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間違えた紫陽花  作者:
9/21

佳苗・その5

 高峰和葉。

 わたしより二つばかり年上の女性で、夫の部下。

 実のところ、わたしは彼女の姿を一度も見たことがないとか、情報を一切知らないとか、そういうわけではなかった。

 悠真の仕事用のメッセージアプリには、彼女のプロフィールがその顔写真と一緒にある程度載っている。まぁ、あくまで仕事上の配属部署だとか役割だとか、せいぜいそんなもんだけど。

 年齢とか出身、家族のこととか、人柄とか。そのあたりは悠真が知っている範囲のことなら、大体知っていた。例えば、ご両親は県外にいて、一人娘として大事に育てられたから少し世間知らずなところがあるとか。可愛いもの、特に猫が好きで、そういう系統の私物が身の回りに多いとか。見た目は若く――いや、幼く見えるけれど、高校の卒業が一年遅れているので大卒の同期より一つ年上なのだとか。

 けれども実際に会ってみたことは一度もない。ただ、それだけ。

 会ってみたいと思ったことは、今まで別になかったと思う。

 けれど会ったら会ったで、いつも夫がお世話になっていますだとか、そういう大人の会話はできて然るべきなはずだ。

 それなのに、あの日……会社に悠真の弁当を届けに行った日。

 遠目に見かけた――もしかしたら、初めて動いているところを見たかもしれない――彼女の、ちょこちょこと動くわたしより小柄な可愛らしい姿。学生に見えるだとかそこまでのお世辞は言えないけれど、喫煙者だなんて想像もできないほどに無垢そうな見た目。

 ――あぁ、悠真が可愛がる気持ちもわかるかもしれない、なんて。

 自分と無意識に比べて、一瞬でもそんな風に思ってしまった。会って話すなんて、冷静な気持ちではきっとできないって、そう思った。

 だから、彼女と顔を合わせて話ができるチャンスだったのに、わたしはその場から怖気づいて逃げてしまったんだ。

 勝ち負けなんて、ないはずなのに。

 どうしてか、負けたような気がして、自分がひどく惨めだった。


 悠真は特別見目麗しい男というわけではないが、昔から不思議と他人を惹きつける力があった。

 初対面の時は――表情はほとんど無に近いので、少し怖いという印象はあれど――誰に対しても物腰柔らかい態度で接し、少し気を許せば軽口も時に厭わず。けれど決して相手を傷つけるようなことは言わない。

 そして……普段は頼りがいがあって優しく包み込んでくれるけれど、完全に気を許してくれた時には、こちらへ上手に甘える姿さえ見せてくれる。

 基本的には気を許さなければ決して己の奥深くまで踏み込ませたりしないけれど、深い関係になればなるほど――彼のことをより知れば知るほど、女性は彼の魅力に溺れていく。

 現にわたしも、その一人だった。


 普段ほとんどおくびにも出さないけれど、無意識に悠真の口から出る会社の話題は、高峰さんが登場することが多い。悠真はきっと、高峰さんにある程度気を許している。

 悠真が高峰さんと話しているところを見たことはないけれど、わたしに普段そうするように、ちょっとした軽口を叩いたり、頭を撫でたり、上手いこと甘えてみせたり。そういうことを、彼女にもしているかもしれない。

 あれだけ小柄なら、ある程度身長差もあるだろうから、子供を抱いてあやすような感じで、抱きしめてみたりもしているのかもしれない。

 悠真の口から聞く彼女は、少し知的で女性らしいところもあるようだし、わたしより年上でその分経験も積んでいるだろうから。その色気に、彼があてられるようなことも、あるかもしれない。

 決定的な証拠なんてありはしないし、そんな馬鹿な、なんて普段のわたしなら一笑に付しているかもしれない。

 それなのになんだか最近は、気分が上がらなくて。

 ぐるぐると、よくわからない不安が頭を何度も巡り巡って止まらなかった。


『嫉妬ってね、自分に自信がない人がするものよ』

 わたしより少し後に結婚した友人が、かつてそうわたしに言ったことがある。

 当時は友人たちの中でも比較的早めに結婚したことで舞い上がっていたし、そんなことしないよ、なんて笑って答えたけど。

 自信がない、という言葉に、今更引っかかりを覚えてしまった。


 もう、分からなかった。

 もとはと言えば、独身時代に喫煙所でたまたま見かけた、彼の笑顔に惹かれたはずだったのに。

 わたしだけに見せる――見せてくれているはずの、表情が増えていくにつれて。かつて喫煙所で見た取り繕わないあの素の笑顔が、頭にこびりついて離れなくなって。

 そこにいるはずのない、わたしじゃない誰かに――そう、例えば高峰さんに――向かって無邪気に微笑みかける、彼の顔が浮かんで。

 彼はもう、煙草を吸わないはずなのに。


 今思えば、単なるヤキモチだったのかもしれない。

 正直に言おう。わたしが悠真と結婚するときに、彼に煙草を止めさせた理由は、単にわたしが嫌煙家だからという理由だけではなかった。

 他の誰かに、これ以上あんな表情を見せてほしくないと。わたしの知らない表情を、他の誰かに向けてほしくないと。あの楽しげで甘い表情は、わたしだけが知っていればいいのだからと。

 煙草を止めさせただけで、そんなことが叶うはずはないのに。

 そういう気持ちが、確かにあったのだ。


「ただいま」

 今日もまた、パパの帰りを待ちわびていた尚哉がすっかり寝静まってしまった後。日付が回るか回らないかのタイミングで帰ってきた悠真のスーツからは、ほのかな煙草の匂いがして。

「煙草臭いよ」

 いつもより鼻が敏感になっているのか、ぴしゃりと言い放つ。

「あぁ、本当? ごめんごめん」

 疲れたような低い地声で、彼は悪びれることもなく小さく笑った。

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