佳苗・その3
左手の薬指に嵌まる、結婚指輪。
ピンクゴールドのシンプルなデザインであるそれは、もとはと言えばわたしが決めたもので、意外と気に入っていた。
男の人が嵌めるにはちょっと派手すぎるというか、可愛らしすぎるかな……とも思ったけれど、悠真はその辺の好みについて何も口出ししなかった。
『佳苗が良いと思ったものを選びなさい』
そう言って彼はいつも柔和に笑って、いつだってわたしに着いてきて。いつだってわたしを、見守ってくれていた。
思えば結婚式のモチーフも、全部わたしに決めさせてくれたし。新居の部屋割りなんかも、基本的にはわたしが全て決めた。
夫婦共用で使っている車――元々、独身時代に彼が運転していた車だった――も、結婚してからわたし好みの可愛らしいぬいぐるみやキャラクターもののキーホルダーをあちこちにつけたのだけれど、何食わぬ顔でそのまま運転しているし。意外と、彼自身にこだわりはないのかもしれない。
時々口を挟んでくることもあったけど、わたしのアイデアを下敷きにしたうえで、こうすればもっと良くなるんじゃないかというアドバイスみたいなものをしてくれるだけ。彼の口添えによって、より快適な二人の空間が作り上げられていく。
その瞬間こそが、快感だった。
「――なんかそれって、旦那さんが可哀想じゃない?」
そんな風に水を差してきたのは、実家に帰ってきて久しぶりに会った地元の友達だった。
尚哉のことは実家の両親が見てくれていて、悠真は仕事があるためわたしたちを置いてそのまま帰ってしまった。だから今は、わたしの完全なプライベート空間だ。
だからこそ、仲の良かった友人とこうして会っているのだが……。
「何でよ」
なんとなくいい気分はしなくて、つい目の前の彼女を睨んでしまう。
発言の張本人である彼女は何とも言いにくそうに視線を彷徨わせ、「だってねぇ」と口元をまごつかせた。
「旦那さんはどうしたい、とかそういう意向を少しも聞いてないの?」
「だってあの人、基本的に何も言わないんだもん」
「言わなくても、ちょっとは好みに合わせてあげるとかさ」
「そりゃあ、あまりに破綻してたらちょっとは口出してくるけど……でもわたし、あの人の好きなものなんて知らないし。向こうだってそういうの、全然言わないし」
だったらわたしの好きなようにしたらいいってことじゃない? と澄ましてみせれば、彼女はこれ見よがしに溜息を吐いて。
「まぁ、あんたがそれでいいって言うなら、いいんじゃないの」
野暮なこと聞いて悪かったわね、と小さく笑った。
その表情がなんだか嫌味に思えて、内心苛立ちながら、わたしはわざと話題を変えてやることにした。
「あんただって結婚考えてるんでしょ。今の彼氏とはどうなのよ」
あら、と彼女は途端にうっとりした表情を浮かべる。
「それがね、聞いてちょうだいよ」
「なぁに、突然ニヤニヤして……なんとなく想像つくけど」
「そう言わないで。実はね、こないだプロポーズされたの」
「やっぱり……ふふ、よかったじゃない。おめでとう」
「ありがとう」
そう言って、嬉しそうに笑った彼女は。
「……でもね」
少しだけ、表情を曇らせた。
「怖いのよ、正直」
それは単なる、マリッジブルーってやつだったのかもしれない。けれどその愁いを帯びた表情に、すっと背中が冷えた。
「怖いって、何がよ」
声が震えるのに、どうか気づかないでと願いながら問う。
ふっと彼女は瞳を伏せて、
「だって……結婚して家庭を持つってことは、もうこれ以上自分だけのためには生きられなくなるってことよ」
旦那のことも、子供のことも、自分のことのように大切にしていかなければならない。いつしか自分自身のことより、自分とはそもそも他人であるはずの旦那や、血を分けているとはいえやっぱり自分とは違う他人でしかない子供のことが、生活の中心になっていく。
「結婚によって今までの自分が否定されて、違う自分になってしまうような気がして……そういうのを考えると、すごく怖いわ」
彼女は結婚前のわたしと同じように、仕事をしている。好きな仕事だと言っていたし、趣味だってわたしより格段に多い。
そういうことに時間を割けなくなっていくことが、辛くて仕方ないのだ。
「佳苗は……怖くなかったの?」
「わたしは……」
問いかけられて、言葉に詰まる。
そもそもわたしの生活は随分と前から、悠真のことが中心だった。悠真なしの日常なんて、今更考えられやしなかった。
出会った頃は話しにくい人だなとか、どうしたら仲良くなれるかとか考えてたし、片想いの時にはとにかく彼への想いを募らせることだけに時間を費やした。付き合いだした時だって、デートどこに行こうとか、次はいつ抱いてくれるのかしらとか、そんなことばっかりが日常の中心で……。
……あぁ。そうだ、わたしは。
悠真と出逢ってからずっと、自分中心の生活なんてしてなかった。
学生の頃には、好きなお菓子とか好きなアイドルとか、テレビ番組だとか、血眼になって集めたキーホルダーとか、そういうものがいっぱいあったはずなのに。今となっては全部覚えてないし、どうでもいい。
――でも。
「……そ、そんなのはどうだっていいじゃない」
そんなの、認めたくない。それじゃあ空っぽの人間だって、言ってるみたいなものじゃない。
それに、わたしは。
「今考えたって仕方ないんだし。ところで、あんたこれから式とかやるんでしょ。そっちの方が楽しみじゃないの」
わたしが意図的に話題を逸らそうとする、その理由なんてきっと彼女は知る由もないだろう。
――そんな話、したくないからだ。
けれどプロポーズだとか結婚式だとか、そういうことだけでも幸せいっぱいらしい彼女は現金なもので、
「そうそう」
と、あっさりこれまで陰っていたはずの瞳を爛々と輝かせる。
「結婚式には絶対呼ぶからね。予定空けといてね」
「もちろん」
「今はね、結婚指輪を選んでるところなのよ」
二人で行って決めるの、ととろけそうな笑みを浮かべる彼女の話を聞きながら、わたしはもう一度左手の薬指に嵌まる、結婚の時にわたしが率先して選んだ指輪を見つめる。
心臓は、まだ嫌なドキドキを奏でていたけれど。
わたしの意図通り、話が逸れてくれたことに、内心でホッとしていた。
――大丈夫。わたしは彼に我慢なんてさせてないし、ちゃんと幸せだ。
それは確信のようでいて、実のところは単なる願望でしかなかったのかもしれない。……それでも。
彼がわたしの傍にいてくれる。わたしの夫として、いつだってわたしのところへ必ず帰って来てくれる。
それだけが、わたしにとっては真実だった。