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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編

アリサと人喰いの秘密

作者:

 橙の支配する空が私の頭に落ちてきそうだった。海の表面が宝石みたいにきらきら反射して目に入ってくる。だけどこれもやっぱりありきたりなものとしか思えなくて、いつもこの風景には飽き飽きしている。そのことは決して口には出さないだろうし、出す気も起きないだろう。数年前から行方不明者が出たりと時折事件も起こるが、普段は閑静で穏やかな街だ。

 空の端は少し消えかかった白で、でもそれはほかの色とところどころに混じっていて、とても汚い。その先に宇宙を透いたような黒闇が広がって、いつも熱に浮かされて過去を夢にみるような、そんなぼうっとした気持ちになる。それはきっと一種の憧れであり、寂寥であり、軽蔑であり、疎外感でもある。いつかその思いは何処かへとこの肉体を持ち去って、何もなくてただ広いだけの空間に投げ出すような、そんな気さえするのだ。

「ああ、ぼくのアリサ。大切なアリサ、何処にも行かないでおくれよ」

 そう伝える彼は、傍から見るととても滑稽だ。まるで、見えない人形に操られているかのよう……そう思って、顔を伏せる。

 潮風にくすんだ手鏡を裏返しに丸太の上に置き、目尻を僅かに上げ、薄目で笑窪をつくる。

「ええ、ハルバート、行きませんとも。何処へもね、行けませんとも」

 指先で粗い砂を裂く。最後の方の言葉は、やや消えかかった。

 すぐに波が近くまで来て、諦めたように引き返していく。そんなに躊躇わなくてもいいのにな、と口を開きかけた。そしてやめる。

 毎日はその繰り返しだ。何も変わらない。彼の紡ぐ愛に答えるようで応えずに、ただぼんやりとふらつくように、時間が途方もなく流れていく。

 未だ終わらない、未だ。やっとかと思って夜が来ても、寝てしまえばまた少しだけちがう供え物を持って、彼が言葉を捧げにやってくるのだ。


 朝。今日はいつもより、やけにどんより曇った朝だ。カーテンを開けても、部屋の明るさは大して変わらない。少しだけ、重苦しい気持ちになる。

 寝巻きを脱ぎ捨て、下着のままクローゼットの中にかかる、お気に入りの赤いワンピースを取る。赤い、血を注ぎ込んだ薔薇のようなワンピースだ。袖を難なく通して、身支度を軽くする。

 ベッドメイキングをしていたそのとき、冷たい空気が足元に流れてきた。気配がして振り返ると、まだ朝の五時だというのに、彼は私の部屋にいた。昨日は私の帰りが遅く、別々に寝ていたのだ。夜の営みはなかったのが、不満なのだろうか。

 目の前、整え終わらないベッドの上に、紙がはらりとおちる。目を凝らしてそこにある文字を、何とかして読み取る。

「ああ、アリサ、君は何処へもいかないだろうね」

 後ろから強く抱き締められる。いきなりのことで応えることもできず、かといって肯定する気にもなれず、がむしゃらにもがく。しかし、ひ弱であっても彼はやはり男なので、女の私には、彼の太い腕は解けないのだった。

 彼が乱暴に、腕を掴む。痛い、と悲鳴を上げる前に、口の中に指を入れられる。にちゃ、と生ぬるい感覚がして、一瞬にして怖気が走った。指を抜いたかと思うと、そのままベッドに押し倒され、抵抗する隙も与えず彼がのしかかってきた。

 熱くて荒い息が首にかかる。そのまま首筋、恐らく頚動脈のあたりにざらっとした舌の感覚がして、喉元から思い出したように空気が漏れだしてくる。

 殺される、と、本能が告げた気がした。




 私の声は、いつも届かない。

 発しているはずのこの声はとても小さく、自分にとって十分大きいつもりでも、他人にとっては拾うに値しないくらい、か細い声。それは紛れもない、己の弱さを表す事実だ。


「泣き虫アリサ、あっちいけよ!」

 ふとそんな声が思い出される。誰の声かは思い出せない。同じ街に住む少年たちの誰かだろうけれど、一体名前は何だっただろうか。

 幼い頃から気が弱く、はっきりと主張することができない。聞き返す相手の姿勢に怯え、結局言えずに黙り込む。そんなことの繰り返しで、伝えることが苦手になった。


「嫌いだからって残さないの、皿が綺麗になるように、残さず食べなさい」

 剛健な、ひとり親の父にそう言われたことを思い出す。偏食で食べたがらない私に、父は無理やり、口に野菜を押し込んだ。吐きたくても吐けず、微温ぬるくどろどろなそれを飲み込まされた記憶がある。あの時の悪寒は、きっと野菜のせいだけじゃない。


「気持ち悪い、自分は悪くないみたいにぶっちゃって」

 これはきっと、女の子の声だろう。 十代に入った少女特有の、嫉妬に似た嫌悪の牙。無自覚な刃の向ける矛先が、ただ地味で脆い私に向かったのだ。

 だが正直、こんなことは世界にありふれていて、誰にだって経験のあることだ。初めから意思疎通がうまくできる人間などはきっと存在しないのだろう、と。

 齢一桁から、絶望していた。そういった恐怖、自分がただの、何も特別でない人間であることに恐怖を覚えた。聞こえない、聞きたくない。そんな現実逃避をし始めたのは、おそらくこの頃だ。耳を塞いで、聞こえないふりをする。自分の特異性を求めて、ただ泣きじゃくる。

 正しいことを、正しいと是認できない。そうすると、自分を失うような恐怖で狂いそうになるから。

『正せない弱さ』を武器に手に入れたそれらは、あまりにも非人道的だった。


 数年前、ある男と知り合った。車にひかれそうになったところを、助けてくれたのだ。意気投合した私と彼は頻繁に会うようになり、一日の割ける時間殆どを、二人で過ごした。

 初めて出来た、そばにいてくれる人。私は彼を愛するようになり、彼もまた私を愛してくれるようになった。。やがて自然な流れで私は彼と結婚した。子供には恵まれなかったけれども、幸せな毎日だった。永遠なんてものが存在しないことを知ったのは、彼を愛する、何でもないある日だった。

 彼は、全聾の私を避けた。見えないナイフで胸部を抉られたような、激痛がした。

 あの時の優しさはどこへ行ったのか、そう声を出したくても、出せない。どうしてとペンを動かそうにも、指先が震えて書けない。混乱の中彼を見ると、汚いものを見るような視線が刺さった。

 その視線が、彼に疎まれたという事実が、心の底に閉じ込めた何かを爆発的に動かしたのがわかった。




 おとなしくなった彼の頬を撫でる。紅潮していた頬は色を失い、温もりももう微かだ。

 どこを見ているかもわからない黒目が私を苛んでいるように見えて、そっと瞼を下ろす。だらしなく開いたままの口を閉じさせ、笑窪のようにへこませる。乱れた前髪や服を整え、綺麗にする。

 一通り済ませ、全身を眺める。その姿からは、昔の穏やかで幸せな思い出しか思い出せない。彼のとの日々は、綺麗なまま凍らせよう。


 食らった後の皿は、きれいでないといけない。私は彼の頭を撫で、赤児を扱うように額にくちづけた。



 恐らく人喰い的な話になったのは、最近見たゲーム実況に二度も食人症キャラが出てきたからだと思うんですよね(棒)

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