11 天国と地獄の堺(1)
11 天国と地獄の堺
――――――ねえ?
ゆずるは、どきりとした。
暗闇の中、突然聞こえてきた声。その主を探す。
何故か、聞き覚えのある女の声だった。
だが、右を向いても、左を向いても暗闇が続くだけ。
何も見えない。
誰もいない。
光源がないのか、自分が瞼を閉じているのかすら分からなくなりそうだ。
――――――ねえ、こっちよ、私を見て?
「誰だ」
ゆずるは静かに言い放った。
さっきまでの音の反響がない。
むしろ無音。
自分の息遣いだけが大きく聞こえる。
今度は、視覚ではなく聴覚に騙されるなということだろうか。
触覚は――何も感じない。温度も空気も水も。
気がつけば、掴んでいたはずの直久の手のぬくもりも消えていた。
また一人になってしまったのだろうか。
――――――ここよ、ここ。私はここ。フフフ……
その瞬間、目の前に人が現れた。その人物にゆずるは、ぎょっとした。
「!」
光源が無いはずなのに、はっきりとその姿が確認できたのだ。
華奢な肩からサラサラと落ちる亜麻色の髪。長さは腰まであるというのに、毛先まで艶があり整えられている。
春風のような優しい色合いのワンピースに身を包み、不自然なほどにそれとは不似合いな真っ赤なハイヒールを履いて笑う女性。
「……ど……うして……」
ゆずるが絶句するのも無理はない。
今、目の前にいる、絵に描いたような“女性”らしい女性。それはどう見ても――自分。
そう、ゆずる自身がそこに立っているのだ。
顔は自分。
どうみても自分の顔。
でも、髪型や着ている服で、こうも違うのかと思うほど、別人に見える。
ちょうど、一卵性の双子を見ているようだった。
「どう? 私だってちゃんと可愛く見えるでしょ?」
目の前にいる“ゆずる”が言った。
「なのに、どうしてみんな、私を男みたいな目で見るのかしら? 私だって他の娘みたいに、可愛いスカート穿いて、おしゃれしたいのに」
「やめろ……」
そう言いながらも、ゆずるは目の前で動く“女装した自分”の姿から目が離せなかった。
「見て? ルージュも塗ってみたのよ。ピアスも開けてみたいし、ネイルもしてみたいの。髪だって、パーマをかけてフワフワにしてみたいのよ」
“ゆずる”は、ピンクに色付く唇を少しつぼめて、つまんなそうな顔をした。ゆずるなら絶対にしない仕草だ。
「でも、じゅうぶん可愛いでしょ?」
“ゆずる”が、にこりと微笑みかけてきた。
ゆずるの視線が大きく左右に揺れる。
何だこれは。
何なんだ!
その言葉だけが頭の中をぐるぐると回る。
「ねえ、どう? 私可愛い?」
言いながら“ゆずる”は、スカートの裾を広げて、くるりと一回りしてみせた。そして、首を傾げて、ゆずるを覗きこんでくる。
それは、クラスメートの女の子がよく見せる仕草だ。普段のゆずるは、それに冷ややかな眼差しを向けていた。それを、今、目の前の自分がしている。
信じられない。
直視できない。
恥ずかしい、という気持ちを通り越して、どうしていいかわからないというレベルにまで達していた。むしろ、頭が真っ白で状況が飲み込めないというほうが正しいかもしれない。
そんなゆずるを知ってか知らずか、フワフワとした柔らかな雰囲気を纏った少女は、嬉しそうに喋り続ける。
「やっぱりもっと、ぴらぴらした服の方がよかったかなぁ。どっちが好きだろう? ねえ、どう思う?」
「…………」
「早く直久に見せたいなぁ。可愛いって言ってくれるかなあ?」
「……え……?」
誰に言わせたいんだ? と思ったが声がでなかった。が、顔に出たのかもしれない。
「直久だよ、直久!」
「……なっ」
思いもよらぬ人物の名に、ゆずるは絶句した。
「直久が見てくれなきゃ、こんな格好しても意味ないもの。ねっ? そうでしょ?」
「……なん……だと」
「なぁに? どうしたの?」
“ゆずる”が不思議そうにこちらを見ている。
何かおかしなことを言ったかしら?
そう彼女の瞳が語りかけてくる。
「だって、そうでしょ? 普通の女の子は、す――」
「やめろ!!」
“ゆずる”の声を遮るように、ゆずるは声を上げた。
「何よ、急に大きな声だして」
「うるさい! 黙れっ!!」
ついに、ゆずるは彼女から顔をそむけた。
もうたくさんだ。
こんな自分見たくない。
こんなの悪夢でしかない。
俺は男としてずっと生きてきた。それに後悔はない!
これからもずっと、男として生きて行く。
女の自分なんて邪魔でしかない。
女の自分なんて――今までの自分を否定する存在以外のなにものでもない!!
「消えろ」
女の自分なんて必要ない。
この躰から消えろ!!
「消えろ! 消えろ!! 消え失せろっ!!」
気がつけば、声の限り叫んでいた。
まるで悲鳴のように。
「…………」
闇に静けさが戻る。
重い、重い、沈黙。
その沈黙で、少し冷静を取り戻した。
ここは、敵の巣穴。
きっと、さっきのは敵の幻影に違いないのだ。
それが証拠に、ほら、静かになった。
自分の気力と言葉の力で、消え失せた。そうに決まってる。
大丈夫。
気を強く持て。
心に隙を見せたら――命取り。
幼い頃から、散々、この身に刻んできた教訓じゃないか。
強く――強く――己の弱さを敵に見せるな。
ゆずるが自分に言い聞かせるように、ゆっくりと息を吐いた時だった。
「嘘つき」
ゆずるの全身がギクリとなった。
「もう、限界だ。男のフリなんて、していたくない。そう思ってるくせに、どうして嘘をつくの?」
聞こえてくるのは確かに自分の声。
(だめだ、聞いてはだめだ!)
そう心の中で叫んでるのも自分の声。
「辛いんだろう? 限界なんだろう? 自分の躰が叫んでる声が聞こえないか?」
ほら、聞こえるだろ。
心の悲鳴が。
「違う!」
―――戻リタイ。
「やめろっ! 違う!」
何を拒むことがある。
もうその躰は変化を始めているじゃないか。
あとは自分の心を受け入れるだけだ。
女ニ 戻リタイ!
女ニ 戻リタイ!
女ニ 戻リタイ!
「うああああーーッ!!」
この時、ゆずるは自分の中で何かがプツと切れた音を聞いた。




