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間違えた紫陽花  作者:
3/21

佳苗・その2

 夫――中悠真と出逢ったのは、わたしが高卒で就職をした十九歳の春のこと。

 彼が今勤めている会社に、当時わたしが新卒の社員として入社して。そこで右も左もわからないわたしの教育係になってくれたのが、当時三十二歳の悠真だった。

「今日からお世話になります、霜畑(しもばた)佳苗です。よろしくお願いします」

「……中です。よろしく」

 正直、そんなに愛想のいい方ではなかった。

 仕事内容はちゃんと教えてくれるし、こちらからの質問にも真摯に答えてはくれる。必要最低限のことは話すし、世間話もそれなりには付き合ってくれるけれど、あまり自分の話はしてくれない――有り体に言えば、少しとっつきにくいタイプの人だった。

 ちなみに当時、単にわたしに対して人見知りをしていただけだったという事実は、付き合うようになってからようやく明らかになるのだが……という話はさておき。

 ともかく第一印象は微妙なところ。

 新卒でとにかく緊張し通しだったわたしには、この人とコミュニケーションを取らなきゃいけないということ自体ハードルが高かった。

 普段は無口だし、一緒にいるととにかく気まずいし。こいつが教育係だから仕事でわからないことがあったら何でも聞けよ、と当時の上司には言われていたが、まぁそんな雰囲気じゃ当然のごとく話しかけづらいわけだし。

 当時のわたしに、あなたの今の夫がこの人です、なんて言おうものなら卒倒するのではなかろうか……。


 そんな彼との関係が――というよりも彼に対するわたしの中での印象が、がらりと変わった瞬間は、大きく挙げれば二度ある。

 一度目は、彼のことが気になる存在となったきっかけ。

 それはある日の休憩時間、何気なく廊下を歩いていた時のことだ。

 まだ未成年だったわたしが、決して足を踏み入れることはない――立派な嫌煙家となった今も、きっと二度と関わることのないであろう、喫煙室。もちろん入っていくわけなどないのだが、当時その部屋は窓張りで、通りがかるだけでも室内の様子がよく見えるような状態だった。

 そこで見かけたのは、煙草を片手に同僚さんたちと話していた彼の姿。

 基本的にわたしの前ではほとんど仏頂面で、そんなにおしゃべりな方でもないと思っていたのだが、すっかり打ち解けた様子の同僚さんと話している姿はそんなイメージとまるでかけ離れていた。

 もちろん、素が落ち着いた性格なのだろうから、お調子者っぽくはっちゃけたりすることはない。……そんなことがあったら正直ドン引きだが。

 けれど、その様子は普段と明らかに違って。

 同年代ぐらいの男性社員と軽く肩を組んでみたり、ちょっかいを掛けてみたり。きらきらした目で何か話していたかと思うと、大口を開けてあははっ、と聞こえてきそうなほど楽しそうな表情で笑いだす。

 ――そんな顔、するんだ。

 今までずっと遠くに感じていた彼が、急に身近な存在に感じてしまって。あの人もあんな風に、わたし達と同じように、友達と笑い合ったりふざけ合ったりするんだなって。

 そう思うと、これから接するのがちょっとだけ、ほんのちょっとだけだけど、楽になるような気がした。


 そして、二度目は――これは今でも、忘れやしない。今でも思い出しては、新鮮な気持ちでどきどきして、何度だって彼に惹かれてしまう。

 そう、あれは初めて参加した、年末の忘年会でのことだった。

「ちょ、中さっ……お酒臭い、ですよl」

 わたしは当時未成年でまだお酒が飲めなかったので、完全に素面の状態だったのだが……彼の方が、どうやらみんなが目を離した隙に度数の高いお酒を重ねていたみたいで。介抱して部屋に運んだ時には、すっかりべろんべろんと言って差し支えないほどに酔っ払っていた。

 自分より体格のいい身体をベッドに向けて放り投げようとしたら、そのまま腕を惹かれてあっさりベッドに引き倒されてしまい……今に至る。

 完全に抱き込まれた状態のわたしはさっきから、離して、と訴えるように背中を軽く叩き、彼をゆすり起こそうとするのだが……。

「んー?」

 当の彼は悪びれもせずゆるゆると微笑んで、わたしを抱き締めたまま離そうとしない。お酒が回って相当酔っ払っているらしく、かなりの甘えたになっていた。

 口元からはアルコールの匂いがひどくて、思わず避けるように彼の肩あたりで顔をうつむかせる。

 普段着ることのない浴衣からは、先ほど宴の間に吸ってきたのか、煙草の匂いが微かに漂う。はだけた首筋からは彼自身のものであろう匂いがして、そこに男の人の色気を感じてしまい、不覚にもくらくらした。

「中さん……ねぇ、中さんってば」

 絆されそうになっている自分の心に鞭を打ち、何度か彼を呼んでいると。

「……もうちょっとだけ」

 ぐり、と肩あたりに甘えるように頭を擦り付けられると同時に、今まで聞いたことない類の低く掠れた声が耳を打って。

 どくん、と心臓が大きく音を立てたのを感じたわたしは、思わずそのまま動きを止めてしまった。


 結局その後、彼と同じ部屋の先輩社員が入ってきたことで事なきを得て、わたしの純潔は守られたわけだが……。

 それ以来、わたしは一回り以上も年上の彼の魅力に夢中になってしまい、どんどん惹かれるようになっていってしまったのだった。

 当の彼は――本当に、かなり酔っ払っていたのだろう――その夜のことを何も覚えていないらしく、最初のうちは『意識しているのはわたしだけか……』と何度も挫けそうになったものだったが。

 それでも毎日ちょっとずつ、にこやかに笑いかけてみたり、積極的に話しかけてみたり、さりげなくボディタッチしてみたりするうちに、彼もだんだんわたしを気にしてくれるようになって……。

 彼に釣り合いたくて背伸びし続けていたわたしが、ようやく待ち焦がれた成人を迎え。それから少し経った頃、わたしから告白をして無事にOKをもらうことができたのだった。


 ……まぁ、それからは話すまでもないだろう。

 それ以来わたしたちは順調な交際を経て――少し年齢が離れすぎているんじゃないか、と周りに言われたこともあったけれど――比較的とんとん拍子に事は運んでいくことになる。

 わたしが二十一歳、彼が三十四歳の頃に結婚をして、わたしはその時に寿退社した。そしてわたしが辞める少し前に、彼は役職がついて主任と呼ばれるようになり、翌年には長男の尚哉が産まれた。

 今や専業主婦のわたしは大好きな夫の悠真と、ベタな言い方だけどまさに目に入れても痛くないと言っていいほど可愛い息子の尚哉と、三人で穏やかな暮らしを満喫している。

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