第十六話【朝日に君と】
──その日、夢を見た。
数年前から見なくなった、鋼鉄の背中の夢。それは同時に幼少時に刻まれたトラウマでもある。
飛び散る人肉。空を埋め尽くす鮮血と醜悪な魔獣の群れ。
地獄の体現に座す俺の身体は動かない。地獄に在るという事実を正しく理解した結果、単純な生命活動が停止するよりも早く、心が死んだのだ。
この世には夢も希望も存在しない。荒れ果てた大地では実りは期待できず、戦火はゆっくりと俺達一般人の生活を締め付け、いつ来るかわからぬ巨大魔獣の襲撃に怯える日々。そして当然の如く襲われた俺の住む村。逃げ惑う人々は、一方でただ痛い思いをしたくないから走るだけで、生き延びることを考えている者は何処にもいない。
皆、死ぬ。
絶望したまま、死ぬ。
ご他聞に漏れず、心が死んだ俺の前に現れた巨大な蛾の触手は、動くことのない俺の脳髄を啜るべく伸ばされた──
でも、俺の絶望はここまで。
この絶望にいつも心を冷たくしながら、直後に現れた鋼鉄の背中から吐き出される熱気が、いつも俺の身体と心を熱く、強く滾らせるから──
「……夢?」
いつの間にかベッドに入っていたらしい。窓から差し込む朝日に照らされ目を覚ましたアルフレッドは、久しぶりに見たかつての記憶を思い出す。
絶望の具現と、希望の象徴。この世の端と端にある光と闇を一度に見た極限は、アルフレッドの心象風景に違いない。
くじけそうなとき、いつだってあの背中が自分の心を支えてくれた。
「そう、だよな……」
顔を仰け反らせ、窓か覗く太陽を眺める。
眩しい閃光。
思うのは、心に刻んだ英雄像。
「うん。大丈夫」
──朝日を見たとき思ったことが、大切なことだから。
昨夜、クロガネが言った言葉をアルフレッドは思い出す。昨日、多くのものを失いながら、それでも手にした唯一無二の力。
心はまだ痛いけど、それでもこの力で目指すのが鋼鉄の背中ならば、俺はまだ前に進める。
そう気持ちを新たにしたアルフレッドは、心機一転起き上がろうとして、身体の動きを遮る腹部の重量感に目を向けた。
「……何でこいつ、俺の腹にしがみついてるんだよ」
全身をアルフレッドに絡めて、銀髪の美少女、クロガネは気持ちよさそうに眠っていた。
朝日を反射して光る銀色と白い肌。まるで眠り姫のように穏やかな顔で寝るクロガネを見ていると、女の子に抱きつかれて寝ているという状況にすら驚く気すら失せる。
──そういえば、昨日こいつに慰められたんだよな。
無邪気な顔の癖して、昨夜アルフレッドを慰めたときは、まるで年上の女性のように包容力があった。
うっかりそのまま寝てしまったが、その後頑張ってベッドまでアルフレッドを運び、そのまま眠ってしまったのだろう。なんとなく、ひーひー言いながら自分をベッドまで運ぶクロガネの姿が思いつき、ついにやけてしまう。
「ん……」
アルフレッドの気配を感じたのか、クロガネがゆっくりと瞼を開いた。
蕩けた金色の瞳とくすんだ赤い瞳が交差する。互いの顔が瞳に反射する距離で見詰め合った二人は、どちらともなく微笑を浮かべていた。
「おはよう、クロ」
「おはようだアルフ。クククッ、昨夜は初めての同衾、そして今朝は朝チュンまで初体験とは、全くお前という男は私を飽きさせぬなぁ」
「朝チュン? まぁよくわかんないけど、お前が楽しいならいいさ」
「そうか? いやさ、そうであろう」
何故か得意げに数度頷いたクロガネは、猫のように背を曲げて伸びをすると、静かにその上体を起こした。
「さて、それで今日はどうするつもりだ? じゃんけんか?」
「……まずはサフランさんのところに行って、色々と話そう。ワームのこともそうだけど……俺は、お前のことをまだ何にも知らないからな」
「じゃんけんは後回しか……じゃが、確かにまだ私のことを教えておらなんだ。改めて話しておく必要があるだろう」
「そういうことだ、とりあえず退いて──」
「邪魔するぞアルフー。起きた……」
腰に跨ったクロガネを退かそうとした時、無遠慮に扉を開けて部屋に入ってきたサフランと偶然目が合ってしまった。
シャツ一枚の少女が男に跨っている。
状況はそれだけで充分すべてを物語っていた。
「……」
「……」
「ん? 誰かと思えば脆弱サフランではないか。おはよう、しかし見ての通りアルフは起きたばかりだ、後でそちらに赴くから、すまぬが先に行っててくれ」
思考停止して互いに視線を合わせるアルフレッドとサフランとは違い、状況をまるで読めていないクロガネは平然とそう語りかける。
「あ、うん……お邪魔だったな、いやホント、お邪魔、お邪魔」
何故か開けたときと違い静かに閉まる扉。何か変な方向に状況を察したサフランが消えて数秒ほどアルフレッドは固まり、盛大に溜め息をついた。
「どうしたアルフ?」
「どうもこうも……あー。こういうのは同年代の女の子が覗くのが普通だろ」
「ん?」
よく分かっていないクロガネの肩を掴んで持ち上げると、そのままベッドから下ろす。
あながちサフランが勘違いしただろうことも間違っていないといえば間違っていない。昨夜は胸の中で泣いたし、一緒のベッドで寝たし。
とりあえず後で説明すればいいだろう。昨夜の疲労とは違った疲れを感じつつ、アルフレッドもベッドから降りた。
「身体は……大丈夫か。あんな動きしたから筋肉痛くらいはなっていると思ったけど」
「そこは心配するな。我が魔神兵装のパイロットスーツは、操縦時にかかるGを軽減するために、それ自体が一種の強化外骨格とでも言うべき武装だからな。ちょっと跳ねたりぶつかったりした程度では奏者の身体に影響は与えんよ」
「……聞きたいことは山ほどあるけど、それはあっちについてから聞くとするよ」
「そうか? うむ、そうか。それで?」
クロガネの問いかけに首を傾げる。「ほら、少しはすっきりしたか?」と改めて聞かれて、アルフレッドは小さく頷きを返した。
「まぁ昨日よりか気持ちは落ち着いたけど、だからって俺が起こした罪は消えないままだ」
「うむ……」
「でも、クロの言うとおりだ。朝起きて、少しだけ心がすっきりした状態で空を見上げて、朝日を見たらさ……思い出したんだよ、俺が憧れた鋼鉄の英雄の背中を」
窓際に近づき、地平線から上がって世界を照らす太陽を眺める。朝焼けに浮かぶ堅牢は、心の奥底に刻み込まれたまま。
「自分に嘘ついて、目を逸らして、それでも知らされた事実に涙して……でも、俺は俺の見た理想から逃げるわけにはいかないんだ」
どんなに傷ついて、死にそうになっても、心の在り方を変えてはならない。心の奥に立てた一本芯だけは裏切ってはならない真実だから。
「わからないことだらけだけど、やっぱ、俺のやりたいことは、力の使い道は一つだけだ」
英雄の背中。
絶望を防ぐその雄姿を目指すことが、こんな自分に未来を託して逝ったクロウ達への贖罪となると信じて。
「ふふッ、迷いはとりあえず振り払ったようだな。よろしい! ではまずは一歩を踏み出すとしようではないか!」
アルフレッドの出した答えに満足したクロガネは快活にそう言うと、返事を聞く前に扉を開けて部屋を飛び出した。
「あ、おい! 裸足だと危な──」
「ぎゃー! 石踏んだー!」
「言ってる側から……」
宿の外から聞こえるクロガネの悲鳴に頭を抱えつつ、だが口元に楽しそうな微笑を浮かべて、アルフレッドはベッドの横に置かれた靴を履いて外に出た。
まずは、小さな一歩。朝日に向かって踏み出すのだ。
流れのままに手にした確信。得てして未だ理解の及ばぬその神秘の名を、少女は高らかと宣言する。
それは原初の災厄のもたらす一つの真実。力の本質を是とするならば、そのおぞましき力を是とする心は何を見る。
第十七話【力の理由】
全てを知り、だから行く。
君の眼は振り返らない。吹き荒れる砂塵を舞う翼だから。