ホタルガリ(7)
『……やってみましょう。蜘蛛は食しても?』
「好きに」
『承知』
すっと雲居が消えた。二度ほど和久が瞬きをしたのち、再び、雲居は目下の池に姿をあらわした。ガバッと目を見開き、髪を乱しながら、大きく口を開けた。
次の瞬間、彼女の口から、赤い舌が宙を舞う水蜘蛛めがけて飛びだした。二股にさけてた舌の先は、それ自体が生きているように正確に標的を捉え、くるくると巻きこむように彼女の口へと導く。その間、0.1秒。
気付けば雪のように白く艶やかだった肌に、何やら鱗のようなものが浮き出ているのも見える。
(雲居……蛇に戻っちゃってるし野生丸出しだなぁ……久しぶりに見た、あんな雲居)
少しでも蜘蛛を食べることで力を得てから、妖鳥と対峙しようということなのだろう。
「なんか、雲居生き生きしてない?」
和久は口端を引き上げて笑った。
妖鳥と妖蛇が我先にと、飛び回る虫や蜘蛛を食べつくすのに、そう時間はかかわらなかった。
「なんじゃ、おぬしは」
最後の一匹を食べ終えた妖鳥が、口元を手の甲で拭いながら直久の声で雲居に問う。
「妖蛇の分際で、我の獲物を横取りしよって」
ニヤリと不敵に笑う直久の腕は指の先まで鱗におおわれ、爪は長く伸び、猛禽類を連想させた。
『その憑代から出ていかれよ』
「おぬしの指図は受けぬ」
妖鳥は、一度だけ背中の翼で羽ばたいてみせた。その風圧を使うことで瞬間移動でもするように、雲居の視野から姿を消す。何事もなかったように雲居が首を左に動かし視線で追った。
「探しておるのは、これであろう?」
いつの間にか妖鳥は、腕の中に少女を抱きかかえていた。
さすがの雲居も返答に困り、滝上の主人を仰ぎ見た。主人は、身を乗り出すようにしてこちらの様子をうかがっている。
『ゆずる殿は無事なのか?』
「傷一つない……器はじゃが」
それだけ言うと、妖鳥は目を閉じた。そして、すっと憑代から抜け出す。まるで支えをなくした人形のように、ゆずるごと直久の躰がその場に崩れ落ちていく。
「雲居ッ!!」
遠くから叫ぶ主の声に従い、雲居は両者を抱きとめた。雲居の腕に落ちて来た直久の躰には、すでに妖鳥の痕跡は一つも残されていなかった。
雲居には理解できなかった。
なぜ、妖鳥はこんなにもあっさりと憑代を引き渡したのか。無能を相手に、あそこまで憑代の躰を変異させれば、普通は器の方が壊れてしまう。よほど相性が良いとしか考えられない。だとすれば、このまま器を使い続けることもできただろうに……。
『私と和久では……和久を壊してしまう』
雲居は小さく呟いてから、数秒ほど直久の顔を静かに見つめていたが、次の瞬間には音も無く主の元へと両名を運んだ。
直久は、がばりと上半身を起こした。
「……カズ?」
目の前になぜ弟がいるのだろう。というか、何がどうなっているんだ?
記憶の糸をたどるように髪の毛を掻きあげた。
「怪我はない?」
ケガ?
言われるままに、自分の体を確認する。
手も足も付いてるし、痛いところはない。
心なしか、口の中が苦いし、喉がイガイガする。
「大丈夫みたい……。てか、ゆずるは? マロは?」
「ゆずるなら大丈夫。そこで寝てる」
和久の示す方向に首を動かすと、1mくらい離れたところでゆずるが横たわっているのが目に入った。思わず腰を浮かせ、ゆずるに詰め寄った。
その顔に苦痛の影は見られない。見た限りでは怪我もなさそうだ。
(よかった……)
ふう、と息を吐き、やっと腰を落ち着かせる。
「たく、早く助けにこいよな、カズ」
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「いつもいつも、ほんと、遅いんだよ。まじで死ぬところだったぞ、今回は」
「うん」
「萌葱が助けてくれなかったら、ヤバかったって……あれ、萌葱は?」
「今は……居ないみたいだよ……」
「なんだ、お礼言いたかったのに。って言っても、どうやって蜘蛛を追い払ったか全然わかんないんだけどな。萌葱に躰を貸してたから」
カラカラと笑う直久の横で、和久の顔が一瞬だけ険しくなったのだが、直久は気がつかない。
「で、マロは?」
「あそこ」
和久が指示したのは、直久たちがいる滝上から見下ろせる睡蓮の池の中央だった。たしかに、女神の姿は見えた。大きな睡蓮の葉の上にへたれこむように座っている。だが、いくら探してもマロは見当たらない。
嫌な予感に追い立てられるように直久は立ち上がった。そして、足元の岩を蹴って滝壺に身を投じる。大きな水音と共に、激しく水しぶきが上がった。
「直ちゃん!?」
驚いた和久は声だけで直久の姿を追いかける。直久が直ぐに水面に顔を出した。それを見て、今度は和久が、ホッとする番だった。
「まったく……あの行動力と決断力は、直ちゃんの長所でもあり短所でもあるよね……。雲居、悪いけどホタルたちが直ちゃんにちょっかい出さないように、念のため見ててくれる?」
『承知』
和久の隣には誰もいないはずなのに、若い女性の声だけが聞こえてきた。
「マロ……」
一際大きな睡蓮の葉に近づくにつれ、直久の顔は曇っていった。
その場で泣き崩れる女神の肩に手をやり、なだめているマロの姿があった。二センチではなく、直久よりも長身のその姿は、今にも消えそうなほど弱弱しい光を放っていた。
「なぜじゃ、なぜ、このようなことに……あの男が許せぬ……わらわを誑かしおって……」
唇をわなわなと震わせながら呟くように言った女神の目から、大粒の涙がハラハラと落ちていく。
「ほれ、もう泣くのをやめぬか。そなたが泣くと下界は大雨になり、人間たちが嘆くぞ」
なんだか嬉しそうにマロが女神を覗きこみ、彼女の頬を流れる涙をぬぐってやる。
暖かな空気が流れるその場に、直久は乱入して良いものかと、ついに泳ぐ手を止めた。が、マロの方がこちらに気が付いて、目が合う。
「直久、無事であったか」
「マロたちも、無事でよかった」
言葉を返した瞬間、女神がものすごい勢いで振り返り、ギロっと睨んできたので、再び泳ぎ始めようとしていた手を再びとめる。
(ええ、なんで睨んでんの!? オレ何もしてないしっ!)
「何をしておる、こちらへ参れ」
「あ、ああ……今行く」
女神の様子をちらちら伺いながら二人の元へと急ぐ。
「直久、すまなかったな。おかげで、我が君はこの通り無事じゃ」
「それはよかったけど、でも……」
マロ自身が今にも消えそうじゃないか。
そう言葉を続ける勇気がなかった。おそらく、言う必要もない。
女神も、マロ自身もわかっているのだ。
別れの時が近づいていることを……。




