佳苗・その4
洗濯物として投げ出されていた悠真のカッターシャツに、ファンデーションのような肌色の染みがついているのを、何度か見つけた。
悠真の様子がおかしいと思い始めたのは、実のところそう最近ではなかったりする。見逃してしまいそうなほど小さな違和感が少しずつ、少しずつ……カッターシャツに付いたファンデーションの件も、彼のスーツから時折香る香水のような甘い匂いの件も。微々たるきっかけが重なって、いつしか見逃せなくなって、怪しく思い始めてきたにすぎない。
だからといって、明確な証拠があるのかと聞かれたら、違う気がする。
香水の件は高峰さんがよく煙草の匂い消しに使うものだというし、ファンデーションのような染みだって、そうしょっちゅう汚れているわけでもないから下手に怪しむのもな……と尻込みしてしまう。
ちなみにこの件についても一度問い詰めたことがあるのだが、
『え、そんなのついてた? ……そういえば今日廊下で、やたら急いで走ってきた女の子とぶつかっちゃって。頬のあたりが思いっきり当たったから、その時に付いたんだろうな。気づかなかった』
本当に気づいていなかったとでも言うようにきょとんとした後、
『まぁでも、よくあることだよ。……何か誤解与えたなら、ごめんな』
と、やましいことなど何事もないかのようにさっぱりした態度で返されて、わたしは返す言葉もなくなってしまったことを覚えている。
何か知られては困るようなことの一つでもあるのなら、少しくらい動揺した姿を見せてきそうなものだけれど、悠真はそれが一切ない。隙がない、と言った方が正しいのかもしれない。
出会った頃から利己的で、感情をあまり表に出す人ではなかったけど、夫婦になってからは特にそれを寂しく思ってしまうこともある。
そりゃあ、二人きりになるととびっきりに甘やかしてくれたり……その、尚哉が寝てしまってから、ベッドとかでいちゃいちゃしたり。やっぱり夫婦なんだし、そういうことは人並みにする、のだけれど。
――なんかそれって、旦那さんが可哀想じゃない?
友人にそう言われた時のことを思い出して、つきりと胸が痛んだ。
何でもないことのはずだった。彼に我慢なんて、させてないって思ってた。
……けどそれが、わたしの一方的な思い込みだったら?
わたしとの暮らしで溜まっている鬱憤とかストレスとか、そういったものを、他の女のところで紛らわせているのだとしたら?
わたしでは得られない安らぎを、他の女に求めているのだとしたら?
「……馬鹿馬鹿しい」
ネガティブに引っ張られていきそうな思考を、慌てて打ち切った。
大丈夫。わたしは幸せだ。だって彼はわたしを大切に思ってくれているし、尚哉のことも可愛がってくれているじゃないか。
「ママ?」
とてとてと、歩き方もようやく板についてきた尚哉がわたしを呼びながらこちらへ来たことに気づいて、慌てて我に返る。
よしよしと頭を撫でてやると、嬉しそうに少しだけ笑った。
そのあどけないくしゃっとした笑い方は、父親である悠真とよく似ている。……最近、こんなリラックスした顔はあまり見せてくれないけれど。
「どうしたの、尚哉」
「パパはまだ帰ってこないの?」
「そうね……」
尚哉自身もきっと、答えをなんとなく知っているだろう。だってまだ夜の七時だ。仕事の日は、こんな時間に帰ってくることなどまずない。
分かってはいる、けれど。
「ね、パパに電話してみようか」
お風呂が沸くまでの間に電話をしてみようと提案すると、どことなくしょんぼりしていた尚哉はぱぁっと顔を輝かせて
「うん!」
と元気良く返事をした。
そんな尚哉に手招きをして、寄ってきた小さな身体を膝に乗せると、わたしは早速スマホを手にしてメッセージアプリを開いたのだった。
◆◆◆
仕事へ行った悠真を見送り、それから尚哉を保育園に預けて。
いつものように朝の家事をある程度終わらせた後、テーブルの上にお弁当を入れた包みが置きっぱなしになっているのを見つけた。
どうやら、悠真が忘れていったらしい。
「そういえば、最近ほとんど会社にお邪魔してないな……」
尚哉が産まれてからは、自分の元職場であり悠真の職場でもある会社に行くことはほとんどなくなった。一度浮気を疑って、夜に少しの時間だけお邪魔して以来だ。
「……せっかく、だもんね」
時計を見ながら今日は時間に余裕があると判断したわたしは、悠真のお弁当を届けるついでに、手土産を持って会社に行こうと決意した。
「どうせ、銀行に行かないといけなかったし。そのついでよ、ついで」
なんとなく緊張してしまって、何度も言い訳を重ねてしまう、そんな自分がどこか滑稽でたまらなかった。
「――あ、霜畑さん! 久しぶり」
「やだもう、霜畑さんじゃないでしょ」
「あ、そっか。今はもう、中さんだよね」
「もう……構わないわよ、霜畑で」
会社を辞めてからはもう、四年以上経つけれど、当時と顔ぶれの変わっていないメンバーもいて。
「最近どう? 忙しい?」
「やっぱり、霜畑さんがいた頃とは変わったよ。市場の変化もあるし……そういう意味では、忙しくなったかも」
「そっちはどう? 尚哉くんも大きくなったでしょ」
「そうね。もう三才よ」
「可愛い頃じゃん。ねぇねぇ、写真見せてよ」
時間もあったから、久しぶりに昔話に花を咲かせたり、互いの近況を交えた世間話をしたりした。
やはり前の職場であっても――もう既に部外者とはいえど――久しぶりに来てみると楽しいものだ。普段から家にいることが多いから、なおさら刺激がもらえる。
そんな感じで、およそ四年ぶりの元職場で懐かしく新鮮な時間を過ごしていると、喫煙室が見える方向から、悠真が数人の社員さんたちと話しながら歩いてきた。
「あ、ちょうど来たわよ。ご主人」
同僚に少しニヤつかれながら、手を振ってみる。
「悠真」
わたしに気づいたらしい悠真は少し驚いた顔をして、「佳苗」と小さくわたしを呼ぶと、小走りにわたしのところへやってきた。
「どうしたの、こんな時間に」
「うん。お弁当忘れてたから、届けに来た」
「あぁ……ありがと」
お弁当の包みをわたしから受け取った悠真は、微笑ましそうに見てくる他の社員さんたちに、恥ずかしいのか少しきまりの悪そうな表情をした。
ふわりと、煙草の匂いが鼻をくすぐる。
「……喫煙室、寄ってたの?」
「喫煙室にいる奴に、急ぎの用事があって」
ちゃんと消して帰ってくるから、と控えめに頭を撫でられる。僅かに上がった黄色い声に、彼はますます気まずそうに肩をすくめた。
その表情と周りの雰囲気に、なんとなくこれ以上居づらくなって。
「じゃあ、わたしそろそろ帰るね」
銀行寄らないとだし、と言い訳をしてその場を去ろうとする。
ちょうどその時、喫煙室に入っていく小柄な女の子の姿が見えた。可愛らしい外見をしているからか、喫煙室付近でちょこちょこと動く制服姿は、なんとなく年不相応にも見えて。
「あ、高峰戻ってきた」
それを見たらしい同僚の何気ない声に、ドキッとした。
反射的だったのか、悠真がそちらを――高峰さんがいるであろう方向を、ちらりと見る。そのことにさえも、どうして……という理不尽な感情がじわりと募って、急に苦しくなった。
「てか高峰、どこ行ってたんだろ。いつも社食かコンビニなのに」
「なんか今日は、別営業所の友達とご飯行くとか言ってたよ」
「へぇ……鳥羽ちゃんとかかな。あいつ、あの辺と仲いいもんね」
「ねぇねぇ。中主任の奥さん、あいつにも紹介してやろうよ」
「いいね。おーい、たかみ……」
「ご、ごめん! 急いでるから、もう帰る」
ぱたぱたと、彼女――高峰さんがこちらに気づく前に、わたしは慌ててその場を後にした。