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間違えた紫陽花  作者:
17/21

佳苗・その9

 明け方に子供が生まれ、その日もともと有給を取ってくれていた悠真は、尚哉と一緒にほぼ一日病院にいてくれた。

 尚哉は生まれたばかりの妹と早速対面して、目を輝かせながら

「ぼくの、妹!」

 と嬉しそうに手を伸ばしていた。

「お兄ちゃんだよ、尚哉」

 しっかりしないとなぁ、と優しく悠真に頭を撫でられ、「うんっ」と無邪気に笑った後、少しきりっとした表情を浮かべていたのが可笑しく、そして何とも言えず可愛らしかった。

 生まれた娘には、『いづみ』と名付けた。

 『イズミ』という響きにしようとは前から決めていたのだけれど、ひらがなの名前が可愛らしいなと思ったのと、どうせなら古語っぽくした方が被りづらいかなと思ったからだ。

 和風っぽい名前でしょう? と悠真に言えば、

「いいんじゃないか、女の子だし」

 と笑って答えてくれたので、きっと悠真も賛成なのだろう。そもそも反対なら何かしら意見を言ってくるだろうし。


 退院してからが大変で、覚悟はある程度していたものの、夜泣きで二時間に一度ほど起こされる日々が続いた。尚哉はそれほど夜泣きがひどい子じゃなかったので、ここまでだと少ししんどい時もある。

 専業主婦で一日家にいるから、昼間に寝られるのかというとそういうわけでもない。そこまで甘くはないのが、育児というものだ。

 ただ幸いなのが、悠真の母親やうちの母親が交代交代で家に様子を見に来てくれて、何かと手伝ってくれることだった。疲れて限界の時には尚哉といづみの面倒を全部任せて睡眠を取れるし、その点ではどちらかというと恵まれている方だと思う。

 尚哉の時のようにできるだけ母乳で育ててあげるようにしたいけれど、限界の時には母乳の質も悪くなるような気がするので、母親か義母に任せる時は粉ミルクに頼ることもある。それが一般的に見ていいのか悪いのかはわからないけれど、それが一番わたしには合っていると思うのだ。

 もちろん悠真も、育児を手伝ってくれる。

 最近は残業を早めに片付けてくれるのか、早く帰って来てくれることが前よりいくらか増えて、いづみの世話であまり手を掛けられなくなった尚哉をお風呂に入れてくれたり、いづみのおむつを仕替えてくれたりする。

 休みの日はいつもみたいに家事を手伝ってくれるだけじゃなくて、尚哉と遊んでくれたり、いづみの湯浴みをしてくれたり、ぐずるいづみを抱っこしてあやしてくれることも多くて、助かっている。

 周りの協力があるおかげで、わたしはよくある育児ノイローゼとか、産後うつとか、そういうものとは無縁で生きていられる。

 周りの環境に感謝だな、と深く感じた。


    ◆◆◆


 尚哉といづみを寝かしつけ、お風呂から上がったわたしは、テーブルに悠真の荷物が置きっぱなしになっているのを見つけた。

 テーブルの上にはタオルの詰め合わせセットが置いてあり、綺麗に開けられた封と熨斗には『出産祝い』と書かれている。

 さらに開いたままの鞄の中には、結婚式の招待状が入っていた。

「悠真」

「んー?」

 ちょうどトイレから出てきて、寝室に行こうとしていた悠真を呼び止め、わたしはなんとなしに尋ねてみた。

「これって」

「あぁ……高峰にもらった」

 ちょっと遅れたけど、ってさ。

 そう言われた時、今まで忘れていたはずの薄暗い感情が、わたしの心の奥から顔をのぞかせた。

「そう……なんだ」

「あぁ、あと結婚式の招待状も」

 はっとして、先ほど鞄の中から見えた招待状を見る。

 悠真は気を悪くした様子もなく、鞄の中から招待状を取り出し、わたしに手渡した。宛名には『中悠真様 ご一家様』と書かれている。

「来年の五月。……いづみ用にベビーベッドも誂えてくれるみたいだし、お前の体調が良さそうなら、家族みんなで出席しようと思うんだけど」

 どうかな、と小さく首を傾げられて、一瞬言葉に詰まった。

「いや、結婚式自体は、いいんだけど」

 来年の二月にも、前にプロポーズされたと言っていた友人の結婚式が控えている。それには子供たちを悠真に預けて、わたし一人で参加する予定だった。

「けど?」

「……ううん」

 ここで含みを持たせてしまっては、怪しまれる。

 ただでさえ、わたしが高峰さんに以前からいい印象を持っていないことは、悠真に感づかれているだろうに。

「いいよ、参加しよう」

 笑顔を繕ってそう言うと、悠真があからさまにホッとしたような顔をした。普段ほとんど変わらないはずの表情が明らかに変化したことに、なんだかイラっとしたけれど、産後はイライラしやすいものだから、なんて何とか自分に言い聞かせて落ち着く。

「前に、ショッピングモールで会った時一緒にいた彼氏さんだよね。お似合いだと思ってたけど、そっかぁ。ついに結婚かぁ……おめでたいわ。ぜひお祝いしなくちゃ」

 不自然に明るくなったわたしを見咎めるような顔を、彼はもしかしたらしていたのかもしれない。

 けれど今のわたしは、ようやく訪れた心の安寧を手放さないようにすることで精いっぱいだった。


 大丈夫。もうわたしはこれ以上、彼女を気にすることなんてない。だって高峰さんは、前から付き合っていた彼氏と結婚するんだから。

 彼女もちゃんと、幸せになる。それでいいじゃないか。


 だってもう、誰にも邪魔されたくないんだもの。

 わたしの――わたしたちの、平凡で小さな、ありふれた幸せを。

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