第2話 婚約者ユリア
「あら、素敵な話ではありませんか。最初に聞いた時、私はとても感動しましたのに」
「ちょっと待ってくれ」
寝室の角のほうから突如透き通るような声が響き渡った、彫刻のように美しい佇まいで立っていたのはユリア・カルラ、クロノの婚約者である。腰まで伸びた赤い髪が黒いドレスを際立たせている。
「なぜ当たり前のように僕の寝室にいるんだ」
「婚約者としてクロノ様の寝姿を見ていただけですが、何か問題でも?」
「大有りだ。嫁入り前の令嬢が男の寝室に来るなんて――」
「婚約関係にあるのですから、問題ありませんわ」
ユリアはお淑やかながらもはっきりと主張している胸を張って、自分の行動は何も間違っていないと堂々言ってのける。
「……ハンス、もしかして僕がおかしいのか?」
「クロノ様、お気を確かに持ってください。貴方が正しいですよ」
ユリアの揺るぎない姿勢に、クロノが自信を失いかけてしまっていた。ついでに、クロノが起きる前から寝室にいたという事は、つまり着替える所もバッチリ見ていたのである。しかし、クロノは動揺していてそこには気づかなかった。
クロノが困惑している最中、ユリアがずいと彼との距離を詰めた。
「クロノ様、午後のお食事をとても楽しみにしておりますので」
「ああ、君がここ数日何度も念を押してくるからよく知っているよ」
「ありがとうございます。ではクロノ様、また後程お会いいたしましょう。……うふふ、今日も良い寝顔が見られましたわ」
「待て、今『今日も』って言ったか?」
満面の笑みを浮かべたユリアは、クロノの問いかけを聞く前にさっさと寝室から出ていってしまった。彼女の行動力にクロノは唖然とするしかない様子だった。
「ユリアは一体何をしに来たんだ?」
「恐らく、本当にご挨拶をしたかっただけかと。最後の言葉は、聞かなかったことに致しましょう」
「そ、そうか」
二人は苦笑いを浮かべる。何しろ彼女の態度は、最初に会った時とはまるで別人のようになっていたからだ。
「政略結婚のつもりだから、と最初はかなり冷たかったような気が……」
「ユリア様も初めはそのつもりだったようです。しかし、クロノ様とお会いしてからは気が変わったとの事で……一体何があったのでしょうかね」
「僕には全く心当たりが無いな……。まあ気に入られているというのは良いことか」
クロノとユリアの結婚は、元々王家と公爵家の政略的な婚約だった。初めて会った二人は月に一度、会っても当たり障りの無い世間話程度しかしていなかった。しかしいつからか、ユリアは打って変わって猛アピールをし始めたのである。
両家とも二人の仲が良くなるのは良いことだと思っているのだが、どうもユリアの熱量は想像以上に膨らんでいるらしい。ハンスは小耳に挟んだのですが、と口を開く。
「とある噂がありまして」
「噂?」
「幼少の頃から日記を書かれているのですが……。クロノ様と出会って以降は、内容の九割以上がクロノ様の事ばかりが書かれるようになったそうです。貴方の容姿や生活から小さな癖までもが余すことなく――」
「待てもういい。聞かなかった事にさせてくれ。ユリアのこういう話は一体いくつ出てくるんだ……」
グランツ王家は一時期、ユリアの行動が公爵家の媚売り目的なのでは無いかと疑ったことがあった。しかし、ユリアのある種執着とも取れそうな行動の数々を見た結果、『いや、親の指示があってもああはならんだろ。目が本気だし』という意見で一致したため疑いは晴れた。
「一体何が彼女の琴線に触れたのかはわからないが、良い関係になれるなら問題は無いか」
「クロノ様が王位を継いだ暁には、ユリア様はきっと良き伴侶となるでしょうな」
「……まだ気が早いぞハンス」
クロノはそんなユリアの性格を許容している。彼女の令嬢としての立ち振る舞いは模範のようであり、王家に嫁ぐ素質は十二分に備わっているのである。表には出さないが彼女なりの努力を積み重ねているのである。
日々の鍛錬を欠かさないクロノは、そんな彼女にどこか似ていると感じており、こちらも好感を持っているのだ。つまり二人の婚約は、結果的には双方同意しているのである。
「しかし、本当に僕のどこを気に入ったのだろうな。僕はあまり面白味が無い人間だと思うのだが」
「ちょっと何言ってるかわかりませんな」
「え?」
「え?」