黒猫お嬢様とネズミ執事4ー猫のごはんー
ある日、黒猫お嬢様がたわむれに執事の唇を舐めようとします。
「いけません!」
「ええっ。どんな味がするのか気になるのよ」
黒猫お嬢様が頬を膨らませます。
執事を仰向けにベッドに寝させて、その上にぬくぬくと寝そべって、髪をいじって遊んでいたのですが、危険を察した執事が身体を起こし、お嬢様を転がしてしまいました。
「何をするのよ!」
お嬢様はますます頬を膨らませて、どんぐりを口いっぱいに詰め込んだリスのようです。
猫なのですけど。
変な想像をしてしまった執事はさりげなく自分の口元を押さえ、もう片手で、引っ掻いてこようとした黒猫お嬢様の手首を掴みました。
「17歳の結婚式の時に初めて口付けをする、これは猫人様の決まりでしょう?」
「もう夫婦なのだからいいじゃない」
「お互いの首を噛まない誓いをした婚約者であれ、口へのキスは17歳との決まりが……」
「お約束は破るためにあるのだわ!」
……執事は目を細めました。
「それだけは言ってはいけません」
黒猫お嬢様の首を撫でます。
首輪の下部につけられた赤い跡は、
「首を噛まない猫人様の婚姻の伝統。私はとても、とても嬉しかったのですよ。だからどうか、誓いを破るなんて言わないで」
「……ごめんなさい」
お嬢様はしゅんと、ふさふさの黒猫耳を伏せて謝りました。
癇癪を起こしたとしても、これはだめです。反省しました。
執事の声は切実な懇願でしたので、罪悪感で涙が溢れました。
「もう言わないわ」
「ありがとうございます」
執事は涙を舌ですくい取ります。
瞳の色を映した黄金の涙が、色を失ってしまわないうちに、素早く。
口の中で転がして、うっとりと目元を柔らげました。
「でも私、変わったことや面白いことが好きなの。どう表現すればいいのかしら?」
「では……常識を覆す、というのはどうでしょう」
「それだわ!」
私のネズミは優秀よ、と黒猫お嬢様が手を取り踊り始めます。
くるくる。猫とネズミが室内でダンスをしました。
食事の時間になり、食卓を共にします。
執事は黒猫お嬢様に配膳すると、自分もテーブルに着きました。
お嬢様が食べるのをじっと眺めていて、「もういらないわ」と言われたらその食べ残しを頂きます。
主人と使用人の決まりごとです。
「ネズミはなんでも食べるのね」
今度はお嬢様が興味深そうに執事を眺めます。じーーっと。
ほうれん草とベーコンのソテー、野豚のハンバーグ、木の実ケーキに苺ソースをかけたもの、チーズ。魚はお嬢様の大好物なのでここにはありません。
執事はお嬢様を見つめ返そうか、食事を進めようか悩みましたが、これまでの食事経験を生かして、手元を見ないままお嬢様を眺めて料理を口に運びます。根性です。
何が口に入るのか、予想外なのでしょう。ネズミの耳がぴくぴくと動きます。
「野菜だと思ったらお肉だったのかしら……?」
「おっしゃる通りです」
ごくん、と飲み込んでから執事が答えます。
お嬢様がくすくすと笑います。
料理がたくさん残っていましたが、執事はぺろりと完食。
お嬢様は気を使ってたくさん食べ残すわけではなく、もともと主食をあまり食べず、間食が多いのです。
今も、窓辺に走って行って蝶々を捕まえるとパクッと食べてしまいました。
透き通る黄色の蝶々ははちみつの味がしたそうです。
執事の元に舞い戻りました。
執事が見惚れます。
「ねぇ! 同じようなものを食べているのだから、キスをした時、お互いの唇の味は同じなのではないかしら?」
お嬢様の言葉に、執事が咳き込みました。
明確にイメージしてしまったのです。
目の前で微笑むピンク色の唇と口付けること。
「セルネリアン。食事をしながら、私とキスすることを考えたりしていたかしら?」
追撃です。なんてひどい。
執事は正直に白状するしかありません。
「……何度も」
頭を下げた執事の顎をクイっと持ち上げて、
「そして恋におちたの?」
「一因ではあるかもしれません」
答えを聞いた黒猫お嬢様はニコッと笑います。
鋭い牙が覗きました。
黄金の瞳がキラキラ。
「リーゼルダ……」
机に乗ってはいけません、という注意は執事の口の中で消えてしまいました。
美しい光景に心を奪われています。
「他のネズミも、主人の食べ残しを口にしながら恋におちているのかしら? 気になるわ! 私、ネズミとの恋の話をする相手が欲しかったの!」
「リーゼルダお嬢様」
執事が厳しい声でお嬢様を呼びました。
脇に手を入れられて、ひょいと机から降ろされたお嬢様は、叱られる前に執事の手を取ります。
ちゅう!
「ネズミがこんなに可愛いってこと、語りたいもの」
丸い耳を赤く染めた執事は、黙ってお嬢様についていくしかありませんでした。
足取りはふらふらと夢を見ているよう。
*
中庭に使用人たちが10人ほど集められました。
全員、身体をこわばらせて震えています。
「食べたりしないわよ。約束するわ」
黒猫お嬢様がそう言い、少しだけ空気が明るくなりましたが、本題はそこではありません。
どのような理由で呼び出されたのか、まだ聞いていないのです。
他の猫の専属執事・メイドであるネズミたちが「ちょこっとだけ貸して!」と黒猫お嬢様に呼び出される理由とはなんでしょう?
怖いに決まっています。
執事セルネリアンはお嬢様を止めなかったことを後悔しました。
「あのね。あなたたちは、主人の食べ残しを口にしてキスの味を考えたことはあるかしら?」
ネズミたちの心は阿鼻叫喚の地獄絵図です。
はい、なんて答えるのは主人へのとんでもない侮辱。ありえません。
いいえ、と答えても黒猫お嬢様が不機嫌になるかもしれません。
「恐れ多くて考えたこともありませんでした、とみんなの顔が語っていますよ」
セルネリアンが助け舟を出しました。
ネズミたちが彼に盛大に感謝します。
「なんですって! でもセルネリアンは私に恋をしたじゃない?」
「不敬なドブネズミで誠に申し訳ございません」
「私の番の評価を勝手に下げるのはやめてちょうだい!」
ここにきて、お嬢様はセルネリアンを初めて「番」と呼びました。
セルネリアンは後できっと壁を殴ってこの衝撃に一人耐えるのでしょう。
執事が謝り、お嬢様が許し、いちゃいちゃするのを目の当たりにしたネズミたちは(なんなんだこれは)と半眼で呆れかえっていました。迷惑です。本当に。
巻き込まないで欲しかった、と後でこっそり愚痴を言いましょう。
「本当に恋をしていないかしら?」
お嬢様が往生際悪く、ネズミたちの顔をじーっと覗き込んでいきました。
あなたの主人はシャムミファー、あなたの主人はロウルガイナ、と名前を呼んで、ネズミの瞳孔が細くなるのか見極めています。
好奇心が悪い方向に向いたお遊びです。
「お嬢様。……リーゼルダお嬢様。リーゼ!」
遊びに夢中になっていたお嬢様を執事が何度も呼びました。ビクリ! とお嬢様が毛を逆だたせて振り返ります。
「他のネズミをそのように見つめてはいやです」
執事は黒猫お嬢様を攫うように横抱きすると、つかつか歩き出しました。
「借りた使用人を解放してあげて下さい」と言ったので、お嬢様が「もう帰っていいわ。ありがとう」とネズミたちに手を振ります。
ネズミからはセルネリアンの背中から生えたお嬢様の腕しか見えていませんでしたけれど、この時、なんとも可愛らしく頬を染めていたのです。
見上げたセルネリアンの瞳が恋に燃えていましたので。
ろくでもないお遊びに付き合わされたネズミたちは疲労して業務に戻りました。
王族血筋の黒猫お嬢様が「楽しかったわ!」と各主人たちに伝えていたので、使用人の評価が上がったところは良かったようです。
部屋に帰った黒猫お嬢様と執事はたっぷり戯れました。
灰色のドレスに着替えると、黒いリボンを気ままに飾っていきます。
執事がリボンを結ぶ手と、黒猫お嬢様がひらめくリボンを追いかけた手がたまたま触れ合いました。
照れてはにかむように微笑む黒猫お嬢様があまりに愛おしくて、執事は(私も、この幸せを語り合うネズミがいてほしいかもしれない)と考えました。
外が暗くなり、黒猫お嬢様が瞳を閉じると、今日の業務はおしまい。
「おやすみなさいませ。リーゼルダ」
「おやすみなさい。一緒に夜を過ごせたらいいのに。あなたはいい香りであたたかいから、くっ付いていると心地いいの。早く17歳になりたいわ……セルネリアン」
天蓋のカーテンが二人を柔らかく分けました。
セルネリアンは甘い余韻を胸に、先ほどお嬢様の唇が触れた手の甲をそっと撫でました。