9.崩壊する境界線
真夜中の街。月明かりすら届かない闇の中、美咲は必死に走っていた。
「はぁ……はぁ……」
荒い息遣いが夜の静寂を破る。振り返ると、背後に這うように迫る黒い影。それは、美咲が異界で見た負の感情の具現化したものだった。
(どうして……現実世界に現れたの……!)
頭の中で叫びながら、美咲は路地を曲がる。すると、目の前に大きな歪みが現れた。まるで空間そのものが引き裂かれたかのような亀裂だ。
「美咲! こっちよ!」
亀裂の向こうから、シルフィアの声が聞こえる。美咲は一瞬躊躇したが、背後の気配に背中を押され、亀裂に飛び込んだ。
*
目を開けると、そこは異界の森だった。しかし、以前見た美しい光景とは違い、木々は枯れ、空は不気味な赤い色に染まっている。
美咲のそばにアルフとシルフィアが佇んでいた。
「大変なことになったわ」
シルフィアが厳しい表情で言う。
「どういうこと? あの影は、どうして現実世界に?」
美咲の問いに、アルフが答えた。
「君の力が強くなりすぎたんだ。両世界の境界線が、どんどん薄くなっている」
その言葉に、美咲は息を呑んだ。自分の力が、こんな事態を引き起こしているなんて。
「で、でも、私そんなつもりじゃ……」
「意図は関係ないの」
シルフィアが厳しい口調で遮った。
「あなたの存在自体が、両世界のバランスを崩しているのよ」
その瞬間、地面が大きく揺れた。空に浮かぶ赤い月が、徐々に黒い影に覆われていく。
「まずい、影が月を覆い尽くす前に何とかしないと!」
アルフが叫ぶ。
「私に、何ができるの?」
美咲が尋ねると、シルフィアが悲しげな表情で答えた。
「二つの選択肢があるわ。一つは、あなたの力を完全に封印すること。そうすれば、両世界の境界線は元に戻る」
「もう一つは?」
「あなたが完全に異界の者となること。そうすれば、現実世界との繋がりが切れ、バランスが保たれる」
美咲は言葉を失った。どちらを選んでも、もう元の生活には戻れない。
その時、遠くから悲鳴が聞こえた。振り向くと、異界の住人たちが黒い影に追われている。その中に、見覚えのある顔があった。
「由香!? どうしてこっちに!?」
親友の姿に、美咲は驚愕した。
「現実世界の人間が、異界に引き込まれ始めているのよ」
シルフィアの言葉に、美咲の体が震えた。
「私がいるから、私のせいでこんなことに……」
自責の念に駆られる美咲。しかし、そんな場合ではない。由香を、そして両世界を救わなければ。
美咲は深く息を吸い、目を閉じた。体の奥底から、大きな力が湧き上がってくる。それは、以前感じたものとは比べものにならないほど強く、そして恐ろしいものだった。
「美咲、その力を解放したら、もう戻れなくなる!」
アルフが叫ぶ。しかし、美咲の決意は固かった。
「わかってる。でも、これしかない!」
美咲が目を開けると、その瞳は金色に輝いていた。彼女の周りに、まばゆい光が渦を巻く。
「時空を紡ぐ天の糸よ、闇を貫く光の矢となれ。二界の狭間に立つ我が血を燃やし、混沌を払い秩序を取り戻さん。境界を司る者の名は美咲。この名において影よ散れ。光よ満ちよ」
美咲の叫びとともに、光が広がっていく。黒い影は、その光に触れるとシューッという音を立てて蒸発していった。
空を覆っていた影が晴れ、月の光が再び森を照らす。しかし、それは束の間の安堵でしかなかった。
美咲の体が、徐々に透明になっていく。
「美咲!」
由香が駆け寄ってきた。
「由香、ごめんね。あなたをこんな目に遭わせて」
「何言ってるの? 私、突然ここに来ちゃって、何がなんだか……でも、美咲のおかげで助かったんでしょ?」
由香は混乱しながらも、友人を気遣う。その姿に、美咲は涙を浮かべた。
「由香、あなたはもう戻らなきゃ。現実世界に」
「え? 美咲は?」
「私は……ここに残るの」
美咲の体は、ますます透明度を増していく。
「そんな! ダメよ! 一緒に帰ろう?」
由香が美咲の手を掴もうとするが、すり抜けてしまう。
「ごめんね、由香。でも、これが私の選択なの」
美咲は微笑んだ。その表情には、悲しみと覚悟が混ざっていた。
「アルフ、シルフィア。由香を、そして私の両親をお願い」
二人は静かに頷いた。
「美咲、本当にそれでいいのかい?」
アルフが最後に確認する。
「うん。これが、私にできる唯一のこと」
美咲の体が光に包まれる。その光は徐々に広がり、森全体を覆っていく。
「さようなら、由香。そして、ありがとう」
美咲の最後の言葉が、風に乗って消えていく。
光が収まると、そこにはもう美咲の姿はなかった。代わりに、森の中心に一本の大きな樹が立っていた。その幹には、かすかに美咲の顔のような模様が浮かんでいる。
「美咲は……この木に?」
由香が呆然と尋ねる。
「そう」
アルフが静かに答えた。
「彼女は、両世界の均衡を保つ存在となったんだ。この木が、二つの世界をつなぐ架け橋になる」
シルフィアが付け加えた。
「もう、彼女に会えないの?」
由香の問いに、二人は沈黙した。しかし、その時、木の枝がゆっくりと揺れ、一枚の葉が舞い落ちてきた。由香がそれを受け取ると、葉の上に文字が浮かび上がった。
『私は大丈夫。みんなのこと、ずっと見守っているから』
由香は涙を流しながら、その葉を胸に抱きしめた。
「美咲……」
森に静けさが戻ってきた。月の光が、美咲となった木を優しく照らしていた。