ちっぽけな恋愛観
――あなたは、 が嫌いなのですね。
◆
地を動物が駆け、川を魚が泳ぎ、空を鳥が飛ぶ。そんなのどかな村で、少年は一人馬の世話をしていた。
「よいよい、怯えずとも。僕はお前たちに手を出さぬ」
その日、初めて小屋に来た子馬が一頭。少年に怯え、触れる手を、覗く目を、頻りに警戒し近寄らせようとしない。
「これは参った。余程酷い仕打ちを受けたのだろうか」
物心ついた時から馬の世話をしておった少年は、こういった事例に出会うのが初めてではない。しかし、いつもいつも苦労はする。
此度、小屋を訪れた馬は、この国を取り仕切る王族に切って捨てられたものである。騎馬として活躍しうる可能性を持って育てられていたが、実は馬の足には生まれつき、傷があった。
これでは騎馬として使えない。そうして島流しにされ、この村に運ばれてきた。
騎馬として使えないのなら、愛玩動物として城にでも置いてやればよかろう。このように毛並みも良いのに。少年は、嫌いな王家のことを思い、顔をしかめる。
「まったく、心に余裕が無いのか王族は。このような始末では、いずれ近隣の国との均衡も崩れよう」
もし戦争が再び起きたとすれば、この村も当然戦火に包まれる。そうならないことを祈るのみだ。
数日して、少年の嫌いな王族が村を訪れた。馬が少年に慣れ始め、心を打ち解け始めた頃のことである。
「此度は何用か」
まっすぐ馬小屋に向かってくる騎士の集団を前に少年は、通さぬ意思を顕わにする。
彼らが馬小屋に向かってくる理由、当然馬でしかないだろう。少年にとって馬は家族も同然の存在だ。その家族に手を出そうとしているのならば、それを断じて許しはしない。
「――――」
騎士に囲まれる馬車より出でたのは、見目麗しい幼姫君であった。この国の王女、少年の嫌いな王族だ。
「王女様とお見受けします。このような辺鄙な村の馬小屋に、どのような目的で参られたのですか」
少年の問いかけに、王女は悲しげな表情を浮かべ、
「……いえ、今さら何をしようとも思いません。ただ一目、あの子の姿を見せてはくださいませんか、少年」
不覚にも、今にも涙を浮かべそうなその表情に鼓動が早くなるのを自覚してしまう。呆気に取られた少年は、王女の歩みを止めることはできなかった。
王女の足は、まっすぐに例の子馬へと向かっていく。ああ、なんと心得のない無遠慮さか。きっと王女は子馬に拒絶されるに違いない。そう少年は思っていた。
しかし、
「……ごめんなさい」
謝りながら触れる王女を、子馬は拒絶などせず、むしろ受け入れていた。この手の中が自分の居場所だと言わんばかりに、王女に身を寄せる。
その光景を、貧相な馬小屋であることすら忘れ、美しいと思ってしまった。
少しして、王女は子馬から離れた。
「……感謝します。同時に、突然の訪問をお許しください」
「ああ、いえ、……お尋ねしたいのですが。あの馬は、なぜここへ連れてこられたのですか?」
少年の問いかけに、王女は足を止め、振り返り、
「……あなたのような者に預けるのが、あの子のためになるからです」
そう一言。王女は騎士に囲まれ、村を去った。
これが、少年と王女の初めての出会いであった。
◆
時は経ち、十年後。
国は半ば崩壊しかけていた。それは王族への反乱を誓った者たちが起こした内紛が原因である。戦場は、王城を中心とした城下町一帯。幸いにも、少年が――今では青年だが――が暮らすこの村に戦火は飛び火していなかった。
「だが、それも長くは続かないだろうか」
次第に激しくなっていく戦争は、いずれこの国を呑むであろう。今のうちに村を捨て、逃げの一手を打つのが聡明ではある。
その決断を下せるのは、村長だけだ。
しかし、村長はこの村を捨てる気は無いと言う。村長に恩はあるが、このままみすみすしに行くのもごめんだ。
「せめて、馬だけでも逃がしてやりたいものだ……」
この十年ですっかり老いぼれてしまった子馬の頭をなでる。青年が見てきた馬は、すでに寿命で、もしくは新たな主人の下へ、去ってしまった。この一頭が、青年が見る最後の馬である。
……青年は、ある決断をする。
「逃げよう、僕と共に。できることならば、この国の外まで」
深夜になり、青年は馬の背に乗り村を飛び出した。老いぼれてはいるがまだまだ現役、青年を乗せ走っているのだが、その足取りに不確かなものはない。
「遠くへ、遠くへ――」
あの村に、家族と呼べる者はいない。親しい者たちであれば何人もいたが、血の繋がった家族は幼い頃に全員死んでしまったのだ。
ああ、それでも。
自分の面倒を見てくれた村長を、あの村を裏切る行為をしてしまった自分を許せず、嫌いになりそうだ。
しばらく走り、休憩を取っていた。村を出る際にこさえた食料を食べ、それを馬にも与えてやる。
そんなところに、白い馬が現れた。
「……は?」
それは唐突で、しかし必然のようにも思えて。その馬は、見事な毛並みの上に血痕を乗せていた。
暗くて見えなかったが、その背には人が乗っている。
「おい、しっかりしろ」
どうにかして引きずりおろし、その顔を覗いて驚く。なんとその人は、この国の王女であったからだ。
なぜここに王女が。いいや、その答えを考えるのは後だ。怪我をしているらしいのだから、手当てをせねばならない。
「お前も怪我をしているな。見せよ」
白馬に声をかけ、その腹に刺さった矢を見て思わず呻く。
おおよそ理解した。王女は、逃がされたのだ。反乱軍に殺される前にと、馬で駆けて来た。道中襲われることもあったのだろう。ともかく、ここまでよく逃げて来たものだ。
手当てを終え、しばらくすると王女が目覚めた。白馬の手当ての途中であったが、青年はそれに気付く。
「お目覚めになりましたか、王女様。随分と成長なされたようで」
「……うん? あなたは……――、っ!」
王女の目が、青年の連れていた馬を捉えた。
次第にその目には、涙が溢れていく。
「ああ、ああ……! まさか再会できようとは思いませんでした。あなたはまだ、生きていたのですね……! であれば、もしや」
王女の目が、次は青年を向いたのに気付き、
「ええ、馬小屋の担い手です」
こうして、二人は再会を果たすこととなる。
◆
さらに二ヶ月。
逃げ続け、二人はいよいよ国を出ようとしていた。ここを出れば、戻ることはなくなるだろうと感じながら、すでに決断したのだとその国境を越えた。
「あなたと逃げ続け早二ヶ月……早いものですね」
王女が感慨深げに呟くと、白馬が低く嘶いた。
「これで、私の嫌いなこの国とも、お別れです」
「あなたは、この国が嫌いだったのですか? 王女様」
「ええ。家族は好きでしたよ? でも、この国は好きになれませんでした。力無き者、立つべからず。――そんな教えが広まったこの国には、愛が存在しない」
王女は、いつか見た悲しげな表情を浮かべた。
「……その子だって、そんな教えのせいで騎士団に処分されそうになったのですから」
かつて足に怪我を負っていた馬は、今でこそ走れているが、騎馬としての活躍が期待できないからとその首を切られそうになったそうな。それを王女の父、つまりは国王が見咎め、青年の村まで飛ばしたのだという。
その馬は、王女が密かに可愛がっていた馬であった。
「……王女様。失礼を承知で告白させていただきます」
「なんでしょう」
「あなたが愛する家族を、つまりは王族を、僕は好きになれそうもありません。直接ではないかもしれない。けれど、王族が保有する騎士団に、家族を殺されたこの身が、許すなと叫び申すのです」
青年が王族を嫌いな理由はそこにある。かつて、目の前で家族を殺され、一人残された絶望を忘れたりはしない。
だが、
「あなたは違う。馬を愛する心を持ち、僕が嫌いな王族を愛する心を持ち、しかし自らの国を卑下するあなたは、かような王族とは違う。上手く言葉にできないもどかしさを晴らさんと、今ここに宣言します」
互いに馬を降り、向かい合った状態で告げる。
「僕は、あなたのことを愛おしく思っております。どうか、あなたを愛する許可をくださいませんか」
理由を並び立てこそしたが、そんなのは詭弁である。
ただ単に、美しい王女に惚れてしまった。理由など、必要ないのだ。
「……私は、この国には愛が存在しないと、そう言いました。それは極論です。何かを愛する心を持つ者は、この国に少なからず存在しているのにも関わらず、そう言いました。私はこの国が嫌いです。あなたは?」
「僕はそこまででもありません。むしろ、あなたと出会えたのはこの国であったからこそ。今では、この国すらも愛することができるでしょう」
「気が合いませんね」
「ですね。それでも、僕はあなたが好きです」
駄目押しの一言。そして王女は、
「……ええ、どうやら私も、この二ヶ月であなたのことを嫌いになれなくなってしまったようです。私の好きなものが嫌いなあなたを、私の嫌いなものが好きなあなたを」
どちらからとも言わず、互いの手を取り、笑い合う。
好きになるのに理屈は必要ないのだと、自らの身で証明してみせた。
◆
戦火も収まり、平和が世界を包んでいた。
とある街で暮らす元馬小屋の担い手と元王女は、その身分を隠し、幸せな生活を送っていた。
「こら、残してはいけませんよ」
名をミーシャとする元王女が、旦那である青年を嗜める。
名をエインとする青年は、その言葉に顔をしかめた。
「あなたが好きだからと頻繁に料理に入れるこれ、僕は嫌いなのですが」
「でも私は好きなのです。気が合いませんね」
「まったくです」
結局、残すことを許されなかった嫌いな食べ物を完食。今日も今日とて、エインの嫌いなものはミーシャの好きなものである。
「……僕の好きなバナナやナス、趣味で言えば読書なんかもそうです。あなたはそれらを嫌いだと言う」
「あなたこそ、私の好きなキノコやラム、趣味で言えば編み物もそう。あなたはそれらを嫌いだと言います」
なのに、二人は互いを好き。おかしくて思わず笑みがこぼれる。
――ふと、エインは思う。
エインの好きなものが、ミーシャの嫌いなものであるのならば。もしかしたら、ミーシャはミーシャ自身のことが嫌いなのではないか、と。
なぜそう思ったのかはわからない。
例で言えば、エインは自分のことが嫌いである。あの村を、国を裏切り、捨てたこの身が呪わしい。自分と馬可愛さに逃げてしまった自分が憎く、嫌いで仕方が無い。
ミーシャも、似たような感情を抱いているのではないだろうか。
逃亡の際の相棒は二人とも死んでしまった。エインの馬と、ミーシャの白馬である。
この街に辿り着いた時のことだった。
墓を立て、ここまでくればもう大丈夫、ここで暮らそうと住み着いたのだったか。
「――――」
墓参りをしに訪れた墓所で、エインとミーシャは互いの気持ちを打ち明けた。
「ミーシャ。あなたは自分のことを、嫌いだと思っているのではありませんか」
「エインこそ、自分のことを責めて、嫌いで、そう思っていませんか」
やはり、自分の好きなものは、相手にとって嫌いなものであったのだ。
もしかしたら逆かもしれない。相手が自分を好きでいてくれるから、自分はより一層、自分のことを嫌いになってしまうのではないだろうか。
「僕は、あなたには自分を好きになってほしいと思う」
「なぜ?」
「なぜって、それは……」
こんなにも素晴らしい人なのに。
しかし、ミーシャはそんなエインの気持ちを察した様子もなく、
「私は別に構わないと思っています。私が私を嫌いでも、あなたがそれ以上に愛してくれていることを、私は知っていますから。……あなたは違うのですか? 私はあなたのことを、きっと、あなたが思っている以上に愛しています。それでも、自分のことを嫌いなままでは嫌だと思いますか?」
おそらく、エインは少しばかり遠慮していた。誰に? ミーシャにだ。
相手は元王女なのだ。それも仕方ないと言えよう。
「私は信じています。あなたが私を好きだと言ってくれたこと。あの日の告白に、嘘偽りはないということを。だから今こうして、国も捨て、王女という肩書きも捨て、あなたと共にあるのです」
エインは自分が嫌いだ。しかし、ミーシャはそんな自分を愛してくれている。
これからも自分を嫌い続けるだろう。その度にミーシャは愛してくれるだろう。
もう、それでいいではないか――。
◆
「あなたは、自分が嫌いなのですね」
「ええ、僕は僕が嫌いだ」
「私も、私のことが嫌いです」
「でも、僕はあなたが大好きだ」
「ええ、私もあなたが大好きです」
「あなたが嫌いなあなたを、僕は愛してみせよう」
「ならば、私もあなたを愛しましょう」
二人は、互いの嫌いなものをこそ、好きになる。
結局、何を伝えたかったんだろう。
いいえ、伝えたいことなんてなかったんです。