なこと茄子と髭モジャ少々
世の中とは摩訶不思議、奇奇怪怪である。
私――久路土 茄子、18歳――は、とある都内にある大学の農学部に通うごくごく普通のどこにでもいる平凡な大学生であった。
将来の夢は祖父の跡を継いで茄子長者になることで、その為に必死で勉強して、日々額に汗して魅惑の紫色の肢体を眺めたり、研究をしていたり、より美味しく美しいフォルムを作り出すべく、畑を耕すことを地味に繰り返していた。
地元の新潟には紫色の一般的な茄子だけではなく、大変珍しいと言われている白い茄子も栽培している農家も有り、ゆくゆくは自分も趣味の範囲内で栽培してみたいと思っていた。
なのにだ。
なんでこんなことになっているのだろうか。
見渡す限り視界に映る景色は、一面草だらけの栄養がこれっぽちもなさそうな畑に、荒家と呼ぶしかない小屋が幾つか。
私は確か愛しの茄子ちゃんに散水すべく大学に向かったはずなのだが、もしや私は電車の中で寝てしまったのだろうか。
それともこれが噂の《異世界トリップ》なるものだろうか。もし仮にそうであるのならば、自分は農業の神様に試されているのかもしれない。
それは茄子への愛と情熱と忠誠心だ。
そうでもなければ、赦せる気がしない。学生の夏休みは貴重な研究期間であると同時に非常に楽しみで大切な時期であると言うのに。
「そっちがその気ならここで天下取ってあげるわ。こちとら遊びで日本の最高学府で農業専攻してるわけじゃないのよ。私に跪くがよい、異世界の茄子どもよ!!」
握りしめた右の拳を天へ突き上げ、決意と情熱とほんの少しばかりの恨みからの雄たけびを上げたその時。
ひらり、と、視界に映った衣。
それでようやく自分が身に着けているものが自分の服ではなく、教科書の資料集などで見たことがあるモノに似ているものだと知った。
確か、上衣下裳制とかいう代物じゃなかっただろうか。詳しくは知らないが。
今私が身に着けている上衣は白色で、下は紅梅色。
空に突き上げている拳は白くて滑らかだから、きっとこの身体は労働なんて一度もした試しはないだろう。
その事だけが少しだけ気になったが、私の決意は変わらない。
そうして人も家畜も気配の欠片も無きに等しい土地を耕し、(何故かこれだけはあった)リュックの中にあった茄子の苗を植え、水を撒き、余計な草を取り続けることおおよそ約二月。
こちらの世界に堕ちてきたのは日本時間で7月。
けれど。
「ふはははは!!!私はやったのよ!!やってやったわ!!これぞ私の神髄、茄子of茄子よ!!」
薄紫色の可憐な花弁を付け、たわわな実を着けるそれは。
表面はつるりと滑らかで、白い身を守る皮は黒く油で揚げれば途端に気高い濃い紫色へと様変わりする。
「長かったわ。激しく辛い戦いだったわ。でもそれ以上にあなたは美しい」
――まるであなたはこの世の支配者の如く美しくて素晴らしい存在...っ
地に膝を付け、うっとりと愛しい彼らを眺め、撫で、愛でていた私は、招かざる客に気付くのが遅れた。
私がその存在に気が付いたのは、偏に首筋に宛がわれた大層物騒なモノが突き付けられたからである。
ぎらりと鈍く光るそれは。
ジャキンっと、さらに音を鳴らし突き付けられれば普通の人間ならば恐怖のあまり失神していただろうが、残念ながら私はそこが通常の人間と異なり、己の名前の基になった野菜を心の底から愛していた。
その実を愛するがゆえに、私の怒りはその光景を見た瞬間、瞬間湯沸し器の如く頂点に達した。
「この戯けものォーーー!!」
くるりと身を翻し、刃を恐れることなく不届き者に制裁を加える。
腹に一発、脛に蹴り一発、そして足を踏み続けることしばし。
この私の突然の奇行とも言える反撃に、幅広の剣を突き付けていた男は、厳めしい顔を歪め、チッと舌打ちした後、私を太い指一本で額を触るだけで抑えつけた。
なんという馬鹿力だろうか。
「馬鹿力ではありません」
あの馬鹿力で切り付けられたら、私の至高の茄子が傷つくじゃないか
「...あなたが何故《黒き毒の実》を育てているのかは存じませぬが、都へ着いてきてもらいましょう。申し開きはそれから聞きましょう」
申し開きって何だ。それじゃあ罪人か何かじゃないか。
「――まだ言い逃れをなさるおつもりか?皇妹殿下であらせられる御身分で」
随分と堕ちたことですね、と、なんとも嘲笑と侮蔑の含まれた言葉で、私は目の前の厳つくて髭モジャな馬鹿力の愚か者が、私の思想を読んでいたことを知って驚いた。
のだが。
「相も変わらず独り言をいう癖は治っておられなかったようですね、殿下」
――貴女がそこまで陛下を怨んでいらしたとは残念です。
との言葉が髭モジャな男の唇で紡がれた時、突如として白くて目映い光りが私の心の涙や血、汗を注いで開墾した茄子畑あたり一面を支配し、弾けた。
私は咄嗟に両腕で目を庇った。
理由は至極簡単である。
失明したらせっかく実った宝物が収穫できないからだ。
そうしてまるで太陽の光りのような閃光が収まり、そろそろと目を再度開いた私を待ち受けていた現実は。
「なこちゃーん、遅刻しちゃうわよォー?」
我が母のまったりとしたお言葉と、大学への遅刻と言う非常な現実だった。
大学への遅刻。
その恐ろしいキーワードに慌てた私は、すっかり夢で見たすべてをいつの間にか忘れてしまっていた。
私は知らない。
私の姿が突然髭モジャと茄子しかない荒野っぽい畑から消えた異世界で、私が《茄子の皇女》と言われるような人物になると言う、微妙な名誉ある事実を。
全ては夢オチだったのだと、私のおかしな体験は、忙しくも充実した日々の記憶の端に埋もれて行くのであった。