第二十一話【私の力と、君の心・3】
部屋を揺るがすほどの振動に呼応するように、アルフレッドはゆっくりと頭を上げた。
天井が軋んで砂埃が僅かに落ちてくるほどの衝撃が幾つも重なる。考えなくても、この部屋が危険であるというのはわかるものだが、しかしアルフレッドは天井で揺らぐ明かりを一瞥すると、力のない笑みを口元に浮かべた。
「もう、どうでもいい……」
外で何か騒動が起きている。
もしかしたらクロガネが自分を救うために戦っているのかもしれない。
だが、もう疲れた。
疲れてしまったのだ。
「俺は……俺には、何も出来ない」
現実に対する反論が一切出ない程度の夢しか持たない彼には今や、理想を支える力も一切存在しない。
有象無象の一人。
その事実をまざまざと理解させられ、己が『特別ではない』と知ったからこそ、現実に潰れた周りの大人と同じく、今のアルフレッドは光を失った眼で項垂れるしかなかった。
何も見なかったからこそ失った命。
何も知らなかったからこそ裏切られた絆。
どれもしっかりと現実を見て、考え、行動していれば逃れることが出来たはずの苦難だったはずだ。
夢見がちな己を信じた。信じてくれる誰かを信じた。
その結果が今なら、最早アルフレッドは自分を含めた全てを信じることが出来なかった。
現実とはそういうことなのだ。
誰も信じられない。己すら信じられない。
そして目の前の糧を得て、いつ途切れるか分からない明日を繋ぐために今日を生きる。
それがこの荒野の世界で生きるのに必要な正しいあり方で、これまでのアルフレッドは荒野の法に従わぬ只の愚か者でしかなかった。
故に、もう抗うつもりはなかった。
例えここで死のうとも、それはいいのだろうと思うのだ。
「俺は無力だ……」
己に言い聞かせるようにアルフレッドは一人呟いた。
天井の震えは徐々に大きくなってきている。
このままここで呆けていれば、何れ天井は崩落してそのまま生き埋めになるだろう。
願ってもない終わりだな。
アルフレッドはそう思った。分不相応な力に溺れた末路としては相応しいのではないかと、自嘲の笑みが漏れる。
「……あぁ、これで、終わりか」
見れば、天井はゆっくりと亀裂を走らせていた。アルフレッドは知らないが、ほぼ直上でワームが暴れたため、所詮は仮設でしかない地下の隔離室では耐えられなくなったのだ。
ほうっておけば数分か。
いや、そんなにかかるまい。始まれば一瞬で、加速度的に天井のひび割れが増えている。
死ぬのだ。
このまま、残り僅か。
それで、死ぬ。
「……はは」
分かってしまえば気楽なもので、肩の力が抜けてアルフレッドは全身の力を抜いて、糸の切れた人形のように再度項垂れた。
そしてゆっくりと目を閉じる。もう何も見たくなかった。押し寄せる現実も、落としてしまった理想も、もしかしたら今も抗っている少女のことも。
「うぅ……」
全部から目を逸らして耳を塞ぐ。
いいじゃないか。
もう、何もかもに疲れたのだから、目を閉じて耳を塞いでもいいじゃないか。
「う、ぅぅ……くそ」
このまま眠るように終わればいい。
抗う意味なんてない。全てを受け入れ、身を委ねるのが最善だ。
そうしたらほら、後は震える室内も気にしなければ、こうして静かに──
「う、うぅぁ……! い、やだ……」
ならば、この口から漏れる言葉は何なのだろうか。
「嫌だ……まだ、死にたくない……!」
目を閉じたのは、溢れ出る涙を意識したくなかったから。
耳を塞いだのは、足掻こうとする声を聞きたくなかったから。
体の震えを部屋の震えと思ったのは、恐怖に怯える己を自覚したくなかったから。
「クソぅ……畜生……! こんなの俺は!」
だが理性の牢獄では本能の抵抗を閉じ込められなかった。
溢れ出した感情は何なのか。
目を開いて、涙で滲んだ瞳で天を睨むのは何のため。
歯を食いしばり、震える体を拘束する手錠を外そうともがくのは何のため。
そんなこと、決まっている。
「死にたくない」
生きたい。
「死にたくない!」
生きたいのだ。
アルフレッドは己の生き汚さに憤りすら覚えた。夢見がちな英雄ごっこで人を殺した癖に、そしてたまたま手にした力に溺れて、もしかしたら届いたかもしれない理想へ続く道を踏み外した癖に。
それでも生きたいのだ。
醜態を無数と重ね、今も無様を晒しながら、尚、生きたいのだ。
生きていたいのだ。
「俺は……!」
弱くて、頼りなくて。
ちっぽけで、力はなくて。
それでも、生きたい。
「俺は!」
熱のこもった涙が頬を伝う。
狂おしいほどに死にたくなかった。
死にたくなるほどの無様を晒しながら、まだ生きたかった。
だがどんなに願おうとも、アルフレッドに残された時間はない。叫ぶ間にも天井はおろか周囲の壁のひび割れは増えていっている。
結局、覚悟を決めて逝けるわけがなかった。
アルフレッドは何処までも人間だ。英雄に憧れるだけの小市民でしかなく、現実に理想を壊された今、縋るものなき今では、死の間際で英雄らしく潔くなんてなれない。
物語を紡ぐ英雄になどなれはしないのだ。
小市民は小市民らしく、無様を晒して無様に散っていく。
それでも死にたくない。
無意識の抗いを止められない。
足と腕の手錠をかけられた部分が傷つき、流血で濡れようが構わず、痛みを認識する余裕もないくらいに醜く足掻きながら。
死にたくないと強く願った。
理想も、現実も、どれも脳裏にはなく、只己の命ばかりを願った。
「助けてくれ……!」
誰もでもいいから。
死にたくないから。
「助けて……!」
嗚咽混じりに、幼子のように喚き散らしながら。
死にたくない。
まだ、俺は──
「俺はまだ……英雄になれてないじゃないか……!」
その最後の最後。
現実も理想も知らぬと叫び、生きるために生きたいと吼えながら。
口にしたのはそんな、結局捨てることが出来なかった『英雄』で。
あぁ、そうか。
「……もう、朝日に誓ったんだった」
クロガネと出会った翌日。
死者の重みに潰されそうになりながら、それでも朝日を見て強く願った誓いはここに。
胸に宿した鋼鉄の理想像。
いつか夢見た背中を思い、アルフレッドは最後に気づいた己の本物を胸に抱きながら尚も抗いを──
そのとき、目の前の扉に何か硬い物がぶつかる音がした。不意に視線を上げたアルフレッドの前で音はどんどん大きくなり、そして遂に木製の扉の一部が限界を超えて砕けた。
「ここかぁアルフ!」
「え?」
そして、目の前で、開くことのなかった扉が豪快に吹き飛ぶ。同時に転がるように飛び込んできたのは、幻想的なまでの銀色。
誇り塗れになって尚、その幻想的な美しさは何ら損なわれていない少女が、アルフレッドを見てその瞳に輝くものを滲ませていた。
「アルフ! 良かった……無事かアルフ!」
扉を砕いて現れたのは、銀色の髪を鮮やかになびかせる少女、クロガネだった。その手には何処からか手に入れたライフルが掴まれている。
それで強引に扉を壊したのだろう。ライフルを握る掌の皮はずる剥け、赤い血がライフルの銃身にこびり付いていた。
なんで、ここに。という思いがこみ上げるが、アルフレッドの疑問は現れたクロガネの姿を見て全て吹き飛んでしまった。
「お前……そんな体で……」
「ん? あ、あぁ、大丈夫だ。ちょっと痛いけど、大丈夫だ。大丈夫」
木片で抉られた右肩は真っ赤に染まって、今も鮮血を滴らせている。それだけではなく体の至る所に切り傷が残り、白い肌を赤く染めていた。
満身創痍。それをちょっと痛いだけだと言ってみせたクロガネだが、アルフレッドはその頬に残った涙の筋を見つけ、直ぐに嘘だと気づいた。
痛かったはずだ。
涙を流して、只の絶望で涙する俺なんかより痛かったはずだ。
「クロ……」
「大丈夫。大丈夫だアルフ」
クロガネはむしろ己に言い聞かせるように呟いた。
そしてゆっくりと歩み寄ってくるその足取りは、僅か数歩の距離だというのに重く、遅々としたものだ。
明らかに怪我のせいで体に限界がきている。直後、当然の帰結としてクロガネの膝が崩れ落ちた。
「えぇい……! このポンコツが……!」
思い通りにならない己の足を睨んで、クロガネは歯噛みする。だが主の命に背き、その両足は思うとおりに動かなかった。
少女形態の魔神兵装としての性能は限界を超えている。そんなことはクロガネには分かっていた。分かっていても、後少しで届かない己の体が口惜しかった。
「アルフ……アルフ……!」
「クロ……お前」
「ま、待っておれ。着装さえすめば……この程度……ぐぅ、ぅ」
「どうしてお前はそこまで……」
俺のために?
それとも、折角手に入れた魔奏者を、大切なパーツを失わないために?
「お前が! 私の力だからだ!」
間髪入れず、クロガネは血を吐き出すような形相で応えた。
迷いのない答えだった。
だがそれは、無力に嘆くアルフレッドからすれば意味不明とでも言うべき答えに違いない。
「ち、から? 俺が、お前の、力?」
言葉を反芻するアルフレッドに、必死に這いよりながら「そうだ!」とクロガネは返した。
「私だけでは何も出来ないんだよアルフ。私は力だ。でも、私は私だけではこんな無様を晒す無力な女でしかない……何も出来ないんだ。こうして、うぅ、こうして、お前に後少しで届くのに、私は……!」
「クロ……」
気づけば、乾いていたはずの涙が再びクロガネの瞳に浮かび、こらえることも出来ず直ぐに溢れ出した。
それは己への憤り。不甲斐なさへの涙。
同じだ。
先程まで、アルフレッドが流していた涙と同じ涙を、クロガネは流している。
「情けない。本当は、お前のほうが辛いのに……親しき者を失い、涙も乾かぬうちに信頼した者に裏切られ、見えぬ痛みに苦悶するお前と比べて、私などたかが体の痛みだというのに……うぅ。情けない。私は、こんな痛みで動けず……恥知らずにもお前の同情を引くように涙を流して、うぅ、うぇ……わた、私、は……」
「クロ……俺、は」
「う、ひっぐ……う、ぅぅ……蔑んでもよい。呆れてもよい。だがせめて、お前がここから逃げるまでは、どうか……私と今一度……もう一度だけ、手を……」
「俺も、な」
いや、俺のほうが、だ。
アルフレッドは、傷つきながらも自分の下へ駆けつけてくれたクロガネに申し訳が立たず項垂れた。
情けないのは俺のほうだ。
笑え、クロ。俺は、死の間際でお前のことを考えもしなかったんだ。
生きたいって思ったんだ。
浅ましく、自分で招いた惨劇に懲りることなく、それでも生きたいって思ったんだ。
駄目な奴だ。
救いようがない。
本当に情けなくて、苛立つ男だ。
「アルフ……私は──」
「もういい」
「あっ」
クロガネは拒絶を示すようなアルフレッドの言葉に喉を詰まらせ、動きを止めた。そして、堪らず視線を逸らしてしまう。
怖い。
痛い。
もういいと言われた。
つまり、嫌いだと言われた。
その言葉は、肩を貫いた木片の痛みを超えた激痛と恐怖をクロガネの心にもたらした。
だがそれも当然だ。
だってこんなに自分は情けない。
アルフレッドの輝きに気を取られすぎて、彼の身を守る鎧としての役割を果たせなかった。
そして、痛みに苦しむ主の前で、痛い痛いと喚き散らしたのだ。
「……すまぬ。だが今は──」
身を裂かれる以上の痛みを強引に堪えながら、たとえ見放されても、せめてここから救い出すためにクロガネは無理やり顔を引き締める。
そしてアルフレッドに手を伸ばそうと再度前を向き──
「クロ。もう、いいから……」
「アル、フ?」
「ありがとな。ホント、ありがとう」
冷めた視線を覚悟していたクロガネに向けられたのは、暖かさを感じるほど優しい笑顔だった。
どうして、とクロガネが思う間に、アルフレッドは身を捩って可能な限り体を前に出す。
「手を伸ばせ、クロ」
「あ、う……」
「大丈夫だ。触れれば、心を感じれば、分かる」
「だ、だが……勝手に覗くのは……」
「いいから、俺がいいって言ってるんだ」
だから、手を伸ばせ。
躊躇するクロガネにアルフレッドは問答無用と告げる。
「言いたいことや、謝りたいことがたくさんあるんだ。でも、上手く口に出来る自信はないし、何よりそんな時間も残っていない……だからクロ、俺を見てくれ。俺の全てを、お前に晒す」
言葉よりも雄弁な心を開こう。
情けないと叫び、己の弱さを吐露したお前のためにも。
俺こそ情けない奴だって。お前が居なければ何も出来ない愚か者だって伝えよう。
「正直、どうしていいのか分からないさ。サフランさんの言うことは最もで、俺なんかがお前のような力を手にすることなんて、本当は駄目だってくらい分かっている」
それでももし、こんな俺でも受け入れてくれるなら。
情けなくて。
弱虫で。
臆病で。
無力で。
長所なんてない、駄目な俺だけど。
「それでも、クロ。俺はお前と一緒なら──荒野だって、超えていける」
胸の意思だけは、もう裏切らない。
英雄になると誓った。
憧れに届くと手を伸ばした。
ふざけた理想だけど、叶える道へと進むと決めた。
「だから……来い」
「ッ……」
「お前が弱くて、情けないって言うなら、俺がお前の意志になってやる! 俺の理想で、お前の鋼鉄を満たしてやる! だからクロ……クロガネ!」
いつの間にか天井のひび割れは限界を超えようとしていた。部屋に流れ始める流砂の雨。決壊は直前で、躊躇する余地なんて何処にもない。
だからこそ。叫ぶのだ。
「俺とお前で!」
「アルフ!」
そして、遂に天井は瓦解する。
一気に部屋を飲み込む土砂の激流。それが二人を隠す直前、最後の力を振り絞ってアルフレッドの下へと飛び出したクロガネとアルフレッドの唇が重なる。
二度目の誓いは、血と熱砂の下。交わした思いを汲み取って、二人の体が漆黒の閃光を撒き散らす。
土砂はちっぽけな二人を飲み込まんと降り注ぐが、最早二人にはそんなことは関係なかった。
触れ合わせた吐息を通して、アルフレッドとクロガネの心は通じ合う。
情けないところも、弱いところも、醜いところも、全てを全て二人は共有する。
「アルフ」
閃光の中、決意の光を込めたクロガネの瞳を見つめ返しながら、その頭をアルフレッドは優しく撫でた。
「あぁ」
行こう。ここから先の、今に抗うために。
「『着装』!」
そして少年は再び鋼鉄をその身に纏う。
纏った鎧に力を込めて。
紅に染まった瞳に決意の火を。
「行くぞ! クロガネェェェェェェ!」
猛り狂うは熱砂を燃やす熱き心。
一人ではないと分かったから、今ここで紡いだ思いと力を胸に抱き、アルフレッドは混沌と化す戦場へと飛び出していくのであった。
迷いを捨てた君が疾走る。
残酷な今も。
覆せない現実も。
身を切り裂いていく真実も。
全てを抱きしめられなくても、理想と呼ばれる純潔だけは、手放すことなく抱きしめて、穢れを追い抜き疾走る様を、愚直と人は嘲笑う。
だからこそ疾走るんだ。そう叫べる強さを、君は知った。
最終話【愚かと呼ばれる、君の名を──】
荒野を疾走る鋼鉄よ。愚かで無知な君こそが、英雄なのだと少女は笑った。