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間違えた紫陽花  作者:
14/21

和葉・その7

 中主任が、煙草を吸いながら誰かと電話をしていた。

 いつもと違う砕けたような、気さくな話し方からして、相手は仲のいい同僚とか可愛がっている後輩とか、そんなところだろう。

 気にせず中に入っていこうとしたら、ドアの隙間から少しだけ、話している声が漏れ聞こえてきた。茶化すように告げられたその内容に思わず、手を止める。

「……うちはお前みたいに、子供がお腹蹴ったのを確認して喜んだりするために、それを楽しみに早く帰るとか、そういうことはないから」

 その一言でまず、相手は中主任がことさら可愛がっている他部署の後輩・佐久間(さくま)さんだろうと確信した。

 佐久間さんは去年結婚したばかりで――社内報に、ちょうど彼の結婚式の模様が載ったため、誰もがよく知っていることだった――奥さんは現在妊娠しているという。予定日は確か三ヶ月後だと、中主任がどこか嬉しそうな様子で言っていた。

「あぁ、最近嫁はちょっと体調悪そうにしてる日もあるかな……まぁ、こればかりは仕方ないから、何もしてやれないし」

 その流れで何となく、わたしは察してしまった。

 中主任の奥さんもきっと、最近二人目を妊娠したんだと。

「……幸せだよ」

 ポツリと押し殺すような声に、きゅうっと胸が痛んだ。

 けどこれは決して嫉妬とか、そういうことじゃない。そんな感情を抱くのは今更、間違っている。

「幸せで、あるべきなんだよ」

 そうでなければ、ならないはずだ。

「幸せでなくちゃ……ならないんだよ。俺たちは」

 続いた声は、ひどく弱々しくて。普段中主任が、わたしにすら告げることのない、心からの叫びのようにも聞こえてしまって。

 同じく煙草を吸おうとしてこの場所に来たはずだったのだけれど、わたしはそっとドアを閉めて、そのまま踵を返した。


 普段、中主任がわたしを抱くことはそんなに頻繁にあるわけではない。

 彼にとっては奥さんとの営みもあることだし、本当に残業が長引いてしまった日はお互いに疲れているので、そのまま帰ることもある。せいぜい、週に一度あるかないかといったところだった。

 前回は、三日ほど前にしたところだ。だから、まだ当分彼がわたしを欲することはないと思っていた。

 けどその日、いつもより不自然なほど早めの時間に仕事を終わらせた彼は、どこか急ぐようにわたしを呼んで。

「……っ、あたり、しゅにん……?」

「黙って」

 余計なことは、言わないで。

 そう言って、感情の全てを吐き出すように激しく、しかもいつもより長めに。互いの体温を感じ合うかのようにじっくりと、わたしを抱いたのだった。


    ◆◆◆


 プロポーズされた日から、利津には会っていない。

 ようやく打ち明けたわたしの秘密を――ずっと後ろめたくて言えなかったわたしの真実を受け止め、利津はそれでも良いと言ってくれた。

 利津がそれでいいならと、『仮』としてプロポーズをOKすることにした。

 けれどどうしても、最後の覚悟までは決まらなかった。だから受け取った指輪も、まだ身につけられてはいない。

 だって、利津は良くたって、彼の両親は反対するかもしれない。

 会ったことがないわけじゃないけれど、当然このことを知らないままに今までわたしと接してくれていたのだ。もし知ったら、軽蔑されるかもしれない。優しかった顔が一気に強張って、般若のように変化するかもしれない。わたしのような嫁は、いらないと言われてしまうかもしれない。

 ――わたしが、子供を産めない身体だと知ったら。


 わたしが高校を卒業するのが一年遅れたのは、在学中に子宮の病気が発覚したからだ。治療のために一年近く入院し、当然だがその結果留年することになった。

 何度か手術をし、幸い完治はしたものの、その代償としてわたしは一生子供を産むことができなくなった。

 両親――特に母親は悲しんだが、当時のわたしは意外と冷静に、その事実を受け止めた。心が痛まなかったと言えば嘘になるのかもしれないが、単純に高校生だったわたしには、それがどういうことなのかあまりピンと来ていなかったのだ。

 けれど今になって、このことが足枷になるなんて思わなかった。

 中主任にも言っていないから、当然このことは知らない。行為の時は毎回律儀にゴムを用意してくれていたけれど、本当はそんなものなくたって、わたしが子供を身ごもる心配など最初からなかったのだ。

 まぁ感染症の心配もあることだし、中に出されるとシンプルに後処理が面倒だから、わたしとしても素直にゴムをしてくれた方が安心なんだけどね……。


 中主任の奥さんが妊娠しているらしいことを知った時、嫉妬のような感情が心を駆け巡ったのは、多分奥さんに対してだ。

 中主任と当然のように一緒にいられるからとか、そういうことではなくて。……いや、少しはそういう感情もあったかもしれないけれど、それだけじゃなくて。

 好きな人と恋愛して結婚できるだけじゃなくて、その子供を産んで育てられるという、普通の女としての喜びを享受できることに。

 わたしは普通の恋愛感情も持ち合わせていなければ、子供を産む機能すら備わっていない。

 出来損ないだと言われているようで、怖くて。悔しかった。


 携帯を見ると、利津からの不在着信とメッセージがあった。

 通知文から確認できるメッセージには、『今度、うちの家族と改めて会ってくれませんか』と記されている。

 ――もう、覚悟を決めようか。

 利津の両親に、ありのままを全部話してしまおう。

 このことで利津を失うのなら、それでもいっそ構わないのかもしれない。一生結婚できず一人ぼっちになっても、それならそれでいいじゃないか。

 分かった、いつにする? と利津へのメッセージに返事を記す。

 頬に伝う涙を無視して、そっと目を閉じた。

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