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間違えた紫陽花  作者:
2/21

和葉・その1

 お疲れっすー、とそそくさ帰っていく者もいれば、少し残業をして帰る者もいる。どこの組織も案外と、そういうものなのかもしれない。

(あたり)主任、今日も残業ですか」

「まぁな」

「いい加減早く帰ってあげないと、奥さんも子供さんも待ってるでしょ」

「帰りたいけど帰れないんだよ」

 声を掛けられた中主任は、ふはは、と小さく笑った。

「リーダーも大変っすねぇ」

 主任こと中悠真は実質、この小さな支社を取り仕切るリーダーだ。

 肩書としては『主任』だけれど、実質仕事内容や権限的にはもはや支社長と言ってしまっても過言ではない。とはいえこれはうちの会社のシステムというか運用的な問題であって――支社長、という肩書が単純にうちの会社にないのだ――、別に中主任が蔑ろにされているだとか、給料面などで不当に搾取されているだとか、そういったことではない……とだけ、会社と彼の名誉のために付け加えておく。

 中主任本人は、『そんな偉いもんじゃない』と謙遜するけれど、この支社の誰もが――そして他支社の社員やエリアマネージャー、時には取引先の社員さんだって、有能な彼を慕っている。中主任の下で働きたい、と言う人だってたくさんいるのも、わたしはちゃんと知っているのだ。


「じゃ、お先でーす」

「お疲れ、また明日よろしくな」

 残っていた社員たちが、続々と帰っていく。

 そしてわたしと中主任以外、誰もいなくなった。そのタイミングで。

「高峰」

「はい」

 わたしはほとんど終わっていた仕事を切り上げて、パソコンを切ると自分のデスクから立ち上がった。言われずとも名を呼ばれただけで、何を求めているかはわかっている。

 中主任が自分に宛がわれたロッカーから()()を取り出すのを横目で確認しながら、わたしはデスクの引き出しから煙草とライターを取り出した。

 二人してタイムカードを押し、そそくさと連れ立ってオフィスを出る。向かうのは、いつもの場所――喫煙室だ。


 ――しゅぼ、とライターの鳴る音。

 もわりとした紫煙に包まれ、火のついた煙草を手にした中主任は、ゆうるりと妖しくこちらへ笑いかけた。


 わたしも自分の煙草に火を点けた。口を付けてたっぷりと肺の中に煙を吸い込み、ふぅ、と思い切り吐き出す。

 落ち着いたところで、わたしの目の前で同じように煙草を吸っていた中主任は口を開いた。

「昨日帰ったら、匂いがするって言われてさ」

「……煙草の匂いです?」

 毎日帰り際あんなに気を付けていたのにね、と彼自身の詰めが甘いことを暗に突っつく。けれど予想外にも、中主任は首を横に振って、「そうじゃなくて」と言った。

「香水でも付けてる子がいるのか、だって」

 その答えに、わたしは一瞬呆然と目を丸くして……ぶっ、と思わず噴き出してしまった。

「あっ……ははは! そういうことですか」

 ぽんっ、と太ももを一つ叩く。おっさんか、と中主任が呟いたのは、あえてスルーしておくことにした。

 それはきっと、わたしが煙草の匂い消しに使う香水のことだ。あまり香りの強いものは本来好きではないのだが、煙草の匂いを消すのにはそのくらい強くないと誤魔化しが効かない。それに、この匂いは甘ったるいだけじゃなく割とすっきりしていて、わたしも気に入って普段から愛用している。

 もちろんのことだが、この香水は女物だ。怪しまれるのも当然と言えば当然だろう。それにしても……。

「本当に鼻がいいんですね、奥さんは」

「そうなんだよな……」

 彼はどうやら奥さんに、煙草を吸っていることを隠しているらしい。

 嫌煙家の奥さんに、結婚を機に止めるよう言われたそうだが、会社ではこうやってこそこそと――いや、堂々と? 奥さんの知らないところで隠れて吸っている。止めてなかったら離婚とまで言われたそうなのに、どうしてそこまでして未だに煙草を止めないのか、わたしには正直理解しづらい。

「あれは本当にヒヤッとした。盲点だったよ……まさか煙草の匂いだけじゃなくて、香水の匂いにまで言及が入るとは」

 よほど隠したいのだろうか、わたしはもともと別の煙草を吸っていたのに、カムフラージュのためだと言って銘柄を彼のものと揃えられた。

 また、わたしと同じ銘柄にしておけば、彼がわざわざ隠して買いに行かなくてもわたしが買いに行って管理すれば済むから……という理由もある。なんにせよ、その方が彼にとって都合がいいということだ。

 まぁ、彼の吸っている煙草も悪くない味だし、もともと銘柄にこだわりがあったわけでもないし。煙草代は中主任が出してくれるし、こっちとしても別にいいんだけどね……。

 というか、むしろ感覚としてはさほど悪くない。

 じわじわと、彼の色に自分自身が染められていくようで。無意識に支配されているような感覚が、意外にもたまらなかったりする。

 こんなマゾヒズムじみたこと、絶対誰にも言わないけどね。


 小さなこの支社に勤める社員はもともと少なく、十人もいないほどの人数で回している。

 その中で喫煙者と言えば本当に輪をかけて少なくて、実際喫煙室を利用するのはわたしたち二人と、もう一人の男性だけだった。ちなみにそのもう一人は独身貴族だけど早く帰りたい性質の人で、定時になればさっさと帰ってしまう。

 夜のオフィスはほとんど人影がなく、喫煙室などこんな時間になってしまえばもう誰も来ない。窓張りのシャッターをひとたび閉められてしまえば外の様子ももう伺えないし、こちらの様子も外からは見えないだろう。

 警備員なんて雇えるほどの予算もなければ、第一この支社はさほど広いわけじゃない。戸締りするのも中主任の役目だし、ほとんど中主任が管理していると言っても過言ではない。

 そしてここは社内で唯一、監視カメラのついていない空間。

 こんな空間だとマジで何でもし放題だね、とたまに各支社を巡回に来るエリアマネージャーが笑うけれど、本当にその通りだな、と思う。

 それをうまいこと利用する中主任も、中主任だ。


「――ま、昨日も高峰の名前出して誤魔化したけどな」

 かちゃり、と鍵の閉まる音。

 まだ長めの煙草をもみ消して、彼がこちらへ近づいてくる。勿体ない、と思ったものの、よく考えたらお金を出しているのは中主任なので別にいいかと思い直し、言わないでおいた。

「またですか。……そろそろ、怪しまれません?」

 これから何が起こるかなんて既に分かり切っていて、わたしは敢えて逃げることなく、携帯型の灰皿に吸いかけだった煙草をもみ消した。

「何が」

「わたしたちの、関係……とか」

 わたしだって二十代だ。自分で言うのもなんだが、若い。十歳以上も年上の彼と渡り合うには、まだまだ子供すぎることは分かっている。

 けれど、そんなことはおくびにも出さない。相手がたとえ、こっちの心情などとっくに察していたとしても。

 あくまで余裕の顔で、自信満々に笑うのだ。

 可愛くなくたって、あざとくなくたっていい。そんなこと、彼はわたしに――高峰和葉(かずは)という人間に、望んじゃいないのだから。


 喫煙室の窓から覗く景色の中に、今日も紫陽花が綺麗に咲いている。

「関係……って?」

 ゆるりとした足取りでこちらへやってきた彼は、口に含んだままだった煙をふぅっ、とわたしの顔めがけて吐き出した。

「げほっ、……何するんです」

「ただの上司と部下、ってだけじゃなくて」

 形だけの悪態を華麗にスルーし、にやりと小さく笑った彼は、今日も紫陽花の美しい色香を遮るようにあっさりとシャッターを落とす。

 そして、ソファに座っていたわたしをゆっくりと押し倒して。

「こういうことしちゃう、関係ってこと?」

 ――誰も知らない雄の顔で、笑った。


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