佳苗・その8
妊娠初期はつわりで少し気持ち悪かったりすることもあったけれど、それも徐々に落ち着いてきた。
そして。
「……あ」
すっかりその存在を感じるようになってきた、腹部をそっと撫でる。
「今、動いた」
新たな命を宿した下腹部は日を追うごとに少しずつ大きく膨らんできて、時折中の子供がわたしのお腹を蹴るようになった。意図しないところで――例えば買い物中の街中とかで――不意に蹴られて、ぐふっと苦しい声を上げてしまうこともしょっちゅうあるけれど、それすらも幸せな痛みだった。
「あら、本当?」
わたしの呟きが聞こえたのか、ふふ、と義母が微笑みながら、そっとわたしのお腹に触れる。
「ばぁば、どう? 動いてる?」
その様子を興味津々に見る尚哉に、「尚くんも触ってみて」と一緒に触らせてあげる義母はとても穏やかな性格で、嫁であるわたしにも優しく接してくれる。わたしが嫁いで来るときにも『娘がいなかったから、嬉しいわ』なんて言ってくれて、嫁姑としては非常に良好な関係を築けていると思う。
今日は一緒に買い物に来ている。もうすぐ生まれる二人目の子供のために、義母に買い出しを手伝ってもらっているのだ。
「予定日はいつだったかしら」
「来月の末頃だそうです」
「あら本当。楽しみねぇ。……男の子? 女の子?」
「ふふ、実はまだ聞いてないんですよ」
今回は敢えて、お医者さんから子供の性別を聞いていなかった。
「生まれてからの楽しみにしておきたくて」
「そうなの。じゃあなおのこと、待ち遠しいわ。ねぇ、尚くん」
尚哉はくりっとした大きな目を無邪気に輝かせて、
「妹かなぁ、弟かなぁ! 弟なら一緒にあそぶし、妹ならいっぱいかわいがってあげるの!」
「そっかぁ、じゃあ早く生まれてきてくれなくちゃね」
「うんっ!」
「あぁ、そういえば佳苗さん」
笑う尚哉の頭をよしよし、と撫でながら、義母が思いついたようにわたしに言う。
「予定日は、悠真に休みを取ってもらってたりするのかしら」
「あ、はい。それはもう」
予定日、悠真は有休を取ってくれると言っていた。むろん立ち合いのためだが、もちろん予定日通りに生まれるとも限らないので、そのあたりは仕方ない部分もあるけれど。
「連絡があったら仕事を抜けて来る、と言ってくれてるんです」
「あら、そうなの。……それならよかった」
あの子は父親に似て、考えが読めないところがあるからねぇ。
そう言って義母は、やれやれ、と首を横に振った。
「我が子ながら、真意がわからないわ……尚哉の時もそうだったけれど、あの子ってばそんなに諸手を挙げて喜ぶようなタイプでもないし」
「そういう人だから、好きなんです。冷静沈着で、頭が良くて。……でも、ちゃんと気遣ってくれる、優しい人ですよ」
だから結婚して後悔したことなんて、ありませんから。
「そう言ってくれるなら、私も嬉しいわ」
義母は、自分の息子をことあるごとに『何を考えているか分からない』と評する。父親である義父がもともとそういう人らしく、どうやらその性質は親子でよく似ているらしい。
義父はわたしが嫁いで来る少し前に六十代前半という若さで亡くなっているので、わたしは会ったことが一度もない。義母いわく今の悠真より輪をかけてぶっきらぼうで、感情の起伏が少なかったそうだが、それでも不器用ながらに義母や息子である悠真を気遣ってくれたという。
だから多分、生きていたら今頃わたしたちと一緒に買い物を手伝ってくれていただろう。孫に会わせてあげたかったな、と残念に思ってしまうが、過ぎたことはもう仕方がない。
「さぁ、買い物も終わったし帰りましょう。佳苗さんも疲れたでしょう」
「すみません、何から何まで」
「いいのよ。……駐車場は確かこっちね」
「はい」
長時間歩いたことで疲れたらしく、少しぐずり出してしまった尚哉を抱え、義母は明るく言ってくれる。今日も妊娠中で運転できないわたしの代わりに車を出してくれたし、体調が安定しなかった頃も食事を作りに来てくれたりと、本当に義母には良くしてもらっている。
わたしは恵まれているな、と改めて幸せを噛み締めた。
◆◆◆
予定日の前日、夕方頃に破水した。
体調が良かったので夕飯を作ろうと準備を始めたところで、下腹部あたりでパンっと風船の割れるような音がして、陣痛がやってきたのだ。一度経験しているといえ、やはり痛みが激しく、思わずうずくまってしまった。
念のためと数日前からうちに来てくれていた義母が救急車を呼び、そのあと悠真やわたしの親に連絡を入れてくれて、わたしはそのまま義母に付き添われて病院に行くことになった。
尚哉は義母に抱かれ、額に汗をにじませ痛みに耐えるわたしにおろおろしたような顔をしていた。「ママ、死んじゃう?」なんて義母に聞いていて、何度も「大丈夫よ」と宥められている。
集中治療室に運ばれて、集まった家族が外で待つ中、強まったり引いたりを繰り返す陣痛に耐える。ようやく、出産だ。
看護師さんが見守る中、立ち会いに間に合った悠真の手を強く握り、わたしはぐっと歯を食いしばった。ラマーズ法だったか、約四年ぶりの特徴的な呼吸を繰り返し、痛みに耐えて出産に臨む。
そして、明け方頃だっただろうか。
意識が朦朧とする中、ふっと痛みが楽になり、急に体が軽くなったような感覚があった。鳴き声が耳に届いて、あぁ、と心の底から安堵する。
「おめでとうございます」
生まれたばかりの我が子を抱え、看護師さんがわたしに笑いかけた。
「元気な、女の子ですよ」
嬉しさのあまり、悠真の方を向く。握った手はそのままに、汗のにじんだ額をそっと撫でながら
「お疲れ様」
柔らかな声でそう言って、悠真は微笑んでくれた。




