佳苗・その6
まぁ、夫婦なのだから夜の営みくらいはあって当然というもので。
特にわたしがそろそろ二人目の子供が欲しいと悠真に打ち明けて以来は、それなりに週に一度くらい――特に、悠真が仕事休みの日の前日とか――尚哉が寝てしまった後の夜中に、ひっそりと抱いてもらうのが日常だ。
とはいえ、まだ尚哉には一人寝をさせられないので、同じ部屋で眠る尚哉を起こさないように……という配慮があって、なかなか思う存分はできないのだけれど。
まぁ、尚哉は幸い寝つきがいいので、その点においては助かっている。もう夜泣きをする年齢はとっくに過ぎたし、なかなか夜中に起きてくることはない。
さて。二人目が欲しいとは言っているものの、次に子供が生まれたとしたら、そう上手くいくかどうか……一抹の心配はあれど、一度経験してしまっているから意外と大したことはないのかもしれない。
悠真の横でまどろみながら、お腹の奥に放たれた彼の熱を感じ、じんわりと幸せな気持ちに浸る。
「できてるかなぁ、次は」
「まぁ、別に急ぐものでもないんじゃない」
授かりものなんだから、気軽に待とう。
そう言ってわたしの髪を撫でてくれる悠真の手に、わたしは「そうだね」と溶けそうな声で答え、そっとすり寄る。
幸せだ、と心から思える。
「明日は、どこかに出かける?」
「市街のショッピングモールに行きたいな。そこで昼からヒーローショーがあるらしくて、尚哉がすごく楽しみにしてるの。わたしも、買い物したいしちょうどいいかなって」
「分かったよ、じゃあ十時には出よう」
「うん」
おやすみ、と低く囁かれる声に、わたしはうっすらと笑って目を閉じた。
◆◆◆
「ライダー、かっこよかった!!」
あくしゅしてくれたの、と嬉しそうにはしゃぐ尚哉を抱きかかえ、
「よかったね」
と悠真が優しく頭を撫でてあげている。
今回のヒーローショーは大好きなライダーが出るということで、尚哉は一週間近く前からずっと楽しみにしていた。握手会のような触れ合いもあったらしく、先ほどからずっと興奮している。
今日は良く寝ついてくれそうだな、と思いながら、わたしは今日買いたいもののリストを頭の中に浮かべながら、次にどこへ行くかを考えていた。
……と、その前に。
「そろそろ、お昼ご飯にしようか?」
「おなかすいたぁ」
「そうだね。どっかレストラン街でも行くか」
腹ごしらえはやっぱり大事だ。
今は尚哉も上機嫌だが、空腹に思考がシフトチェンジするとたちまち不機嫌になってぐずってしまうだろう。そうなる前に、買い物へ行くより先にご飯を食べてしまう方がいい。
わたしも少し、お腹が空いてきたし。
何食べたい? と話しながら歩いていると、向かいから一組のカップルが歩いてくるのが見えた。
わたしとそんなに変わらないくらいの歳の男女が、手を繋いだり腕を組んだりまではしていないものの、それなりに近い距離で仲睦まじく話している。二人の左手首にはお揃いの腕時計が付けられていて、それだけで関係性が分かってしまい、非常に微笑ましかった。
いいなぁ、わたし達にもあんな時代があったなぁ……なんて眺めていたら、そちらに目をやった悠真が「あっ」と小さく声を上げた。
向こうも気づいたらしく、女性の方がこちらへ手を振ってくる。
「あっ、中主任~。奇遇ですね」
朗らかに笑いかけてくる女性の顔を見て、わたしは思わずどきりとする。
「高峰」
親しげに微笑んだ悠真の声に、胸が苦しくなった。
「お買い物ですか?」
「ここで今日ヒーローショーがあってさ。子供が見たがってたのと、ついでに嫁が買い物したいって言うから」
「あぁ、だから子供連れの人が多かったんですね」
ふふ、と落ち着いた調子で彼女が笑う。先ほど一瞬だけ見せた無邪気さとのギャップが、きっとこの子の魅力なんだろうなぁ……となんとなく思った。
「ほら、尚哉。挨拶して」
抱っこされながら不思議そうに高峰さんを見ていた尚哉に、悠真が優しく声を掛ける。父親が親しげに話している人だから警戒しなくても大丈夫と思ったのだろう、おずおずと彼女のセットされた髪に手を伸ばしていた尚哉は、途端ににっこりと笑った。
「こんにちは!」
「こんにちは。尚哉くん、だっけ?」
「うん! お姉さんは?」
「わたしは、和葉よ」
「かずはお姉ちゃん?」
「そう、和葉。こっちのお兄ちゃんは、利津」
高峰さんの隣にいた男の子も、にっこりと尚哉に笑いかける。高峰さんに比べて彼は割と子供慣れしているのだろうか、よしよしと慣れた手つきで尚哉の頭を撫でてあげていた。
「かずはお姉ちゃんと、りつお兄ちゃん!」
相変わらず上機嫌らしく、きゃっきゃと嬉しそうに笑っている。そんな尚哉を見て、高峰さんたちは微笑ましげに目を細めた。
「パパは、和葉お姉ちゃんとなかよし?」
無邪気に尋ねる尚哉。その他意など一切ないはずの言葉に、急にひやりと冷水を浴びせかけられたかのように心が冷えた。
「んー? まぁ、一緒にお仕事してるからね。それなりじゃないか?」
「それなり、って」
悠真の答えに、高峰さんは可笑しそうに笑った。
「それなり?」
「ほら、尚哉くんが首傾げてるじゃないですか」
「気にすんな。いずれ覚える」
「適当ですね」
あははっ、と冗談交じりに笑い合う。わたしや尚哉と一緒にいる時にはほとんど見せない類の笑い方だ。
「やっぱり、なかよし?」
そんな二人を見て、尚哉は大きな目をくりくりとさせた。
「何でそう思うの?」
耐えきれなくて、口を挟む。尚哉はわたしを見て、素直に答えた。
「だって和葉お姉ちゃん、パパとおんなじ匂いがする」
その答えに、またどきっとしてしまう。
「えー、ほんと?」
自分の袖に鼻を埋めながら、高峰さんが隣の男の子に尋ねる。「そこまでわかんないよ」と男の子は困ったように笑って答えた。
「もしかしたら、お洗濯の時に使う洗剤が同じなのかもしれないね。それか……煙草の匂いか」
ぴくり、と自分の眉が動いたのが分かる。
悠真は表情を一切変えなかったから、何を考えているか読み取れなかったけれど、高峰さんは一瞬しまった、という顔をした――ような気がした。
「中主任、お煙草は吸われないんですけど、よく喫煙室には来られるんです。休憩中片手間に世間話をしたり、仕事の話をしたり……それで、匂いが移ってしまうのかもしれないです」
それはわたしに対する言い訳にも聞こえたけれど、その実もしかしたら隣で少し心配そうな顔をしている男の子に対する――彼氏に対する、弁解なのかもしれなかった。
「わたしは、煙草吸うので……あの、奥さんが嫌煙家だというのは聞いているので。ご不快に思っておられたら、ごめんなさい」
わたしの方でも、中主任の匂いには気を付けますね。
ぺこり、と存外素直に頭を下げられた。悪いことをしたわけじゃないんだけど、勝手に罪悪感が芽生えてしまう。
「あ、いいえ。その……こちらこそごめんなさいね。気を遣わせてしまって」
わたしも思わず頭を下げる。
わたしと高峰さんが謎に頭を下げ合う様子を、尚哉が不思議そうに見ていた……というのは、後で悠真から聞いたことだ。




