聖なる夜に
寒い朝です。
あったか布団にくるまった愛香は、お母さんの「遅刻しちゃうわよ」の一言でようやく布団から離れました。
「もう! なんでもっと早く起こしてくれないの!」
「何言ってるの、何度も起こしたわよ」
そんな掛け合いが毎朝のようにくり返えされます。愛香は朝食をかっこむと、ふて顔でどたどたと玄関に向かいました。
「寒くなってきたわね」
愛香が玄関のドアから出たところで、お母さんが見送りに顔を出しました。
「今日からもう十二月だもん」
愛香が上を向いてはあっと息をはくと、それは白く広がって、空に溶けていきます。
「行ってきます、お母さん」
「はい、いってらっしゃい」
手を振って、愛香は家をかけ出しました。
十二月。世間はクリスマスの話題で持ちきりです。
けれど愛香はそんなことにうつつをぬかしてなんかいられません。愛香は小学六年生で中学受験を控えていて、毎日毎日塾通いの日々です。今朝のお寝坊も、塾の宿題で夜更かししたこともあったかもしれません。
クリスマスに家族でテーマパークに一泊するクラスメートもいるようです。あまり気にせずにいましたが、やっぱり少しうらやましくもなります。
(プリンセスとまでいかなくても、私にも素敵な出会いがあればいいんだけど)
学校までの通学路を早足で進んで、商店街の入り口に差し掛かりました。クリスマスセールのポスターがそこらかしこに貼られクリスマスムード一色です。
商店街入り口には小さな裁縫屋があります。ショーウィンドウには人形や小物が、所せましと並べられています。
一匹のクマのぬいぐるみが愛香の目にとまりました。お店の裁縫師お手製の一品物、大きさは三十~四十センチほどのふわふわもくもくの可愛いクマちゃんです。開店前でまだ明かりは灯っていませんが、鮮やかなベージュカラーが朝日を受けて輝いています。
「お子様へのクリスマスプレゼントにいかがでしょうか。宅配も承ります」
と書かれた札も貼られています。
(あのクマちゃん、まだ売れてないんだ)
ここを通る度に愛香はこのクマちゃんのことが気になっていました。だって、ふわふわでとっても可愛らしかったんですもの。
(まあ、あの値段じゃねえ)
それもそのはず、クマちゃんのお値段は愛香のお小遣いの半年分でしたので。
愛香はふと、先週お母さんと商店街に買い物に来たときのことを思い出しました。
愛香たちが夕飯の食材を持って帰宅中、お店の近くを通りかかると、小さな女の子がご両親と一緒に中から出てきました。見た感じ五~六才くらいでしょうか。ご両親が家路につこうとしても、ショーウィンドウの前から動こうとしません。
どうやらクマちゃんに夢中のようです。
女の子はおねだりをしていますが、ご両親は頭を横にふって「だめだよ」と断っているようでした。女の子は少しベソをかきましたが、納得したのか、うつむき加減にご両親とともに帰っていきました。
「今のご家族、この間お向かいにお引っ越しされてきた高橋さんね」
「そうなの? 知らなかった」
「愛香は塾で帰りが遅いから、ご挨拶に来たときにいなかったからね」
「どんな人たち?」
「お医者さんのご家庭みたいね。娘さんは喘息があって学校も休みがちみたい」
「ふうん」
気の利いた言葉が思いつかず、愛香は愛想なく返しました。そしてあんなに小さいのに可愛そうだなと視線を落としました。
「愛香も、あんなクマちゃん、欲しいの?」
愛香の心をよんでか、お母さんがさりげなく話題を変えました。
「いやいや、ご冗談。私、もうそんな年齢じゃないよ」
本当は少し興味があったのですが。
「じゃあ、どういうお年頃?」
お母さんが口元を緩ませて聞き返します。
「腕時計。今のこれ、すぐ遅れちゃうの」
「実用的でいいわね。うんわかった、お父さんに頼んでおくわ。クリスマスプレゼントに」
「うわ、ホント? ありがとう!」
愛香は買い物袋を両手で抱きかかえ、嬉しくてその場で小躍りしました。まるで、からくり時計のバレリーナ人形のように。
「あそこにまだ、ああやってクマちゃんがいるってことは、可愛そうに、あの子はプレゼントにもらい損ねたのね」
そう言って愛香は肩をすくめ、
「おっと、そんなこと考えてる場合じゃなかった。学校遅刻しちゃうよ~!」
と我に返って、落ち葉で敷き詰められた通学路を駆け抜けて行きました。
「愛香~、こないだの塾のテストの結果、どうだった?」
クラスメートの槇奈です。
「こないだって、志望校判定テスト?」
「うん、そう。あたし最悪だったよ~」
「あ~、私もあんまり」
「ママったら、冬季講習と正月特訓、全部受けなさいってさ。あたしの自由を返せ~」
槇奈も愛香と同じ受験生。同じ悩みを抱えています。
「けど、自分のためだからねえ」
「正論とか言わないで~。あたしだってそんなこと、ちゃんとわかってるよ~」
あはは、と二人顔を見合わせました。
(けどまあ、確かにちょっとくらいは息抜きしたいよねえ)
そんな二人の思いが神様に通じているのか、今年のクリスマスイブは土曜日。冬休みもあって、その日は塾も学校もお休みです。さすがにパレードを見に行く余裕はありませんが、家族で聖夜を過ごすくらいはできます。
十二月ということもあって、その日の道徳の授業はクリスマスについてでした。
「海外では十二月に入るとすぐクリスマスツリーを飾ります。しっかり心の準備をして、クリスマスには教会でイエス・キリストの生誕をお祝いします」
そんな先生のお話をほとんどの生徒はポカンとして聞いていました。愛香もその一人です。だって日本ではクリスマスと言えばケーキを食べて、サンタさんからのプレゼントをもらうっていうのがお決まりでしたから! 教会にだって愛香は行ったことがありません。
そもそも心の準備って、何をしたらいいのでしょう。受験の心構えでしょうか。それとも来年春には訪れるクラスメートとのお別れでしょうか。
「喜びや悲しみを分かち合いましょう」
などと言われても、やっぱり愛香にはよくわかりません。
学校からの帰宅途中のことです。愛香はまたあの女の子に会いました。今日はお母さんと二人だけ。病院の帰り道でしょうか、お母さんは薬を取りに薬局へと入って行きました。残された女の子は、お母さんの目が離れた隙にクマちゃんに会いに裁縫屋へと向かいます。
まだクマちゃんは売れていません。
安心したのか、女の子はにんまりと微笑みました。はあっとショーウィンドウに息をはきかけて何かを書いているようでした。
「クマちゃん、好きなんだね」
あまりに仕草が可愛らしかったので、愛香はつい女の子に話しかけてしまいました。
「何を書いてたの?」
ガラスに書かれた文字を読もうと顔を寄せたとき、女の子の顔が真っ赤に火照りました。鼻にしわを寄せて少し怯えたような表情です。
「ごめんなさい!」
いたずらをして叱られたとでも思ったのでしょう、女の子は目を潤ませてお母さんのいる薬局へと走り去ってしまいました。
「あ、違うの、ちょっと待って!」
追いかけるのもためらい、愛香はその場で立ちすくんでいました。
ガラスに書かれた文字を愛香は見てみました。そこには幼い字で「おともだちに」とだけ書かれています。そこまで書いて愛香に話しかけられたのでしょう。
(知らない人から急に話しかけられたら、怖がるのも当然だったなあ)
愛香はため息をついて両腕をお腹に押し当てました。
その後、愛香はお向かいの家の窓から女の子が顔をのぞかせていることに気付くことがありました。いつもどこか寂しげです。
ですが、愛香が見ていることに気付くと、すぐ部屋の奥に戻ってしまいます。この間のことで怖がらせてしまったのかもしれない、とっても恥ずかしがりなんだろうなあ、と考えて、そっとしておくことにしました。
そして待ちに待ったクリスマスイブ。今日は土曜日、塾もお休みです。
「クリスマスの日くらい、先生達だってお休みしたいよね」
そんな独り言を言いながら、愛香は鼻歌を歌いながらツリーを飾り付けていました。赤や青の色鮮やかなオーナメント、綿でできた雪、電飾コードを飾り、最後にベツレヘムの星を乗せて完成です。
「きれいに出来たじゃない」
部屋の飾り付けを終えたお母さんが愛香のもとにやってきました。
「お買い物、付き合ってくれない、愛香?」
愛香とお母さんは商店街まで出ました。
クリスマスケーキ、鳥のモモ肉、シャンパン、それ以外にもたくさんで両手がいっぱい。今晩はお父さんも仕事を早く終えて帰ってきてくれます。
「今日も寒いね、お母さん」
空を見上げると、さきほどまでなかった厚めの雲が広がりはじめていました
「天気予報だと、今晩は雪になるみたいよ」
「ホワイトクリスマスってやつだね。素敵」
「そうね。けど今、降られちゃったら大変。はしゃいでばかりもいられないわ。ちょっと急ぎましょう、愛香」
そうは言われましても、雪なんて久々でしたから自然と心も弾んでしまいます。愛香は通りを流れるクリスマスソングに合わせて小さくステップを踏んでいました。
商店街の出口に差し掛かったときです。いつものように裁縫屋のショーウィンドウをのぞくと、あのクマのぬいぐるみがなくなっています。そしてその前ではあの女の子が頬を涙で濡らして立っているじゃありませんか。
「お向かいさんの、あの子じゃない?」
お母さんも気付きました。
「どうしたの?」
と、愛香がたずねると、女の子は振り絞るように答えました。
「クマちゃんが迷子なの! どこかにいっちゃったの!」
そう泣き叫んで、女の子は脇目も振らずかけ出していってしまいました。一人にしたら大変、と愛香は女の子を追いかけました。
商店街から家までは一本道でしたので、愛香は女の子にすぐに追いつくことができました。走り疲れたのか、道の傍らにうずくまっています。病気がちな子です、発作を起こしているのかもしれません。
「大丈夫?」
そう優しく話しかけると、女の子は泣きじゃくりながら愛香に抱きついてきました。女の子の飾らないまっすぐな感情を受けて、愛香の心にも熱いものがこみ上げてきました。
「よしよし、悲しかったね、辛かったね。泣いてもいいんだよ。お姉ちゃんも同じ気持ちだよ。あなたと一緒に泣いてもいいかな。悲しいの、半分私が持っていってあげる」
愛香は女の子の肩を優しく抱きしめました。愛香の頬にすうっと一筋の涙がつたいました。
家まで女の子を送って待っていると、一人の女性を連れてお母さんが帰ってきました。
「心配したわよ、梨沙ちゃん」
その女性は愛香にお礼を言うと、女の子の手を引いて家に入っていきました。
「家政婦さん、らしいんだけどね」
お母さんが話し始めました。
「今日はご両親ともに帰りが遅いからって、家政婦さんを頼んだらしいの」
「ふうん」
「お散歩したいってあの子が言い出して、商店街まで行ったら……そういうわけ」
「クマちゃん、どうなったの?」
「買い手がついたみたいで、今さっき宅配に出したんだって」
「そっかあ」
愛香は小さくため息をつきました。
家に帰って、愛香とお母さんはクリスマスパーティーの準備を再開しました。愛香の役割はクリームシチューに使う野菜の下ごしらえ。クリスマスソングをBGMに、包丁でとんとんリズムをとって楽しいひとときです。
ピンポーン。
玄関のドアの呼び鈴が鳴りました。
「お父さんかな?」
「お客さんじゃない? お父さんなら呼び鈴、鳴らす必要ないもの。愛香、悪いけど出てくれない?」
うん、と答えて愛香は玄関へ向かいました
「こんばんは、イヅモ宅配です! お届け物、一点ございます!」
それは宅配屋でした。宅配屋のお兄さんは荷物を両腕に抱えて、玄関まで運んでくれました。愛香が荷物を受け取ってお礼を言うと、お兄さんはにこやかに帰って行きました。
「おっきな荷物だな。なんだろ」
愛香が段ボール箱を開封すると、中には大きくふくれた赤いラッピング袋が入っていました。けっこうな大きさです。
「ひょっとして私へのプレゼントかな」
喜び勇んで愛香がラッピング袋を開けました。すると中から、あの商店街のクマのぬいぐるみがぴょこんと顔を出しました。
「私、クリスマスプレゼントには腕時計をお願いしたのに?」
「どうしたの、愛香?」
愛香の様子が気になったのか、お母さんが部屋の奥から出てきました。そして驚いたようにクマちゃんに目を向けました。
「お母さん、なんであのクマちゃんなの?」
「お母さんだってわからないわよ。お父さんにはちゃんと腕時計をお願いしたもの」
そのときお母さんは何かに気付いたようで、段ボールに貼られた受領票に目をむけました。
「愛香、よく宛先を確認してみなさいよ。これ、お向かいさんあてのプレゼントじゃない」
よく見るとラッピング袋にも「いつもいい子のリサちゃんへ、サンタさんより」と書かれたメッセージカードがついていました。
「私、届けてくる!」
愛香はクマちゃんをもう一度ていねいに包装すると、上着を着てお向かいの家へと向かいました。
深呼吸をして気持ちを落ち着けて、愛香はピンポーンとドアのチャイムを鳴らしました。
しばらくするとインターホンから「どちらさまですか」と先ほどの家政婦さんの声がしてきましたので、
「先ほどのお向かいの斉藤です。お届け物です。梨沙ちゃんに『迷子のクマちゃんがきたよ』とお伝え下さい」
と話しました。
「それは良かったわ!」という家政婦さんの声に続けて、どたどたと騒がしい二つの足音がドアの向こうから響いてきました。そしてドアが開くや否や、
「クマちゃん、迷子だったの!」
と、満面の笑みの梨沙ちゃんが飛び出してきました。
「メリークリスマス、梨沙ちゃん。サンタさんが間違えて私のうちに持ってきちゃったみたい。はいどうぞ!」
愛香が赤いラッピング袋を差し出すと、梨沙ちゃんは頬を火照らせながら開けました。
「うわあ、クマちゃん、来てくれたんだね。お友達になってってお約束、したもんね!」
梨沙ちゃんはクマちゃんを興奮気味にぎゅっと抱きしめました。
「お姉ちゃん、ありがとう。お姉ちゃんがサンタさんだね」
クマちゃんを抱えて顔をくしゃくしゃにして笑う梨沙ちゃんを見ていると、愛香の心が温かくなってきました。そして受験勉強で疲れた心もまた癒されてくるようでした。
「なにやら賑やかだね」
「サンタさんのプレゼント、届いたみたいね」
その時、後ろから声がしてきました。それは梨沙ちゃんのご両親でした。
「遅くなってごめんね、梨沙。仕事が長引いちゃって。あら、あなたはお向かいの斉藤さんのところの娘さんね。どうかしました?」
家政婦さんから今日のできごとを聞かされると、梨沙ちゃんのご母さんは何度もお礼をし、愛香は照れながら会釈を返しました。
「あら、降ってきたみたいね」
そのうち、空から白い物がちらほらと舞い降りてきました。
「積もるかな、ママ。雪」
「そうね、そうかもね」
目の前に降ってきた雪を掴もうと、梨沙ちゃんがはしゃぎ回ります。
「えっと、斉藤さんのお嬢さんですよね」
梨沙ちゃんのお父さんが愛香に、確認するように声をかけてきました。
「はい、斉藤、斉藤愛香です」
「愛香さん、今日はあなたに、娘がとってもお世話になったみたいですね。本当にありがとう」
「いえ、お世話だなんて」
照れくさそうに愛香はそう言いました。
「実は明日の朝、僕たち家族で教会にミサに行くんです」
「それは素敵ですね」
「よければなんですが、一緒にいきませんか、ミサ。人見知りのこの子があなたにはとても懐いているみたいで、こんなこと滅多にないんです」
「えっ、いいんですか? ぜひ喜んで!」
愛香はクリスマスのミサなど行ったことがなかったので喜びを隠せませんでした。
今夜はホワイトクリスマス。
しんしんと降りつもる雪は、家の屋根も道路もみな白く塗り込めてしまいました。
聖夜にクマのぬいぐるみが導いたこの素敵な出会いは、愛香の心を大きく成長させたことでしょう。
夜が明ければクリスマスミサです。
「明日はプレゼントにもらったこの腕時計をはめて行こうっと」
はずした腕時計を机の上にそっと置くと、愛香は静かに眠りに入るのでした。
おわり
四百字詰め原稿用紙二十枚換算