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間違えた紫陽花  作者:
4/21

和葉・その2

 大卒で今の会社に入社してかれこれ四年目になるが、もちろん最初から不倫なんて――いや、そもそもこれを不倫と呼んでいいのかすらも分からないが――していたわけじゃない。

 当時から中主任とは一緒に仕事をしていたけれど、少なくとも一年ほど前までは、まだわたし達は健全な上司と部下だった。


 ではとりあえず、きっかけから話そうか。

 わたしと中主任が、男女の関係に足を踏み入れてしまったきっかけを。


 入社当時、中主任は新婚だった。

 けれどそんなことは関係ないと言いたげなほどにクールで澄ました印象だったのをよく覚えている。

 わたしもわたしで普段は他人に興味が一切ないので、彼の家庭事情など知る由もなく……というか、本当に心の底から――と言うと失礼に当たるだろうか、けれど事実なので仕方ない――どうでもよかった。

 余談だが、わたしは中主任の奥さんに一度も会ったことがない。ちょうどタイミングとしては彼女が寿退社したのとほぼ入れ替わりでわたしが入社した、という感じだったので、顔を見る機会がなかったのだ。

 年下の可愛らしい奥さんだと評判だったので、それなら一目会ってみたかったな、なんて呑気なことを当時は思っていた。


 中主任はわたしにとって直属の上司だったが、直接仕事を教えてもらうことはほとんどなかった。

 ただ、周りから慕われたり頼られたりしているみたいで、わたしの教育係だった先輩だけでなく他の社員さんも、もっと偉い立場であるエリアマネージャーでさえもが、何かわからないことがあると一番に頼るのは中主任だった。

 だからわたしも自然に、分からないことや困ったことがあると、だんだん中主任に頼る頻度が増えていって、必然的に彼と話をする機会が少しずつ増えていくことになった。


 わたしがもともと喫煙者なこともあって、喫煙室で仕事以外の雑談をすることも多かった。喫煙室に二人きりという状況になることだって、そういう関係になる前から何度もあった。

 普段から自分のことをあまり話さない中主任だったが、打ち解けていくうちに奥さんのことや子供のことを時折ちょっとずつ教えてくれるようになって……そう、彼が奥さんに煙草を吸っていることを隠している事実を知ったのも、確かそのタイミングだったように思う。


 彼と最初に身体的接触をしたのは、入社して初めて行った忘年会。

 とは言ってもその時にはまだやましいことなんて何にもなくて、思ったより酒癖の悪かった中主任の介抱を何故かわたしがすることになったっていうただそれだけのことなんだけど。

 わたしと中主任では頭一個分あるかないかくらいの身長差があるから、実際中主任はわたしに思いっきり伸し掛かっていただけなのだけれど、傍から見ると中主任がわたしを抱き込んでいるみたいな姿勢になって。

 『新婚のくせに、何女の子に手出してんの~』なんて同じく酔っ払った社員さんたちに囃し立てられながら、わたしはよたよたと危ない足取りで中主任を部屋まで送っていったのだった。


 当然、中主任はその時のことを何にも覚えちゃいなかったけど。

 わたしを抱き締めた時の感覚を、彼の身体は自然と覚えていたのかもしれない。

 それ以来二人きりになると、頭を撫でられたり肩を抱かれたり、腰を抱き寄せられたりと、中主任から遠慮なく触ってくることが増えた。普段から気を許した社員に対しては身体的距離が近めな人だったが、あの一件があってからは特に、それ以上に。

 わたしもわたしで箍が外れたのだろう、特に抵抗することはなかった。セクハラだと訴えることも出来たのだろうが、別に嫌ではなかったし。

 それどころかわたしの方からも、二人きりの時になると、中主任に抱き着いてみたり、座っている彼の膝に乗ったりするようなことが増えた。冷静に考えれば……いや、冷静に考えなくても、その時点で距離感がおかしくなっていたのだろう。


 ――そして、一年と少し前。社内で昇格があり、中主任は役職名こそ変わらないものの、社内でさらに重要な役目を担うことになった。

 そんなある日の残業終わりに、喫煙室でわたしたちは二人きりになって。

 歯車が狂ったのは、その瞬間だった。


 ふざけて膝に乗ったわたしの頭を撫で、頬を撫で、首元を撫で、わき腹を撫で、腰を撫で……やがて服の下にするりと手を入れてきた中主任は、今までに見たことがないほど意地悪にニヤリと笑って。

「……あんまり無防備だと、こうやって悪い男に襲われるんだよ?」

 ぷちり、とブラのホックを外されても、わたしは特に抵抗もせず、されるがままに彼の行動を受け入れた。

 その日は雨が降っていて、外気はしっとりと湿気を含んでいた。晒された素肌に、空気が柔らかくまとわりつく。そのままするすると、大きな熱い手で撫でられて、思わず身体が震えた。

「抵抗しないの」

「抵抗されたいんですか?」

「……さぁね」

 こんな時にまで、澄ました余裕そうな顔をするから。

 内心少し怖かったけれど、この程度のことに臆するような子供だと思われたくなくて、わたしはつい強がった。

 雨がしとしとと降る窓の外で、鮮やかに紫陽花が映えている。途中でそちらに目をやると、中主任は遮るように手早く紐を引き、シャッターを閉めた。

「……中主任」

「なに」

 ざらついた頬に、手を添える。中主任の、普段と別人のようにぎらついた瞳とかち合った。

「毒を食らわば皿まで――って言葉、知ってます?」

 目の前の彼と同じように、ニヤリと笑って。

 わたしはそのかさついた唇に、ためらいなく自分の唇を重ねた。


    ◆◆◆


 わたしには、昔から恋愛感情というものがない。その代わりに、昔から気を許した人には依存してしまいがちなところがあった。

 それを恋愛感情と呼ぶのでは? と言う人もいるかもしれない。

 ただ、自分より仲のいい人に嫉妬したりしたことは多少あったけれども、その感情は男女問わず向けられたし、そこにはよく言うトキメキなんてものも一切ないし、そういう意味では恋愛感情と訳が違う。

 その人がいないと、その人に必要とされないと、自分が保てなくなってしまう。自分が生きている意味を、そこで見出してしまう。

 わたしはそういう、嫉妬深い子とはまた違った意味でめんどくさい女だった。


 ――さて、何でそんなことを今言うのかというと。

 半ば成り行きで始まってしまったような関係だけれども、わたしはちょっとずつ自覚してきていた。中主任に、だんだん依存しつつあるということを。

 あの日わたしが初めてだったことも、感情に拍車をかけていた。

 仕事のことからどうでもいいことまで色んな話をして、煙草の銘柄を揃えて、時折身体を重ねて。そんな日々を繰り返していくうちに、彼の存在がわたしの中にじわじわと侵食してきつつあるのだと。

 だからって、彼と恋人同士にはならない。奥さんと別れてなんて、愚かなことも言ったりしない。

 だって、わたしたちは互いに恋情がないのだ。

 中主任にとってわたしは、奥さん以外に抱かせてくれる、割り切った都合のいい遊び相手という存在で。わたしにとって中主任は、程よく依存させてくれる心地のいい存在だというだけだから。

 けれど、今の関係を終わらせたいとも思わなかった。

 だって先述の通りわたしは、中主任に依存しつつあるから。……まぁ、彼がわたしに飽きたと言うのならば、話は別だけれど。

 もちろんその時には、中主任のことをちゃんと解放してあげられるようにしている。その、準備はできている。


 互いに遊びならば、そう分かっているならば。これ以上依存してしまわないように、守るべきことが三つあった。

 一つ、自分から誘うような真似をしないこと。

 二つ、彼の意向に従うこと。

 そして三つ。決して、わたしから真意を出さないこと。


 ……守れているか? なんて。

 そんなの、愚問だ。

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