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奉天府坂

作者: 糸川草一郎
掲載日:2014/01/22

気持ちの悪い作品。お好きな人はどうぞ。

 久しぶりに実家に行こうと思って、アパートを出、しばらく三園平界隈を歩いた。日は暮れかかっていたが、暗くなるまでにはまだ間があったので、宮原までは歩いて、そこからバスに乗るつもりであった。

 三園平付近をしばらく行くと住宅地から工場街にさしかかる。大きな医療器具の会社の傍らを通ると、その大きな建物の影は、夕日の沈んだばかりであるせいか、人影一つないからなのか、水を打ったように静まり返っていて、その大工場の中も、ひょっとしたら誰ひとりないのではないのかと邪推したくなるほど、死んだように音一つしなかった。幅の広い道路を渡ると、テニス・コートがあり、そこを抜けると大月線に出る。バス停は、このいつも交通量の多い道路を渡らなければならないが、歩行者用の信号は、ボタンを押したところで、忘れた頃にならないとなかなか青に変わってくれない。道路の向うには鄙びた作りの蕎麦屋やとんかつ屋があり、その背後にはこんもりとした木立があって、彼方の山々の見事な夕焼けを少し隠していた。

 そこいらはすでに宮原と言われる地区で、この大月線に沿って路線バスの停留所があり、そこでバスを待つのだが、時刻表を見るとまだ五十分は待たないと来ないようなので、向いのコンビニに時間をつぶすことにした。

 アパートを出てからかなり歩いたけれど、どこもそよ風すら吹いておらずほぼ無風状態であるのに、空を見ると切れ切れの細かな樺色の雲が、消えそうになりながら西寄りの空から中空へと、急ぐように流れていた。

 今夜は名月から五日以上経っているから、月の出が相当遅いはずである。コンビニの雑誌の棚のところで時間をつぶしていたが、面白い文庫本があったので夢中になって読んでいると、気がついたらいつの間にか外は真っ暗になっていた。腕時計を見ると、バスの時刻をとうに過ぎている。そんなに夢中になったつもりはなかったが、秋の日は釣瓶落としなどと言うのはほんとうのことだと思い、不覚をとったけれど、後続のバスがその二十分後に来ることは判っていたので、別に慌てもせず、その文庫本を、購入することにして、支払いを済ませ、外に出た。


 宵闇とはまだ月の出ない秋の宵のことであるが、しかしそれにしては、すでに夜ふけになったかのように車の行き来もあまりない状態で、件のバス停でバスを待っていたが、バスは来るのか来ないのか怪しいように思われてならないのが、気分として感じられてしまい、夜空を見ていると、雲はほとんどないのに星は数えるほども出ておらず、宵の明星らしきものが、一つだけ消えそうになりながら、空に点っているのだった。私はただそこに立って、それでも少しいらいらと待っていると、バスがやって来た。


 乗りこんでみると、乗客は十人ほどで、みな外を眺めており、私の方を向く者はいなかった。しばらく闇の中を走るバスに揺られていたが、普通は明るいはずの車内が妙に薄暗いのが気になった。外神から奉天府にかかる坂を上っている時、バスが急に止まり、動かなくなった。運転手はしばらく黙っていたが、少しして重い口を開き、マイクに向かって、みなさん故障ですので降りて下さいと言った。運転手の話では、すぐに後続のバスが来るから、それに乗ってほしいとのことであったが、そのバスをじりじりしながら待っていたけれど、そんなものは来る気配すら感じられなかった。


 その辺りは、昔よく旅人が追いはぎに遭ったなどという昔話が語られている、鬱蒼とした森の真ん中を切り開いて作られた、細い道であった。よって明りもなく真っ暗な道の両脇に、気味の悪い森が広がっているのである。その森のふところに、木槿のような白い花が、これは自生しているのか、闇の中の一ところにかたまって、咲き乱れていた。闇の中に白い大きな花が咲いていると言うのも、音もなく白装束の人が立っているようで、あまり気味のいいものではなく、私はあまりそちらの方を見ないように、見ないようにしていた。

 勿論、懐中電灯の類いのものは持っているはずもなかったので、バスの室内灯の明りだけを頼りに、ぼんやりと待っていると、背後の森から水が染み出してくるような匂いと音がしはじめた。

 雨でもないのに何だろうと思っていると、その水のようなものは、私のスニーカーを濡らしはじめた。と、次の瞬間バスの室内灯がいきなり消え、辺りは真の闇になった。足首に痛みが走った。靴下の上から何かが足首に噛みついたような、鋭い痛みが走った。

 思わず叫ぶと、その、水のようなものは、一瞬飛び散って、ぎゅっ、ぎゅっ、と言う声のような音を発しながら、再び、飛びかかって来た。しかも背後から、同じ匂いのする水が、ばさっ、ばさっと飛んでは、私の肘やわき腹、終いには至るところに噛みついた。ぎゅっ、ぎゅっ、と噛むのだけれど、噛まれるほどに、痛みは感じられなくなり、だんだんそこいらがむずがゆくなるような心持ちがしてきた。その噛まれた辺りは、ひりひりとした痛みと、剝がれない(かさぶた)を爪でかじられているような、何とも言えない妙な気持ちであった。全身がだるく、眠気も生じてきて、私は水の上に坐りこんでしまった。全身を噛まれていたのに、すべてが他人事のような心持ちがしてきた。その辺りには人の気配は消え失せていて、他の乗客は何処へ行ったのかわからなかった。

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