佳苗・その1
のんびり新連載。
賛否両論ありそうな、見る人によって感想が異なりそうな、そんなお話になる予定です。
我が夫・悠真の様子が最近おかしい。……気がする。
仕事が忙しく帰りが遅いのはいつものことで、それが専業主婦であるわたしや、まだ幼い息子を養ってくれているためだということはもちろん理解しているし、感謝もしている。
特に社内での昇格があったらしいここ一年ほどは、今まで以上に仕事量が増えたみたいで、日付を回ってから帰ってくる日も少なくない。その代わりどれだけ遅くに帰ってきても家事を手伝ってくれるし、休みの日は家族サービスもしてくれるので、ありがたいのだけれど。
「パパ、今日もおそい?」
「そうね……先におねんねしてようね、尚哉」
「えー。かえってくるまでおきてる」
「だーめ。明日はパパお休みだから、我慢しよう? 早く寝て、その分明日早く起きないと、パパにいっぱい遊んでもらえなくなるよ?」
「うー……わかった、がまんする」
「いい子。じゃあおやすみね」
「おやすみ、ママ」
けど……特に最近、それにしたって帰りがあまりに遅すぎやしないか、と。
思わず勘ぐってしまう自分の感情も、否めないわけで。
浮気の言い訳の常套句ともいえる、『残業』というのが嘘だという証拠は残念ながらない。
ちなみに一度、夜ものすごく遅かった日に実際怪しく思って会社まで行ったことがあるけれど、悠真は本当に仕事をしていた。
『あれ、佳苗。……どうした?』
その日会社内にいるはずのないわたしの姿を見て、缶珈琲片手に疲れた顔を綻ばせた彼が不思議そうに小さく首を傾げたのに、ものすごく毒気を抜かれたことは言うまでもない。
結婚して専業主婦になるまでは、わたしも悠真と同じ仕事をしていた。……というか、悠真と同じ職場にいた。だから彼の業種に関する事情や、仕事の内容などについてはある程度理解しているつもりだ。
だからこそその大変さも、責任だってちゃんと分かっている。そういうことを理解し、受け入れるのも妻の役目だ。
頭ではそう、分かっている。
そう。自分ではちゃんと分かっている、つもりなのだ。
当然だが、隠し事をしているとも思えない。
悠真は煙草を吸わないし、酒に弱い。飲み会に行くことだってめったにないし、参加したとしても――独身時代は割と羽目を外してしまっていたらしいが――結婚してからは早めに切り上げて帰って来てくれる。
そういう日は特に煙草の匂いが気になるけれど、どうやら周りに喫煙者が多いみたいで、どうしても匂いがついてしまうらしい。彼自身、結婚する前は喫煙者だったので――わたしが結婚を機にきっぱりと止めさせたのだ――正直それに関して無頓着なところがあるのは否めない。
……まぁ、これに関しては嫌煙家であるわたしが敏感すぎるのも悪いので、多少は目を瞑ることにしようと思う。
友人にたまに言われるし自覚もしているのだが、わたしは少し嫉妬深くてめんどくさいところがある。
それを悠真も分かっているのだろう、携帯電話を見てもいいと許可を結婚前にもらっている。なのでメッセージのやり取りや写真などを――企業秘密になってしまうところはさすがに除いて――週に何度か全て見せてもらうのだが、女子社員とのメッセージ記録はあっても仕事のことや当たり障りのない雑談ばかりで、今のところ怪しいやり取りは微塵もない。
まぁ、誰に対しても人当たりは良いから……と自分に言い聞かせても、ちょっと仲良さそうだったりわたしに理解できない内容だったりすると、少し嫉妬することはあるのだけれど。
だって、悠真は嘘を吐かない。
喜怒哀楽に乏しいけれどいつだって正直で、わたしや息子にありったけの愛情をたっぷりと与えてくれている。言葉の節々や、時折触れてくれるあたたかな手から、ありありとそれを感じている。
無邪気に駆け寄る尚哉を軽々と抱き上げ、愛おしそうに頭を撫でる手つきだって。尚哉が一生懸命に話す内容に耳を傾け、しっかりと相槌を打つ様子だって。
そろそろ二人目の子供が欲しいと零したわたしを気にかけ、時間がある日ならばどれだけ疲れていてもちゃんと真摯に協力してくれようとする姿勢だって。
そんな彼を疑うことが、どうしてできようか。
……いや、でも。
「ただいま」
「お帰りなさい」
今日も日をまたぐギリギリの時間に帰ってきた悠真から、くたびれたスーツの上着と鞄を受け取る。
「尚哉は……もう寝たよなぁ」
「帰ってくるまで起きてる! って張り切ってたんだけどね」
「そっか。悪いことしたな」
「明日たくさん遊んであげて」
「そうだな」
ふわりと漂う僅かな煙草の匂いと――知らない女性みたいな、甘い匂い。
「最近この匂い、すること多いけど……香水つけてる子でもいるの?」
「香水? ……あぁ」
すぐには思い当たらなかったのか、しばし考えるような仕草をした後、ふ、と何かに気づいたように彼は小さく笑って。
「そういえば高峰が、煙草の匂い消すのに香水使ってるんだよ。結構強い匂いだから……それがちょっとかかるか、移るかしちゃうんじゃないかな」
「……そう」
喫煙者だという話題で、よく出て来る高峰さんという女性。
女性なのに煙草を吸うなんて……と、差別じみたことを思わないわけではない。性格悪くはなりたくないけど、そこまでわたしも聖人じゃない。
最近その名前を悠真の口から聞くたびに、もやもやと言い表せない気持ちが胸を占めるのも事実だった。
だって、最初は『高峰さん』って他人行儀で呼んでたのに。
頻繁に人の名前を呼ぶことは、あまり得意じゃないはずだ。現にわたしの名前だって、めったに呼んでくれない。それなのに。
仕事上、関わることは仕方ないことも分かってる。だから不用意に高峰さんと話さないで、とかそんな我が儘を言えるわけがなかった。
「気になる?」
「ううん……別に」
悠真はわたしが嫌だと言えば、多少不可能なことでもどうにかして叶えてくれようとするだろう。けれどそこまで縛り付けて、悠真に嫌われたり、愛想尽かされたりするのはもっと嫌だった。
ただでさえ、歳の差があるのだ。正直言うと、かなり引け目を感じている。つまんない嫉妬をぶつけて、彼に子供っぽいと思われたくない。
けれど悠真は頭がいい。だからわたしの態度で、何かを察したんだろう。
「ごめんな」
ぽんぽん、とあやすように頭を叩かれる。出会った頃から大好きな、あったかくて大きな手。
「……そう思うなら、ぎゅってしてよ」
けれどわたしは、抱きしめられる方が好きだ。
だって頭を撫でるなんて、どの子にもしてる。昔からそうだったんだもの、知ってるんだから。
だったらハグとかキスとか、そういう愛情表現を込めたことを。わたしにしかしないことを、して欲しいと思うのは。
彼の唯一の存在である、妻としては贅沢なことなのだろうか。
我が儘を、言ってしまっているだろうか。
「……はいはい」
いつもより、低い声でそう囁いて。
ふんわりと抱きしめられた温かさに、わたしはようやく落ち着いた。
――だってこの甘さはきっと、わたしだけのものなんだもの。わたしは悠真の妻なんだから、それくらい強請ったっていいでしょう?
彼の肩あたりにぐりぐり、と顔を擦り付けると、クスリ、と喉奥で愛おしそうに笑う声が聞こえた。
「なーに」
痛いんだけど? と甘く囁かれ、慈しむように優しく頭を撫でられる。
それが嬉しくて、くふり、とわたしも小さく笑った。