和葉・その10
「おはようございます」
結婚式が終わってそのまま新婚旅行に行き、十日ぶりくらいの出勤となった会社で、同僚や先輩たちは相変わらず温かく迎えてくれた。
「あー! 高峰久しぶり!」
「もう高峰さんじゃないじゃん。ねぇ?」
「そうだった、生野さんだっけ。結婚おめでとう!」
「ありがとうございます。でもこれからも、会社では高峰ですよ~? ふふ」
お土産です、と新婚旅行先で買ってきた菓子折りを渡すと、みんな群がって取りに来た。まったく、現金なものだ。
「え、ねぇねぇどこ行ってきたの」
「イタリア」
「いいなぁぁぁ。パスタ食べた?」
「何でイタリアって聞いてすぐ出て来るのがパスタなのよ」
「そりゃあそうでしょ。本場なんだから」
同僚とそんな話をしながら、写真を見せたりして盛り上がる。
中主任はその場にいなかった。デスクの引き出しに煙草とライターがなかったから、多分喫煙室に行っているのだろう。
――本当はどこかで、彼に逢えることを期待していたのだ。
そうじゃなきゃ、姿が見えないだけでこんなにもあからさまにがっかりしたりはしない。
けど、そんなことおくびにも出すわけにはいかないから。
中主任にも後でお土産渡さないとな……なんて、心の片隅で平気なふりをして考えながら、わたしは戻ってきた日常に溶け行く努力をした。
『そっちはどう?』
『もうね、すっごいからかわれてる』
仕事の合間を見て、利津とメッセージのやり取りをする。
利津の職場は市役所という結構お堅い場所だが、職員さんは意外とノリのいい人が多いみたいで、彼いわく『結婚式呼んでない人にも、奥さんどんな人? ってしきりに聞かれる』らしい。
『みんな、お土産喜んでくれてるよ』
『本当? よかった』
今日はお互いに結婚してから初出勤で、新婚旅行のお土産を持って行ったのでなおのこと、お互い声を掛けられる状態みたいだ。
『こっちも、餌撒いた時の鯉みたいに群がってる』
『何よ、その例え』
コメントに少しユーモアを交えてみると、苦笑気味のリアクションと、吹き出した顔のスタンプが送られてきた。利津の声で簡単に脳内再生されてしまうあたり、以心伝心だなと思う。
クスッ、と笑いながらメッセージを打っていると、後ろから中主任がにゅっとのぞき込んできた。
「さすが新婚、仲のいいことで」
「きゃあっ」
驚いて思わずスマホを取り落としそうになるわたしを見ながら、中主任はケタケタと悪戯気な子供のように笑った。
「もうっ……びっくりさせないでください」
内心色んな意味でどきどきしながら振り返ると、わたしを見下ろす中主任は存外優しい目をしていた。結婚式でご家族と一緒にわたしをお祝いしてくれた時と同じ、温かく見守るような瞳。
嬉しくて、むずがゆくて、けれどほんの少しだけ寂しくなってしまうような、そんな……。
「ごめんごめん」
ぽんっ、と頭に手を乗せられる。これまでいつもそうしてくれていたのと何ら変わらない温かさと重みに、なんだかほっとした。
「煙草吸いに行こうぜ」
「さっき吸ってませんでした? 人のデスクから勝手に取って」
「細かいことは良いんだよ」
「もう……」
仕方ないな、と口では言いながらも、まんざらでもないのだから始末に負えない。
そんな日常が、ひどく愛おしかった。
「じゃ、お疲れ様ですー」
「おつかれー」
定時になり、仕事を終えた同僚や先輩たちが次々と帰路に就く。
いつも通りに過ぎていく一日に、これまでと同じ展開が待っているのか、そうでないのか。少しだけどきどきしながら、わたしは自分のデスクでパソコンを半ば無意味に叩いていた。
――何を期待しているのか、なんて。
馬鹿らしいにもほどがある、と自分でも思うんだけれども。
中主任は何食わぬ顔で仕事をしている。
無意識にちらちらと彼の方を眺めてしまうのは、条件反射というべきか、もっと酷く言うとパブロフの犬、とでも例えるべきか。
しばらくカタカタとキーボードを鳴らし、よし、と小さく息を吐いた中主任が顔を上げた時に、ばっちりと目が合ってしまった。
「……ん?」
慌てて目を逸らしたわたしに、ニヤリと小さく笑って。
「どうかしたか、高峰……じゃなくて、生野?」
わざとらしい呼びかけに、かぁっと顔が熱くなるのを感じながらも、
「し、知らない」
わたしは慌ててパソコンをシャットダウンし、ひったくるようにデスクから煙草とライターを出した。
「帰る前に、煙草吸うんだもん」
誰に言い訳しているのかももはや、分からないが。
タイムカードを押して、そのまま一目散に喫煙室へ向かった。
「――なぁ、置いてくなんてひどいじゃん」
喫煙室に着くや否や、あっさりわたしに追いついた中主任は、
「俺にもくれよ」
と無意識に握り締めた箱から煙草を一本取りだす。後ろから軽く抱き寄せられるような恰好になって、思わず息が止まりそうになった。
そして中主任は、そのまま煙草に火を点けて吸うために、わたしから離れた――かと、思ったら。
「中、主任……?」
ぎゅっと抱きしめられて、心臓がとくり、と音を立てる。中主任の頭が肩に軽く乗って、ぐり、と摺り寄せられた。
おかしい。わたし達にこんな甘酸っぱい空気なんて、絶対似合わないはずなのに。
そんな風に、縋りつくように抱き締められてしまったら……抱き込まれてしまったら、拒むことなんてできるはずもないのだし。
拒もうなんて、思うことすらできなかった。
「――あの紫陽花、会社の本当に裏手に咲いてるから、知ってる人あんまりいないんだよなぁ」
綺麗なんだけど、もったいない。
小さく笑いながらわたしの背中をまさぐる中主任に、苦笑する。
「本当に、間違えたところに咲きましたね」
こんな所じゃなくて、もうちょっと別の場所に咲いたらよかったのに。
クスクスと笑いながら、窓の外で咲き乱れている紫陽花を見やる。抱き着いた中主任の肩越しに見えた、色鮮やかな花弁たちは、月明かりに灯されていっそ淫靡だ。
ぷつり、とブラのホックを外されて、捲れた背中を直にするすると撫でられる。それだけでもう、期待に染まった全身がもどかしく震えてしまった。
――これで最後、なんて嘘。
本当はずっと、期待していたのだ。
わたしが利津のものになってからも、中主任が二人目の子供を授かってからも、変わらずこうして抱いてくれやしないだろうか……と。
「……ね、中主任」
「なに」
「もっと、触って」
以前なら絶対に言わなかったはずの、自分から求めるような言葉。
満足げにほくそ笑んだ中主任は、「わるいこ」と吐息だけで小さく呟き、紫陽花が映ったシャッターを下ろした。
間違えた場所に咲いた紫陽花は、誰にも気づかれず摘み取られることがないまま、今年も同じ場所で咲き乱れる。
――結局、いつも通りの日常がそこにあって。
たとえ生活がガラッと変わっても、利津がわたしの夫になったとしても。
わたしは中主任から離れることができないまま、今日も何食わぬ顔で、密やかに日々を過ごしていくのだ。




