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間違えた紫陽花  作者:
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和葉・その3

 喫煙室にいまだ漂うほわほわとした紫煙に包まれながら、脱がされたものもそのままにソファでくったりと横たわる。行為の後の気だるげなこの時間が、好きだ。

 新しい煙草を取り出そうとした中主任が、ふと何かに気づいたように近くへやってくると、おもむろにわたしの左手を取った。

「そういや高峰、時計変えたんだな」

「……今更?」

 中主任は時折、行為中に息も絶え絶えで余裕のないわたしの左手をゆっくりと取ることがある。自分で腕時計をしていない彼は、わたしが付けている腕時計を見て時間を確認するのだ。

 だからわたしの時計など何度も見ているはずなのに、今更わたしが時計を変えたことを指摘するとは。

 ……まぁ、いい。

「素敵でしょう?」

 挑発するように、にやりと笑ってみせる。

 深いブロンズを基調としたシックな色合いで、秒針は歯車を模したデザインとなっている。アンティーク系が好きなので、時計店で見かけた途端すぐに気に入ってしまい、思い切って購入することにしたのだった。

「こないだ、一年の記念日に買いました」

 言いながら今度はわたしが中主任の左手を取って、奥さんが選んだというピンクゴールドの指輪が嵌まった薬指に一つ、キスを落としてやった。

「これと、意味合いは一緒」

「いわゆるペアウォッチってやつ?」

「そう、お揃い。向こうもこういう古めかしいデザインが好きで、二人して一目惚れしちゃったんですよ」

 文字盤の裏側に名前を彫ってあるの、と自慢げに外して見せる。

「ほらここ、ローマ字で。彼氏の名前――利津(りつ)と。わたしの名前、和葉」

「へぇ」

 今時こんな洒落たことも出来るんだな、と物珍しそうに眺める姿はまさにおっさんと言って差し支えなくて、なんだか可笑しくなってしまう。

 こういう、二人ともが気に入ったペアものとか買わなかったんですか? と何気なしに聞いてみたら、中主任はどこか苦い顔で

「まぁ……うちはこういうの、だいたい嫁の意向で決めちゃうから」

 と呟くように答えた。

「まぁ、そもそもさ。こんなものに約束だとか、そういう見えない価値を見出すこと自体、俺はあんまり好きじゃないんだ」

 縛られてるみたいで窮屈だしな、と彼は表情を歪めて吐き捨てる。

「……それでも、縛られることを選んだのは中主任ですよね?」

 嫌ならどうして結婚なんてしたの、と言外に込める。

 緩慢な仕草で起き上がり、脱ぎ散らかされた服に手を掛けたわたしを横目に見ながら、煙草を吹かした中主任はこともなげに答えた。

「こんなことでもしなきゃ、ちゃんとした親孝行にならないからさ」


 わたしの彼氏の名前は、生野(いくの)利津という。

 二つ年下の彼は大学時代の後輩で、今は市役所で働く堅実な公務員だという。一年前にたまたま参加した母校の文化祭で再会し、それから恋人関係になった。

 ――何も、特筆することではない。

 一緒に来ていた互いの友人を交えて文化祭を一緒に回り、そのまま積もる話もあるからと二人で飲みに行った夜。

 利津が、実は学生時代からわたしを好きだった、と打ち明けてきて。良ければ付き合ってもらえませんか、と言ってきた。

 それにわたしが、いいよ、と返した。

 ただそれだけのこと。どこにでも転がっている、よくある話である。


 利津が大学時代からわたしを好いていることには、当時から薄々だけど気づいていた。

 少なくともその負い目があるのか――自分で言うのもなんだが、惚れた弱み、とでも表すのか――大学時代からそうであったが、恋人関係となった今でも、利津がわたしに対して強い物言いをしたり、反抗的な態度を取ったりすることはない。ただ、周りからどう見えているかは知る由もないことだが、わたし自身は利津のことを押さえつけたり、何かと我慢させたりしているつもりはなかった。

 ただ、多分。

 面と向かって言葉にすることはないが、おそらくわたしが煙草を吸うことを、利津は良く思っていないのだろう。

 だからなんとなく、中主任のようにあからさまに隠したりはしないけれども、利津の前ではあまり煙草を吸わないようにしている。


 もし恋人にするのなら、程よく愚鈍な子か、それなりに頭の切れる子が良いと思っていた。愚鈍ならば中主任との不思議な関係を悟られることなく続けていけるのだし、頭が切れる賢い子ならばたとえ悟られたとしてもきっと何も言わないでくれるから。

 ……まぁどちらにしても、わたしのことが好きすぎるくらい好きだという前提にはなってしまうけれど。

 わたしのことが好きすぎるから、盲目になって気づかない。あるいは、わたしのことが好きすぎるから、気づいたとしても何も言わない。

 そのどちらかが、理想だと思っていた。

 利津は、頭がよくて愚鈍だ。

 例えるならそう、東大出身とかで勉強は誰よりもできるし知識も豊富なのに、いざ社会に出ると要領が悪くて、あまりにマニュアル通りで全然アドリブが効かなくて、からっきし役に立たない……そんなタイプ。

 わたしを慕っているから、わたしのことが大好きだから。わたしのためになることならと、わたしの命じることならなんでも素直に聞くし、わたしの言うことなら何だって信じてくれる。変に感づいたりもしない。

 頭がいいのに愚鈍で、不器用で、本当にどうしようもなくて。わたしがいないと、自分でも何をどうしたらいいかなんてそう簡単に決められやしない。


 ――都合のいい人間?

 それは半分当たっているかもしれないけれど、その実わたしが彼に抱いている感情は、全然違う。

 わたしはちゃんと、利津のことが好きだ。

 恋愛感情ではないし、中主任に対して抱いている依存的な感情とも違う。……そもそも、利津に依存しているのならば、中主任の存在なんていらないはずだから、それが確実に当てはまらないのは明白であろう。

 それでも利津は、わたしにとって必要な存在だった。多分、中主任と同じくらい、大切にしている。


 歪んでいると、思われるだろうか。

 それでもわたしは、利津のそんなところを――頭は良いけれどちょっと固くて、応用が効かなくて、不器用で、どうしようもない。

 そんなところを特別可愛らしく、いとおしいと思ってしまうのだ。

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