び問いかけてきた。
「良いのか?」
「何が?」
「行かせてしまって良いのか?」
萌葱が加藤の事を言っているのは直ぐに分かったが、同時に、疑問が生じた。萌葱が、直久以外の人間に興味を示すのは珍しい。なんだか嫌な予感がした。
「なんで?」
「てっきり直久は止めるかと思うたのよ」
「どういう意味だ?」
直久は、自分の顔がどんどん強ばって行くのがわかった。
急に、体を何かが這うような悪寒が走る。
(ちょっと待て。なんだ、この感じ)
そうだ。
前にも感じた。
(いつだ?)
不意に、昨日の女性が頭をよぎる。
美人だと、あんなに心をときめかせたはずなのに、何故か、彼女の顔が思い出せない。
(美人が? 夜遅くに?)
一人であんなところに立ってるなんて――。
(どう考えても、おかしい!)
第一、萌葱は人間なんかに興味を持たない。
萌葱が興味を持つのは――。
「あの女は――まさか!」
「妖じゃ」
間髪いれずに萌葱が答えるのと、反射的に直久が立ち上がるのが一緒だった。
体中の毛穴が一気に開いたような、衝撃が体を駆け抜け、一瞬で頭が真っ白になった。
状況がうまく飲み込めない。
「あの男、喰われるぞ」
萌葱の低い声が、冷たく直久の胸に響いた。
いつの間に湧きだしたのか、重力に耐えきれなくなった冷や汗が、背中を伝っていくのを感じた。
(落ち着け。そうだ、落ち着け)
つまり。
今、加藤は。
自ら、妖怪の餌に――なりに向かっている。
「駄目だろっ!!」
直久が勢いよく部屋を飛び出すのと、萌葱がにたりと笑うのが一緒だった。後ろから「やはり止めるのかえ」という冷やかしの声が追いかけてくるが、相手にしている暇はない。
とにかく急いで、加藤を追わなきゃ。
加藤が部屋を出てから、そんなに時間は経ってないはずだ。
まだ追いつく。
大丈夫、助けられる。
それしか頭になかった。
風が頬を切る音に混じって聞こえる、草木の嘲笑。
気づいてたはずだ。
分かってたはずだ。
あれはヒトじゃないと感じたはずだ。
(くそっ!!)
後悔の言葉ばかりが浮かんで、目の前の道が歪んで見えた。
「萌葱っ!!」
「なんじゃ」
返事は、直久のすぐ横で聞こえた。
萌葱は必死で走る直久の右隣りを、涼しい顔で飛びながらついてきていた。
「直ぐに、カズを呼んでくれ」
すると、さも可笑しいというように、萌葱はククッと笑った。
「我を使い魔のように扱うか」
『お前ごとき、無能な者が――』
そんな萌葱の心の声が聞こえた気がしたが、直久は臆せず叫ぶ。
「違うっ!! 頼んでるんだっ!!」
「頼み?」
「命令じゃない。頼んでる。友人として!!」
「…………友人?」
「頼む、呼んできてくれ!!」
少しの間、何かを考えるように押し黙った萌葱だったが、次の瞬間、「承知」とだけ言うと、煙のように、音もなく消えた。
そして、ついに、直久は見つけた。目の焦点が合っていないかのように、ぼーっと一点を見つめる加藤の姿と、それを大事そうに抱き締めるながら、直久を睨みつける女の姿を――。