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説得            :約2000文字

作者: 雉白書屋

 とある夜、ビルの屋上。綺麗に揃えられた靴の先、腰の高さほどの柵の向こう側に一人の男が立っていた。足先は縁ぎりぎりにかかり、わずかに重心が前へと傾いている。下を見下ろしながら、浅く速い呼吸を繰り返していた。落ち着こうとしているのか、時折大きく息を吐き出すものの、手足の震えが止まる気配はない。

 湿気を帯びた生ぬるい夜風が斜めに吹き抜け、シャツの裾をわずかに揺らした。男はしばし目を閉じ、次いで暗い空を仰いだ。


「よし」


 そう小さく呟いた――そのときだった。


「や、やめなさい!」


 屋上の扉が勢いよく開き、そこから警官が現れた。壁に手をつき、肩で息をしている。巡回中、通行人から『飛び降りようとしている人がいる』と知らされ、慌てて階段を駆け上がってきたのだ。


「そんなことをしてはいけない……!」


 警官はゆっくりと歩み寄っていく。男は横目で警官を見やった。唇を固く結び、瞳の奥に深い影が沈んでいた。


「生きていれば、必ずいいことがあるから……!」


「いやあ、どうでしょうかねえ……」


「あなたの気持ちもわかる……」


「いやあ、ほんとですかねえ」


「……確かに今は、すごくつらいかもしれない。でも、明日は違うかもしれない」


「いやあ、それ、何の保証もありませんよね」


「とにかく、一度こっちへ来てください。何もしませんから」


「とか言って、捕まえるつもりなんじゃないですか?」


「……いや、ちょっと」


 警官はぴたりと足を止め、後ろを振り返った。


「はい?」


「さっきから、あなた何なんですか?」


「いや、何って……第一発見者として、どうなるのか気になるじゃないですか」


「いや、そうじゃなくて、後ろから『いやあ』ばかり言われて、こっちはやりづらいんですよ!」


 警官は声を荒げた。第一発見者――中年の男はきょとんとした顔で首を傾げた。


「いや、私は私で、彼の気持ちに寄り添おうとしているんじゃないですか」


「それは大事ですけど、今は下がっていてください。そもそも、なんで屋上までついてきたんだ……」


「あのー、私とこのお巡りさん、どっちの言葉がよかったですか?」


「何聞いてるんですか」


「えっと……あなたのほうです」


「はあ!?」


「ほらね。あ、私が通りを歩いていたら、屋上にいるあなたが見えたんです。それで、ちょうど近くにいたこのお巡りさんに知らせたんですよ」

「ああ、そうだったんですか。それはどうも」


「いや、何を普通に二人で会話しているんですか」


「ははは、お巡りさんの言葉、薄っぺらかったですよね」


「はあ?」


「ええ。正直、びっくりしましたよ」


「はあ!? ……いやいや、ちょっと待ってください。なんですか、その言い方は……。こっちは本気で心配して、寄り添わなきゃ、寄り添わなきゃって必死で――」


「でも、心に響かなかったですよね?」

「ええ、まったく」


「いや、これからもっといいことを言うつもりだったんですよ……」


「たとえば?」


「だから……あなたのことを気にかけている人が必ずどこかにいる、とか」


「ふっ」

「ふふっ」


「とりあえず、こっちへ来て一緒に話しましょう」


「あー」

「はあ」


「ゆっくり考えてみましょうよ」


「ははは」

「はははは」


「なんなんですか!」


「いやあ、薄い薄い。ねえ?」

「ええ、安定した職に就いてる人には、こっちの気持ちなんてわかりませんよ」


「そうそう。どうせ友人や恋人がいるんでしょう?」

「学生時代も充実していたんでしょ?」


「帰る家があるんでしょう」

「ちゃんと風呂に入って、綺麗な布団で寝るんでしょ?」


「顔はまあ、普通か、それ以下ですけど」

「まだ若いですからね」


「私なんて無職ですよ」

「僕も。ははは!」


「何を二人で盛り上がっているんですか……あのね、警官だって楽じゃないんですよ。家といっても寮ですし、夜中に呼び出されることもありますし、休みだって少ないし」


「でね――」

「ああー」


「聞きなさいよ」


「そもそも、あなたを見つけたのだって、『あー、このビルから飛び降りようかなあ』って思ったからなんですよ」

「あー、そうだったんですかあ! はははは!」


「えっ」


「よかったら、私も一緒に……いいでしょうか」

「ええ、もちろんですよ」


「は? いやいや、何を言っているんですか……冗談でしょう? ははは、それはさすがに寄り添いすぎ……え、え、ちょっと……」


 第一発見者の男はひょいと柵を乗り越え、男の隣に並び立った。そして次の瞬間、二人の姿は消えた。直後、下から凄まじい破裂音が響き渡った。

 警官は膝から力が抜けていくのを感じながら、ゆっくりと柵へ近づいた。おそるおそる下を覗き込む。そこには手足を不自然な角度に折り曲げた死体――ただ一人分――が横たわっていた。


 湿った風が吹き上げ、かすかに体臭のような、どこか嫌な臭いがした。

 梅雨時特有の重く陰鬱な気配がじっとりと胸の奥に溜まっていく。

 警官は無意識のうちに、ホルスター越しに拳銃を撫でていた。

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