ホタルガリ(8)
マロが徐々に、でも確実に消えてゆく自分の腕や足を眺めなてから、もう一度直久に向き直った。
「直久、すまないがもう一つだけ頼みを聞いてはもらえぬか?」
なぜか、直久にはマロの願いが分かった。
短い間でも躰を共有したからだろうか。
それとも、マロの心に直久が共鳴しているのだろうか。
「いいよ、使え」
オレなんかの躰で悪いけど。
でも、最後に彼女を抱きしめるには十分だ。
そうだろう?
「すまないな。もう、我には実体を保っている力も残っておらぬ。直久の躰ならば、最後の別れをする時間くらいは延命できよう」
直久は静かに頷き、マロに手を差し出す。マロは、その手を取るような仕草のまま、直久の躰の中に入り込んだ。それを見た女神の瞳はますます、涙でいっぱいになった。
「我が君……」
直久の声で、男神が女神を呼ぶ。
直久の腕で、男神が女神を抱き寄せる。
「なぜ、こんなことに……。わらわは……ただ、そなたに……」
生きてほしかっただけなのに……。
こんな形で、消えて欲しくなどないのに……。
そんな彼女の想いが、触れた手から浸みこむように男神の心に伝わってくる。
「我が君……」
「わらわのために、わらわがこの地から離れられぬがために、そなたは……そのように弱弱しく……」
だから、私のことなど忘れるように仕向けたの。
私に構わず、別の地で生きて欲しかった。
あなたがここに留まる限り、あなたはこの世界から永遠に消えてしまうから……。
「なぜ、こんなことに……」
あなたなど居なくても、寂しくない。
一人でも大丈夫。
たくさんの子供たちに囲まれて生きていくから。
だから、あなたは私のもとを離れてでも、生きて欲しい……。
私の望みはそれだけだったのに……。
そんな女神の深い嘆きが、後悔の言葉が、宝石のような涙となってあふれ出て来る。
「水羽……」
男神が切なそうに女神の頬に優しく触れた。
彼女が自分を遠ざけようとしたのは、自分のためだったのだ。
あのまま時がたてば、遠からず自分は女神に逢うこともできずに最後の時を迎えていただろう。
彼女の笑顔を思い浮かべ。
彼女に逢いたいと切に願いながら。
ただただ、彼女の幸せを願い。
共に歩めなかった日々を、詫び続け。
彼女のことだけを考えながら静かにこの世界から消えていた……。
「ありがとう……」
男神にはこの言葉が一番しっくり来る気がした。
消えゆく前に、彼女に逢えた。
そのために直久というヒトでも妖でもないモノに逢えた。
おかげで、こうして彼女に別れを言う時間が持てた。
これを感謝以外のどんな言葉で表現したらよいだろう。
こうして、最後に彼女の役にも立てた。
もうこれ以上は何も望まない。
ただただ、天に感謝しよう――。
そんな気持ちが、マロの頬を自然に緩ませていた。
「水羽。そなたの気持ちは嬉しいが、一つ間違っている」
男神はふっと笑いかけ、女神の涙を拭う。
「そなたのいない場所で、長く生きていても意味がない。ゆえに、これで良いのだ」
「健……」
彼女の望む通り、この地を離れ彼女の側を離れて生きながらえたとて、これからの長い長い時間をあなた無しで生きていくことができようか。
それは無意味だ。
彼女の居ない時間は……生きていても生きていないのと同じ。
何度、同じことを問われても、同じ答えを選ぶだろう。
何百年たっても。
何千年たっても。
私は――――君を選ぶ。
「そなたが無事ならそれでいい。そなたが笑顔ならそれでいい。たとえこの身が消えようとも、それが私の願いだ」
男神は女神の後悔を包み込むようにに微笑んだ。その時、直久の躰がゆっくりと輝きはじめる。
それに気がついた女神がはっとなって顔をこわばらせた。
「ならぬ……ならなぬ!」
返事をせずに、マロはただ頷いた。
その時がそこまできている。
それは男神にもわかった。
もう彼女の顔を見ることは二度とできない。
ならば、消えゆく最後の時まで、見ていよう。
その涙も、声も、全て記憶に残そう。
「水羽、どうか泣かないで」
「健……」
女神は、もう溢れる涙を止めることが出来ず、唇をわなわなとふるわせながら、必死に嗚咽を我慢していた。
――――――いかないで。
私をおいていかないで。
側にいなくても、この空の下どこかにあなたがいると思っていれば、生きていけた。
だんだんと弱っていくあなたを助けるすべがなくて。
どうすることもできなくて。
だから、あなたを手放そうと思ったの。
でも、あなたのそばに他の女がいると想像しただけでいてもたってもいられなかった。あなたのそばにいるのは私だけだと、そう信じていた。
でも、私と一緒にいればあなたは弱っていく……。
そう思ったら、あなたに逢いたくて。
もう一度だけ、あなたに逢いたくて……。
こんなことになるなら……あなたを呼ばなければよかった。
道案内など出すのではなかった……。
お願い。
生きて……。
私をおいていかないで……。
お願い……私のそばにいて―――――――。
そんな彼女の想いも、男神はただ静かに頷くことで受け止める。
大丈夫。
君の気持はちゃんと持っていく。
悲しい気持ちも、辛い気持も、全部、私が引き受けるから。
「水羽……ありがとう」
大切な時間をありがとう。
幸せな時間をありがとう。
この、君を想う暖かい気持ちをありがとう。
どうか、幸せに――――。
「ありがとう」
男神はすっと直久の躰から抜け出した。キラキラとまばゆく輝きながら、薄れてゆく男神の姿。今や、かろうじてその輪郭は分かる程度だった。
直久の助けを借りず自分の姿でこの世界に留まれる時間は、瞬きを数度するくらいの僅かな時間が限度だ。
それでも男神は女神に最後に自分の姿を見せたかった。
直久の顔ではなく。
自分の顔で別れを伝えたかった。
自分の姿を彼女に覚えていてほしかった。
急速に薄れゆく自分の躰を感じながら、男神は最後に唇を動かした。
もうその口から声として音を震わす力もない。
ただ、唇だけを動かした。
伝わるだろうか。
この気持ちが。
伝わるだろか。
この気持ちをこう呼ぶと、教わったのだ。
ヒトの言葉で、こう呼ぶと――――。
『愛している……水羽、そなたを愛している……』
その音にならなかった言葉が彼女の目に届いたその時。
男神を包む光はいっそう強くなり、ついにはまるで稲光でも落ちたかのように眩しく閃光を放ったかと思うと―――ふっと消えた。
「ああ……そんな、健っ! 健っ!」
女神は腰をうかせ、必死に男神の姿を探す。
待って……。
自分の想いだけ言って……行ってしまうなんて……。
そんなのって……。
「……いやじゃ……いやじゃあああああ……」
私だって……あなたに伝えたかった……。
ありがとう――――って。
あなたに逢えて幸せだった。
あなたと一緒にすごした大切な時間に感謝してた……。
「健……」
泣き崩れる女神の横で、男神という意識を失った直久の躰が静かに傾いていき、ぽすっという音をたてて睡蓮の葉に倒れ込んだ。




