第十八話【緩やかなる朝・1】
翌日、朝日も姿を半分ほど現した早朝に、アルフレッドとクロガネはベースの外に出ていた。
ワームが膨大な魔力に惹かれるという特性があるのを考慮して、二人はベースより数キロ離れた場所まで来ていた。周囲にあるのは赤茶けた岩か魔獣や動物の骨、しおれた草程度であり、ここならば思う存分力の行使が出来るだろう。
「さて、ここなら充分だろうよ……ん? どうしたアルフ、緊張しているのか?」
周囲を見渡して満足げに頷いたクロガネは、些か強張った表情で立つアルフレッドの顔を不思議そうに見上げた。
クロガネとしては何を緊張しているのかわからないだろう。だがアルフレッドにとって、これから変身を行い訓練するということは──
「な、なぁ、これから変身するんだけどさ……また、前回みたいなこと、するのか?」
昨夜も同じベッドで寝ていて今更ながら、前回の変身のときはこの浮世離れした美しさを誇る少女と口付けをしたのだ。
意識しないようにしているが、アルフレッドの視線はちらちらとクロガネの小さな唇に向けられている。その視線の意味を察してか、クロガネは特にこれといった反応を示さずに「あぁ、それなら問題はないぞ」と答えた。
「あまり小難しい話をするとお前にはわからんだろうから掻い摘んで説明するが。前回はアルフの電気信号を解析するためにチューしたが、ラインが繋がった以上、手を繋げる程度の接触をすれば、後はお前の意志を受信して着装することは可能だ」
「そ、そうか。ならいいんだ……」
意味はあまりわからなかったが、また恥ずかしい思いをしなくて済んだよいう安堵と、少々残念に思う気持ちを混ぜた複雑な心境で、一先ずは納得する。
そうして若干頬を赤らめて視線を逸らすアルフレッドから何かしら悟ったのか。クロガネは少々悪戯っぽく唇の端を吊り上げると、アルフレッドの右手に掌を重ねた。
「つまり、こうしておればお前が今考えていることがわかるということでな」
「え?」
「ほうほう、なんだアルフ。お前、私とチューしたいのか?」
「いぃ!? お、おま! お前! 勝手に人の心読むんじゃねぇよ!」
慌てて手を離そうとするが、わざわざ指を絡めさせたクロガネの掌は解けないし、彼女は解くつもりもない。
「いーやーじゃー。ヌハハッ、焦っておる、焦っておる。まぁそう恥ずかしがるなアルフよ。別に私はチューの一つや二つくらい気にせんぞ?」
「俺が構うんだよ!」
──そんな簡単にキスしてたまるか。というか、もう少し恥じらいをもてよ!
慌てふためくアルフレッドの様子が楽しいのか。わざとらしく唇を突き出してくるクロガネは「ほーれ、ほーれ、チュッチュッ」と少年の純情を煽ってくる。
上等だ。
そのふざけた態度に恥ずかしさを通り越したアルフレッドは邪悪な笑みを浮かべる。
瞬間、その脳裏に過ぎった思考を読み取ったクロガネがサッと顔を青くした。
「な、な、止めぬか! お前! 何てことをしようとしておる!」
今度はクロガネが手を離そうとするが、今の状態では見た目どおりの少女の力しか出せないらしく、どんなに力をこめようと遺跡発掘で鍛えたアルフレッドの手からは逃れられない。
形勢逆転を察したアルフレッドは怪しく笑うと、空いた左手の折り曲げ、親指に添えて、ぐっと力をこめた。
直後、クロガネの前で風を切る中指。親指の溜めを作って放たれた一撃は間違いなく──
「い、嫌だ! デコピンは痛いって知ってるぞ! とっても痛いんだって知ってるぞ!」
「安心しろクロ。知ってるだけで食らったことはないんだろ? なら痛くないかもしれないぞ? 物は試しだ」
「やーだー! 伝わってるよ! お前のイメージの中で私の額に炸裂する痛いののイメージがわかるんだかんな!」
だがクロガネがどんなに抵抗しようとも、アルフレッドのデコピンは、徐々に、だが確実にその額へと近づいていく。
──ただではやらせん!
咄嗟に顔を逸らして逃れようとしたが、次の瞬間、先程までデコピンの型を取っていた左手がクロガネの頭を鷲掴みにした。
「にゃッ!?」
「手を繋げば思考が読めるみたいだが……イメージばかりに気を取られて俺の動きを察するのが遅れたな」
しまったと思う。
まさか左手はフェイクで、デコピンの本命は、繋いでいた右手のほうだったとは。
逃げることは敵わない。足掻くことの無意味を悟ったクロガネは、それでも尚足掻くのをやめず、不敵な笑みを浮かべた。
「ここまでか……! ふふふ、良くぞ私を捉えたぞアルフ。その功績を称えてやるからこの手を──」
「お断りだ」
「もうからかわな──」
「お断りだ」
「ぐぬぬ……」
説得も困難か。まだ額を両手で隠すという手段も残っているが、アルフレッドはそれを見越してか、脳裏で額を隠す自分の掌を執拗にデコピンするイメージを浮かべている。
最早、自身が彼の暴虐から逃れられぬことを悟ったクロガネは、訪れるだろう痛みへの恐怖から涙目になる。
だがせめて。
せめて、許される抵抗を一つ。
クロガネは潤んだ瞳でアルフレッドを見上げて一言。
「……痛くしないで?」
アルフレッドは優しく笑った。
「お断りだ」
直後、朝日の指し始めた荒野に、「ぬわー!」というなんとも情けない少女の悲鳴が響き渡った。