第十二話【鉄─クロガネ─】
「ッ!」
見開かれた大きな金色の瞳に射抜かれて、アルフレッドは思わず一歩後ろに下がった。よく見れば淡い虹色の輝きを放つ瞳からは、一切の感情が欠落しているようだった。
まるで機械のように冷たい眼差しが、アルフレッドの心胆を凍らせる。だが動くことも、視線を逸らすことすらも出来ずにどの程度見詰め合っていたか。
「……そうか、まさか、このときが来ようとはな」
無機質な呟きはアルフレッドにではなく、自身に問いかける言葉だった。
「君は……」
「ん? ……あぁ、すまぬなぁ。何せ初めての客人だ。もてなすのが礼というものだろうに。すっかり忘れてしまった。許せよ」
「そんなことよりも……君はどうしてこんなところに?」
「見たまんまだ。これでは動こうにも動けん」
「そうか……いや、納得するのも変だけど……いや、うん。ハハッ」
アルフレッドは乾いた笑みを浮かべると、今度こそ力なくその場に膝を折ってしまった。
「どうしたのだ?」
「いや……悪い。ちょっと、な」
あそこまで厳重な封印をかけられていたのは、『喪失された秘術』でもなんでもなく、ただのか弱い少女だったのだ。
望みは絶たれた。後は奇跡を信じて元来た道を辿り外に飛び出すしかないか。
「……何かわからぬが、そう悲観することもあるまい」
「お前に何が……! ってそうか……それもそうだよ」
八つ当たりをするくらいなら、せめてこの少女をこの拘束から解放するくらいは自分にも出来るはずだ。アルフレッドはそう己を奮い立たせ、再度立ち上がる。
それに、まだ脱出できないと決まったわけではないはずだ。
「君は、あそこの扉以外に何処か外に出る道を知ってる?」
「さて……私の記憶が正しいのならば、道はあそこ以外になかったはずだ」
「……そうか」
僅かな期待を込めて聞いてみたが、どうやら外れらしい。しかし、アルフレッドは諦めに沈みそうな自身の顔に、無理やり笑みを浮かべてみせた。
いつワームが来るか分からない以上、この少女の盾になれるのは自分だけだ。思い描いた英雄にはなれないけれど、せめて少女を不安がらせることだけはしなければ。
「そうだ。君、名前は何て言うんだ? 俺は、アルフレッド、アルフって呼んでくれ」
複雑に絡み合った鎖と格闘しながら、不安を紛らわすように思い浮かんだ適当な話題を振ってみた。
「私の、名前?」
だが少女は驚いたように声を詰まらせてから、鎖と睨みあうアルフレッドを興味の色が灯った瞳で見下ろした。
「なぁ、アルフとやら。お前、ここに来る間、なんともなかったのか?」
「なんともって……あぁ、あの膨大な魔力のことか? それなら問題ない」
「問題ないとは?」
「俺は欠陥品でさ。抗魔力体質っていう、魔力を一切扱えない身体なんだ、俺は。その副産物で、純粋魔力は身体に受け付けなくなってさ」
「何……?」
少女はアルフレッドが自嘲するように語った自身の体質について当惑を露にした。そして何かを思考するように押し黙る。
場に流れる冷たい沈黙。心を苛む不安が再び吹き出しそうになりそうな静寂に耐え切れず、アルフレッドは思わず声をあげていた。
「なぁ、そんなことより君の名前を──」
「フハハハハハハハハッ!」
突然、少女は天を仰いで傲岸不遜な笑い声を響かせた。呆けるアルフレッドを置いて、少女はひとしきり笑うと、笑みの残滓を口元に浮かべながら静かに語りだす。
「私も長年の停滞で呆けてしまったらしい。『群れなす心臓』の影響が色濃いこの場で、たかが人間が生身で立っていられるはずがなかろうに!」
「『群れなす心臓』?」
聞いたことのない言葉を繰り返すアルフレッドのほうに、少女は勢い良く顔を向けてみせた。その目には、まるで宝物を見つけた子どものような輝きが灯っていた。
「なぁアルフよ。お前、何故こんなところに一人で来た?」
「それは……逃げてきたんだよ」
僅かな逡巡の後、悔しそうに顔を歪めて答える。無力を突きつけてきた現実は、少年の背中に重く、そして固く圧し掛かっていた。
恥辱を語ることが屈辱以外の何であるというのか。だが、そんな安いプライドなど今更持っても必要ないアルフレッドは、ありのままをぶちまけていた。
「俺は皆を犠牲にして逃げたんだ。訳も分からず混乱して、足を引っ張って、そのせいで皆死んだのに……俺一人だけ逃げちまった」
「何故逃げた?」
「そんなの……力がなかったからだ……! 俺に、力さえあれば……! 皆を守る力があれば俺にだって!」
気づけば語気を荒げて、内側で荒れ狂っていた感情を少女に向けてたたきつけていた。八つ当たりにも似たその叫びに、しかし少女は気を悪くするどころか、いっそう笑みを深くして答える。
「そうか、力か」
「そうさ! 俺に、力が──」
「力が、欲しいのか?」
それは、魂を揺さぶるような声だった。
可憐であり、傲岸不遜であり、か細く、太く、力に溢れ、弱弱しい。
相反するあらゆる意味のこもった一言に、アルフレッドは噴出した荒々しい感情を引っ込め、返事はおろか、声を出すことすら出来なくなった。
「力を望むか?」
少女は再度語りかける。金色の瞳でアルフレッドを見据えながら、囚われた哀れなる姿で、ただ問いを投げかける。
状況がめちゃくちゃだった。
意味不明な展開に違いない。
だが、アルフレッドは混乱の渦中にいながら、何故か少女のその問いかけにだけは平然と答えることが出来た。
「欲しい。俺は、力が欲しい……!」
混乱しすぎて、考えるのを放棄したのか。
もしくは、少女の問いに、言葉に出来ない何かを感じ取ったからか。
いずれにせよ、アルフレッド自身が驚くくらいすんなりと、少女の問いへの答えは紡がれていた。
「……及ばず、死すことになるとしても?」
「どうせ、このまま待ってたら死ぬだけだ」
「意味なく、地獄に飲まれようとも?」
「ここがその……地獄だよ」
いつの間にか、部屋に伝わる振動は激しさを増していた。ワームの襲撃は、近い。地獄を具体した巨大な魔は、直ぐにでもここに到達し、アルフレッドをゴミのように食い散らかすだろう。
「なら、近くに寄るのだ。さすれば、お前に力を与えよう」
アルフレッドは、言われるがまま少女の下へと近づいていった。
鎖に囚われているか弱い少女の根拠も何もない言葉だというのに、何故かアルフレッドはその言葉に従うべきなのだという、根拠のない確信があった。
こちらを真っ直ぐに見つめてくる少女の瞳。浮世離れした美しさに近寄ると、少女を拘束していた鎖が蠢いて、その体が棺の下にまで移動した。
アルフレッドに比べて頭一つ分低いその体。線は細く、まるで力強さなど感じないというのに。
彼女を前にして感じる、この言い知れぬ高揚感の正体は何か。
「君は、何なんだ?」
無意識に伸ばした掌が少女の額に触れる直前、アルフレッドは無意識に問いかけていた。
「知りたいか?」
その問いを待っていたとばかりに、感情のなかった少女の瞳に喜悦が滲んだ。
そして少女はただ嬉しそうに不気味な笑みを浮かべて静かに答える。
「我こそ最強の力。五番目の超越者」
それは、あらゆる怨嗟をその身と化した、憎悪されるべき黒金にして畏敬されるべき白銀の名。
「世界を崩す、鋼鉄の軍勢よ」
瞬間、黒と白の光がアルフレッドの視界を埋め尽くす。決して相容れることのない純粋と混沌の入り乱れる魔力の濁流は、踏ん張らなければ吹き飛びそうになるほどであった。
「なッ……に……!?」
あまりの眩しさに目をくらませながら、アルフレッドは少女を拘束していた鎖が次々に吹き飛んでいくのを目にした。
そして拘束を抜け出した少女の身体がアルフレッドに飛び込んでくる。吹き荒れる魔力の嵐の中、半ば恐慌状態に陥りながら、それでもその身体を受け止めると、冷たい感触が頬に触れた。
それは、少女が伸ばした小さな掌。何を、という疑問も浮かばぬうちに、アルフレッドはそのまま吸い寄せられるように少女の顔へと近づいて──
「ん……」
「ッ!?」
唇に感じる柔らかな感触。視界には瞼を閉じた少女の顔。微かに鼻を擽る花の香りを感じて、アルフレッドは己が少女とキスをしていることにそこで気づいた。
──初めてだぞ!?
そんなことを考えるアルフレッドと少女の身体を閃光が埋め尽くす。目を開けることすら至難な輝きの渦の中、触れ合わせた唇を通して、電流を流されたような鋭い痛みが頭に走る。
激痛に悶える暇もない。
唯一理解したのは、『繋がった』のだということのみ。
そして部屋の中を一瞬で埋め尽くした光は、同じく一瞬で二人の元に収束した。
「……何、が」
脳髄を走った痛みと、閃光で奪われた平衡感覚のせいで覚えた不快感。吐き気を催しながら、それでも何とか立っていたアルフレッドの背後の天井が、大量の土砂を撒き散らして崩落した。
「■■■ッッ!」
「食い破ってきたか!?」
崩落した天井からワームが一匹姿を現した。響き渡る奇声が、少女との会合で麻痺していたアルフレッドの恐怖心を呼び覚ます。
だが、恐怖に屈しそうな心を、唇に感じた少女の暖かさが支えた。このか細い少女を助けるという意志が、折れかけの心を繋ぐのだ。
「クソ……おい! 君はさっさと──」
逃げろ。そう言おうとして、アルフレッド何処にも少女の姿が見当たらないことに気づいた。
「あの子は……」
何処に消えたというのか。
いや、そもそも少女など居たのか。現実離れした少女が封印されていたという事実からしておかしかったのだ。もしかして、これまでの全ては自分が都合よく生み出した妄想──
「■■■ッッ!」
その空想を切り裂く現実の脅威。硬質な鳴き声が部屋全体を震わすと同時、放たれた無数の触手がアルフレッドに襲い掛かった。
「ッ!?」
以前と同じく、死線を前に世界の全てがスローモーションになる。だが自身の動きも遅くなっている以上、放たれた死の切っ先は、抵抗虚しくアルフレッドの身体を貫くだろう。
諦めにも似た達観が一瞬で身体を支配しかけ、しかし胸の底に沈殿したアルフレッドの意地が雄叫びをあげる。
死ねるか。
こんなところで、死ねるか。
「俺は……!」
まだ、死にたくない。
そう叫び、もてる全力で左に飛んだアルフレッドは──停滞する世界を高速で飛んでいた。
「え?」
浮かぶ疑問と、身体が壁に激突するのはほぼ同時だった。鉄製の壁を大きく歪ませて停止した身体は、決してワームに飛ばされたわけではない。
しかも、弾丸の如く壁にぶつかった身体は、まるで痛んでいなかった。
「何がどうなって……!?」
身体に絡みつくパイプをどかそうとしたアルフレッドの目に飛び込んできたのは、まるで蛇腹のように指先から関節部分に至るまで、剣のように鋭く尖った漆黒の腕だった。
「これ……俺の、手?」
目の前に広げた両手を見つめ、アルフレッドは困惑する。触れれば全てを断ち切るほどの鋭利な指先を眺め、そしてようやく自身の変化に気づく。
「な、なんだよこれ!?」
立ち上がったアルフレッドは、自分の身体に装着された黒曜石の輝きを放つ鎧を見て叫んだ。
全身が黒かった。牙のように鋭い漆黒の鎧を装着して、剥き身の部分も黒いタイツのようなもので覆われている。その中で一際異彩を放つのが、やはり邪悪を体現したようなグローブだ。生き血を啜るために設計されたといわれても信じられるそのグローブを装着した手首には、生き血で染められたように真っ赤なぼろぼろの布が巻かれている。
切迫した状況にも関わらず、アルフレッドは恐る恐るその手で顔に触れた。
固い。顔全体を覆うのはやはり漆黒のフルフェイス。全身が漆黒。鋼鉄に覆われたその姿は、さながら人間大のアインヘリアのようですらあった。
「無事、着装は済んだようだな」
「うわ!?」
耳元に、いや、脳内に直接少女の声が響き渡る。
──何処に居るんだ!?
その思考を読み取ったかのように、少女は返事をした。
「ここだよアルフ、我がマスター。今、お前の身を纏うその鋼こそ、我が身体よ」
「この鎧が……って、何で俺の考えてることが!?」
「話は後だ! 来るぞ!」
少女の声に反応して、アルフレッドは再度こちらに身体を向けたワームと相対した。放たれる触手の群れ。だが普通なら反応すらできない速度の触手の動きが、今のアルフレッドには手に取るように把握出来た。
「これならば!」
疑問は後回しだ。
勇ましく叫びながら、触手の間を縫うようにして走り出す。まるで自分のではないように力強く動く肉体。一歩ごとに空を飛ぶような心地になりながら、強く拳を握りこむ。
「何で俺なんかにこんな力が備わったのか、まるで意味がわからないけど……!」
──この『力』なら!
「お前なんてぇぇぇぇ!」
ワームの手前で飛び上がり、その複眼の前に踊り出る。無数の眼に反射する己の姿、靡く赤い布を従えて、鋼鉄の拳を無心で叩きつけた。
「■■■ッッ!?」
複眼の一個が大きく抉られる。甲殻に比べて比較的柔らかいとはいえ、素手で貫けるような柔らかさではないというのに。ならばそれを貫いた自分はなんだというのか。
「知るか!」
アルフレッドは拳を引き抜くと、漲る力の赴くままに抉られたワームの傷口を蹴り抜いた。
「今はどうだっていい! 重要なのはこいつが力ってことだろ!? これが、こいつが力なんだな!? お前が俺にくれた力でいいんだよな!?」
絶叫して暴れ狂うワームから蹴りの反動で距離をとって、アルフレッドは開いた掌を握りこむ。力強く返ってくる確かな鋼鉄の手触りを握り締めれば、少女は「応」と高らかに答えた。
「そうだ! 私がお前に与える力! 世界一つなぞ容易く飲み干すこの鋼! そして我が名こそ!」
心臓の装甲が熱く燃える。そこに刻まれているのはたった一つの名前。アルフレッドには意味がわからなかったが、それは何処か別の世界で雄雄しく刻まれた鋼鉄の別名に他ならない。
力強く描かれた『鉄』の一文字。
その名こそ──
「原初にして最強のアインヘリア! 魔神兵装クロガネよ!」
それは目覚めてはならなかった最古の魔神。
それは荒野を駆け抜ける暗黒の無垢。
それは群れなす鼓動を携えた鋼鉄の破壊願望。
魔神兵装『鉄』。
それは、世界を落とす禁忌の力。
「ここに契約はなされた! さぁ、望みし力の赴くままに疾走りだせ、我がマスターよ!」
「疾走る? そんなこと──」
アルフレッドは高らかに吼える少女、クロガネとは裏腹に、そんな己を嘲笑うように自嘲を一つ。
「疾走ろうにも、こんな不確かな全ての中じゃ、疾走るどころか立つことだって難しいさ!」
雄雄しく快活と叫ぶクロガネとは裏腹に、アルフレッドの心は、移ろい行くあらゆる事象に流され、今にも押しつぶされそうだ。
それでもこの手の確信が、あらゆる事象でたった一つ掴んだ現実ならば。
「そんな俺にだって! 一つだけ誓えることがある!」
絶望は色濃くこの胸を切り裂いている。
疑問は数多胸にあり、今こうしている現実すら、雲を掴むように実感がないけれど。
握り締めたこの手だけは、真実の鋼鉄に他ならない。
「無力なんて、もういらない!」
そして、その手に掴んだ確かな力が、人々を守る鋼鉄ならば。
真紅に映える腕の飾りを靡かせて、掲げたこの手が力を吼える。
「この力で! 俺は俺の『英雄』を成してみせる!」
手にした力がもたらすのは、破滅か、あるいは救済か。
「だから力を寄越せ……! クロガネェェェェェ!」
咆哮とともにあらぶる、炎のように燃え上がる漆黒の魔力。絶大なる力の濁流が疾走し、アルフレッドは確かな『力』を武装する。
その日、英雄になることを夢見ていた少年は、激動と降りかかる現実という荒波を超えるため、封じられていた禁断の最強を手に掴んだ。
歴戦と連なった者は行く。仕組まれた劇場を辿り、綴り、尚抗うのは覚悟の意志か。
最早唯一と心を決めて、背中で盾と、男は語る。
第十三話【死闘】
覚悟を腕に、鋼を剣に。回るルーレットに託すのは、いつだって硝煙が染みたコインのみ。
投じたカードは変えられない。もしそんな者が居るならば、そいつを悪魔と人は呼ぶ。