カンネの戦い 前編 その1
夜が明けてきた。雨は上がったものの、カンネの平原には一面に霧が発生していた。何も見えない。馬のいななきがする以外には静寂が支配する戦場であった。両軍とも少しでも霧が晴れるのを固唾をのんで待っていた。
「ふん。これでは陣の移動など無理だ。下手な言い訳をせずに済む」
ジークフリートはジゼル山の麓の要害の地にこもって当初の予定通り、防戦に徹し、タイミングを見てカオス軍の横腹を突くつもりでいた。そのタイミングはファナの軍が崩れ、敵がとどめをさそうと前のめりになった時だ。
「リィ・アスモデウス様とエトランジェ・キリン・マニシッサ様より使者が参りました。天界軍は速やかに移動して欲しいとのこと」
(騒いでも通さないよ。特に僕のランジェ、君には傷ひとつ付けたくない。この僕を差し置いてカオスの輩に傷をつけられてたまるか)
「霧が晴れたら動くと伝えよ」
「はっ…」
実際にこの状態で5万もの軍を動かせば混乱は目に見えている。それにカオス軍がどう布陣しているかがまったく分からなかった。下手には動けない。
リィもランジェも山の中腹で立ち往生していた。ランジェは一時、ジークフリートの陣近くまで軍勢を進ませたが、がんと道を譲らないためにやむなく元の位置に戻るはめになっていた。2人ができることは山の中腹から霧が晴れて戦場が一望できることを望むことだけであった。
「魔王様、朝食の用意ができました」
俺はというと例のハーレム小隊の女子たちの給仕を受けて、オムレツと焼き立てパンにフレッシュミルクの食事をしていた。もし本当の軍隊だったらいかに魔王とはいえ、こんな優雅でファンシーな食事はできないだろうが、30人の女子に囲まれた部隊なので、ここが戦場だということを忘れてしまう。それでも俺は急いで食事を済ます。今頃、前線にいるファナは食事どころではないだろう。昨晩のファナの温もりを思い出して俺はちょっと笑ってしまった。
「ウヒヒヒ…」
「魔王様、気持ち悪い笑い方やめてくださいませ。年下の者がおびえております」
そうロレックス嬢が忠告をする。ピアジェちゃんとラクロアちゃんがひそひそとこちらを見て話している。昨日、陣を抜け出してファナの陣に言ったことはバレているらしい。
(ちっ…いいじゃないか。別に。ファナは俺の女なんだし…)
「魔王様、霧が晴れてきたようです!」
オメガ嬢がデザートのフルーツを持ってきてそう告げた。俺はすぐ立ち上がり、平原を見下ろせる大きな岩に上る。すでに小隊で一番の剣の使い手のティソちゃんが戦場の様子を確認していた。
(広い…)そしてその広い戦場にありのように黒々と両軍が布陣している。北西に元馬の軍が整然と布陣している。そして、南西にはファナの軍がぽつんと孤立している。敵は大半を元馬の方に向けているものの、やはりファナの前には相当な数の軍勢があった。敵の一部はこちらの山の麓ににらみを利かせている。
「激熱の魔王様の方に主力を向けていますね。およそ40万。かなりの大軍です。ファナ様の前には10万というところでしょうか。ジークフリート様のところには5万程度しかありませんから、おそらく様子見なのでしょう。こちらの意図を図りかねているようです」
ティソちゃんが戦況を解説してくれる。彼女はハーレム小隊でも数少ない戦闘経験者で、この隊に来るまでは、いくつかの軍団に所属したことがあると言っていた。
俺が見ても確かに南西の魔界軍の布陣を見て、罠だと思うのは分かる。あまりにもおかしな陣形だからだ。
(ファナ、何とか無事でいてくれ!)
俺はそう思わないわけにはいかなかった。
カオス大将軍フレスベルクは、魔界軍の奇妙な陣形を見て判断に迷った。数に劣る魔界軍は山のふちに沿って半月陣を取ることは分かっていた。要害の地に陣を張り、誘い込んでこちらを半包囲するつもりだろう。安易に突っ込んでは敵の思惑通りになる。だが、最右翼の包囲陣は完成していなく、わずか一隊がいるのみである。
(罠だ。そうでなければ、あのように孤立する状況を作るはずがない。それにあれは第4側室の軍だ。魔王の寵愛が高い者が捨て駒にされるはずがないだろう。)
そうフレスベルクは断言し、こちら方面の軍は最小限にして主力を激熱の魔王の軍に振り向けたのである。10人の上将軍のうち、7人までもこちらに集中させていた。ファナとジゼル山麓の天界軍にはとりあえず15万ほど対陣させておくが、様子を見ろと厳命していた。罠を恐れて様子見をしようとしたのだ。