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本来ならありえない形の角は蒸発するかの様に消えて、残った鹿はただの雌鹿だった。後ろ足の根元に開いた矢傷が霞む程の損傷を受けていた。
「さ、終わったぞ。オルカーニャ」
一帯に広がっていた山吹色の魔力が体内へ収束する様をルカは見せ付けられていた。淡く発光するそれが糸を巻き取る様に集まり、契約印のある胸へと吸い込まれて行く。
魔力の糸は従順に本体へ帰りながらも、外界がいいとアーデルハイドに絡んでささやかな反抗を見せる。その光景は美しく異様だ。魔力に別の意志が溶け込んだかの様な不気味さと、無表情より濃く暗く輝く眼のおぞましさ。
ルカは無意識の内に息を潜めていた。
「なんだよ、そんなぼんやりして」
「なんでもない。………後片付けはしないのか」
「ああ、熊いるから大丈夫。埋めろって言うなら埋めるよ」
「いや、いい」
項をサソリが這い回る様な不快感に教われて、アーデルハイドから視線を逸らす言い訳を求めて、ルカは左手を首の後ろへやる。指先が契約印の、存在しない凹凸に触れた気がした。火蜥蜴の背中にハートマークが刻まれていると、魔術師の第六感が告げる。
「この後は?」
「あ?」
「用事。寄る所ないなら首都に直行するんだよな」
「まて。あの鹿はなんなんだ」
「多分仇討ち」
項から手を離し、あっさり答えるアーデルハイドを睨んだ。何故鹿なんかが仇討ちに襲ってくるのか、忌々しげな緑玉が問い詰める。
二、三度不思議そうに瞬きをして、今回は意図が通じたらしく口を開いた。
「客人に干し肉を食べさせたくなくて、親鹿は一人で運べないから子鹿を狩った。だから仇討ちに来た。多分な。ここはオオマガの森だし」
「………」
「オルカーニャは鹿肉苦手か?」
「特に気にしない」
嫌いとか言えないだろ。口腔で出掛かった言葉を転がせて飲み込む。契約して多少情が湧いたのか、いくつかの意味を込めた返事をするだけで嫌味も言えなかった。
「顔を洗ってこい。………首都に戻るぞ」
「ん、分かった」
一番近い水場は小屋の井戸なのだろう。アーデルハイドは自分達が先程逃げてきた道をそのまま駆けて行く。
ルカも歩き出そうとし、ふと振り返る。長い時を紡いだ老樹は思うより若々しい葉を茂らせて風に揺れる。植物が精霊と契約する事はかなり希少な事である、それだけ厄介な非物質的な外敵がいたのだろう。
あまり長居してはいけないと判断し、ルカも早足でその場を立ち去った。