〇九、森の中の屋敷にて
○
私は敗北者である……。
日記は、そこで終わっていた。
ルザ・ワカ・タイガは、いったん書物から顔を上げて瞳を閉じる。
憂いを含んだ美貌の女は、片手で顔を覆い吐息をつくのだった。
「まいるわね、これは……」
ルザは、本人だけに聞こえる小さな小さな声でつぶやく。
実際のところ、書物の内容を全て理解できたわけではなかった。
常人よりは多くのことがわかったのかもしれない――が。
それでも単純な日記でありながら、書かれている文章の中には専門用語や暗喩や記号がいくつも見受けられ、正直彼女には手に余るものだった。
また、〝専門〟の者が読んだとしても、正確な内容はわかるかどうか。
日記の内容は、基本つづった者の心情の吐露が中心ではあったが、
「なるほど……。通りで何の対策もしてないわけだわ……」
ルザは疲労を帯びた息を吐き出すと、鎖の先端に差し込んだ鍵を引き抜く。
と、紙面の文字が消えてなくなる。最初から存在していなかったかのように。
「それにしても……」
つぶやいて、ルザは何とも形容しがたい笑みを浮かべる。
それは、恐怖の前で、笑うことしかできず、笑っているようもであり。
同時に愉しい玩具を見つけた小児のようでもあり、欲情しているようでもあった。
そしてまた、泣いているようでもあったのだ。
ルザの表情が一変したのは、小さな音が聞こえた後のこと。
彼女の視線は、一つしかない個室の窓に向けられていた。
すりガラスとなっている窓の外、何か小さなモノが動いている。
その度に、窓が、コ・コ・コ、と音をたてるのだ。
ルザは、即座にそれが一羽の小鳥であると気づいた。
「まさか――」
ルザは舌打ちをするように叫ぶと、椅子を蹴倒すように立ち上がった。
○
すぐ横で音楽が、聞こえる。
そういえば、こちらに来てから歌など聞いていなかったな、とミクロカはまどろみの中思うのだった。
馬車の中、アシエが口笛を吹いている。
クラシックと似ているようだが、聞いたこともない曲。
ただの口笛なのに,まるで複数の楽器を奏でているような。
聞き惚れずにはいられない、恐ろしいほどに見事なものだった。
魔性じみた美しさの口笛が、唐突にやんだ時――
鬱蒼とした森の中、急に周りが広くなったようであった。
と、前方に円形になった平地が見え、それを高い鉄柵がぐるりと囲んでいる。
「おおっ……」
ミクロカは、つい声をあげた。
平地となった円形中央には、巨大な屋敷が建っていたのだ。
その威容は、まるで太古から生きる巨大な生物が、横たわっているようで。
「あ、あそこが……?」
「そう、我が家よ」
ほとんど呆然としているミクロカに、アシエは自慢げに微笑んだ。
馬車が近づくと、鉄の門が開ける者もいないのにゆっくりと開いていく。
――自動ドア? いや、門だから……ゲート?
門の左右には石の騎士像が並び、それぞれ剣と槍と構えていた。
その間を、馬車はゆっくりと進んでいく。
門をくぐる時、ミクロカはひどく嫌な粘液質な何かを感じた気がした。
やがて、馬車を降ろされ、屋敷内に連れて行かれる。
この時も、さながら巨大な怪物の口に入っていくような気分だった。
「ようこそ――いいえ、おかえりなさい」
屋敷に足を踏み入れたミクロカを、アシエは楽しそうに笑いかける。
建物内部は、まさに豪邸だった。
映画の舞台みたいな広大さ、煌びやかな内装、迎え入れるメイドたち。
その全てが、まるで白昼夢の中にいるようだった。
――でも……。こう、なんか……?
ミクロカには、言い知れぬ、妙な違和感がある。
ふと後ろを見ると、アシエの連れていたメイドたちが控えていた。
「この子を部屋に案内してあげなさい」
アシエの命令に、すっと二人のメイドはミクロカの両脇に立つ。
「いや、あの、ちょ……」
「まずはその服を着替えていらっしゃい? 話は、ゆっくりとしたいから」
そう言い置いて、アシエは奥のほうへと行ってしまう。
無言で促すメイドたちに連れられ、ミクロカは広い屋敷の中を歩き出した。
――ミクロカ……いや、スクピディアだったっけ。
アシエの言葉を信じるのなら、それが自分の本名である。
だが、それはミクロカにはひどく受け入れがたいものであった。
ちゃんとした別れもなく、浮き舟屋を連れ出されたせいなのだろうか?
ミクロカは自分の中で何かが小さく、けれども確実に――
スクピディア――という名前を拒んでいるのがわかった。
同時に、それを語るアシエという少女も。
性急で一方的だから? それもある。だが、それ以外にも何かが……。
メイドたちに案内された部屋を見て、ミクロカの不安はさらに強まった。
そこはあの研究室のように暗くも、埃だらけでもない。蜘蛛の巣もない。
隅々まで綺麗に掃除された、美しい部屋である。
だけど、ミクロカがこの部屋に感じた第一印象は、良いものではなかった。
下手をすると、初に目覚めた、あの不気味な部屋よりもなお悪い。
――なんか、一見小奇麗なんだけどさ……。
時間が経つごとに、喉元を見えない手で押さえつけられるような気がしてくる。
そもそも、この空間には生活感というものが何もない。
――なんなンすか、ここは……。胡散臭い……。すごい、胡散臭い……。
疑念を抱く、ミクロカのそばに、またメイドたちが立つ。
「な、なに……?」
ミクロカの問いに応えることもなく――
一人がクローゼットから服を取り出し、一人はミクロカの服を脱がしにかかる。
機械のような無駄のない動きで、あっという間に服を着替えさせられた。
今まで着ていた浮き舟屋のメイド服は没収され、代わりにアシエが着ていたものと良く似たデザインのドレスを着せられる。
その後は鏡の前に座らされ、髪を整えられていく。
髪の間にブラシが入ってくる感触は、何だかすごく懐かしかった。
浮き舟屋でも、毎日手入れをしてはいたのだが……。
目を閉じると、鏡の前に一人の少女が映る――光景が浮かぶ。
日本で生きた、日本人であったであろう自分自身。
――名前……。
名前も、顔も、ぼんやりと霞の向こうにあって、全容は見えない。
閉じていた眼を開くと、鏡の向こうに死人のような肌の少女が見える。
目玉ばかりギョロついて、その下には濃い隈があるという──
顔そのものは、決して悪くはない……と、思うのだが?
やっぱり陰気で、何とも見栄えのしない不健康そうな少女。
真っ白というか、灰色で、黒づくめで。
――なんか、ティム・バートンの映画に出てきそうな顔だね、こりゃ……。
本当にあの美少女と姉妹なのか? と、ミクロカは首を甚だ疑問だった。
共通点と言えば、髪と瞳の色。ただ、それだけなのだから。
気がつけば、メイドたちが離れていく。
どうやら、着替えというか、おめかしは終了したらしい。
――しかし、この人たち……ホント無口だなぁ。
ミクロカはチラリと視線を送るが、二人のメイドはまるで無反応だ。
そういえば、馬車の中でも、彼女らはまったく口をきかなかった。
おかげで、うっかり存在すら失念しかけたほどである。
――考えてみれば、あの子以外で、しゃべった人って……いたっけ?
この二人だけでなく、玄関に並んだ出迎えのメイドたちも全員無言だった。
おかえりなさい、の一言すらなかったのである。
――この家じゃ、そういうもの……なわけ? でも、まさか……。
使用人は口を聞いていけない……では、コミュニケーションが取れない。
ジッとメイドたちを見つめているうち、ミクロカは一つのことに気づく。
――この二人、顔、おんなじ……?。
髪型が違うし、特に注視することもなかったので、気がつかなかったが──
メイド二人の顔かたちはそっくり同じ、瓜二つだった。
双子疑惑どころではなく、まるでコピーしたように酷似しているのだ。
同時に、他のメイドたちの顔も思い出してみる。
そういえば、彼女らもみんな同じような顔ではなかったか?
――いや、でも、まさか?
みんな同じように無表情だったから、そう感じただけかもしれない。
ミクロカはもう一度メイド二人を見る――確かに、そっくり同じ顔だった。
「……あの、あなたたちって、もしかして双子さん、ですか?」
メイドたちはそれに応えることはなく、無言でミクロカを立たせた。
そのまま、ミクロカは強引に外へと連れ出されてしまう。
「いや、あの? すみません。ちょっと、話を……!」
大声を出すミクロカだが、メイドたちは無反応だ。
「いや、わかりました! そんなことしないでも、ちゃんと自分で歩きますから!」
ミクロカがそこまで叫んでから、ようやくメイドたちの手は緩んだ。
――なんなわけ、この連中…………!
この異様な態度に、ミクロカは思い切り、舌打ちをするのだった。
そして――
連れて行かれたのは、食堂と思わしき場所である。
銀の蜀台が並ぶ、長方形の大きなテーブル。
その上には、豪勢な料理の数々が並んで……いたら良かったのだが。
置かれているのは綺麗に折りたたまれた衣服と、小さな巾着袋のみ。
その前に、アシエが座っていた。
「待っていたわ。見違えたじゃない? さ――こっちへいらっしゃい」
楽しそうに笑うアシエの顔は、腹が立つくらいに綺麗で魅惑的だった。
――やっぱ、胡散臭い……。
内心で嘆息しながら、ミクロカはアシエに促されるままに、歩く。
「これを、おぼえているわよね?」
並んだものを指し示しながら、アシエは見つめてくる。
途端に、ミクロカはゾッと鳥肌が立つのを自覚した。
アシエの瞳は、まるでネズミをなぶる猫のようだったからだ。
そして、アシエが指したものは――
あの部屋を脱け出す時に着てきた服と、その中に入っていた巾着である。
どちらも、浮き舟屋にいる間は、しまいこんだままにしておいたものだ。
「あ、それは」
「お父様のものよ――」
アシエはミクロカの言葉を途中で遮ると、そっと衣服に触れる。
まるで、愛しい恋人に触れているかのような、そんな表情で。
「おとう……さま?」
アシエの言葉に、ミクロカはうまく言葉がつなげない。
目を泳がせるうちに、食堂内に飾られた大きな絵が見える。
どういうわけか、絵に描かれている人物には顔がなかった。
身なりからして貴族の男性らしいが、肝心顔が描かれていないのだ。
「そう、わたくしの、お父様……」
アシエはツカツカと絵のほうへと歩いていく。
そして、紅潮させた頬と潤んだ瞳で、顔のない男の絵に触れた。
――やっぱり、この子……変。
ミクロカは嫌なものを感じながら周りを見ると、いつの間にかテーブルはメイドたちに囲まれていた。逃げ場はない。
メイドたちは立ったままピクリともせず、その無感情な瞳は何も見ていない。
そして全員が全員、全く同じ顔をしているのだ。
無表情さと合わさって、まるで大量生産されたロボットのようだった。
「ああ、そうそう? あなたのお父様、とも言えるのかしら、一応」
言いながら振り返るアシエの瞳は、氷のように冷たいものだった。
同時に、アシエの頭から、髪の毛がごっそりと抜ける――
いや、抜けたのではなく、
「え――かつら?」
黒髪が取り去られた後、そこには輝くようなブロンドがなびいた。
まさしく、〝黄金〟と形容される相応しい、美しい金の髪。
床に放り捨てられた髪の毛を、表情のないメイドが片づけていく。
アシエは次に、右手で自分の目を覆い隠すような動作をする。
その手が離れ、目が開かれた時――アシエの瞳は、銀色に変わっていた。
──ちょ、おいおいおい……。
どうやら……髪も、瞳も、全てフェイクだったらしい。
これでミクロカとアシエにあった、ごくわずかな共通点が消え去ったわけだ。
「あなたは一体、どなた……?」
ミクロカは強い恐怖を感じながらも、アシエに問いかける。
「ここって何なんです? あたしの家なんて……嘘なんでしょ?」
「――あなたの家? ふん、わかっているわね。そのとおり、このお屋敷はあなたのうちなんかじゃない。間違ったってね……」
アシエの言葉を聞きながら、ミクロカは薄気味の悪い気持ちになっていた。
――この子、なに? 何が言いたいンすか……?
相手の意図はわからない。
だが、眼前の相手に好意とか善意というものが欠片ほどもないことは、その瞳を見れば嫌でもわかるような気がした。
そして、態度の豹変。むしろ今見せている態度のほうが、ずっと自然だ。
つまりは、浮き舟屋で見せたアレらは、
――お芝居、だったわけか……。ナットク。
道理で芝居がかっていたわけである。
と、ミクロカは背中に軽い衝撃を受けた。
後ろにいたメイドに、ぶつかってしまったのだ。
――え、いつの間に、後ろ……。
いきなり真後ろにあった女の顔に、ミクロカは心底驚く。
が、メイドがミクロカが近づいてきたわけではない。
ミクロカは無意識のうちに、後ろ後ろへと下がっていたのだ。
「だけど、あなたも……お父様に造られた、モノであることには違いない」
恐怖するミクロカへ、アシエはさらにとんでもないことを言った。
「つくっ……た?」
その一言に、ミクロカは大いに混乱させ――思考を一時停止させた。
――つくった? いや、子供を作ったとか、そういう表現をすることはあるけども? いやでも、それはまた、何というか。いやいや、違うのか、この場合……。
「鈍い子ねえ……。やっぱり、あなたは〝スクピディア〟なのかしら」
嘲りながら、アシエはダンスでもするようにクルッとターンをする。
スクピディア――と、呼んだアシエの声には、毒のような悪意があった。
それこそ、どんな鈍感な馬鹿でもわかるほどに。
「まるで、ロボットみたいに言うんですね……。詩的なことですねえ」
ミクロカは揶揄をこめて、そう返してみた。
「ろぼっと?」
ミクロカの言葉を、アシエはわからないようだった。
――そうか。こっちにはそういう単語はないんだ……?
こういう場合、このファンタジー世界においてはどう言えばいいのだろう。
機械? 道具? いや、この場合はどれも正確ではない。
「ホムンクルス……。ゴーレム……?」
代わるような単語を、ミクロカは適当にあげてみる。
どちらも映画や漫画、あるいはゲームで聞いただけの言葉で、正しい由来、その詳細を知っているわけではないが。
ミクロカの知っていることいえば――
ホムンクルスは魔法で造られた人造生物。ゴーレムは魔法で作られた巨人。
せいぜい、この程度のものだった。
共通しているのは、どちらも人の手によって造られた存在であることだ。
――ああ、そういえば……。
言葉にしなかったが、もう一つ別の言葉がある。
それは、〝フランケンシュタインの怪物〟。
「多少はわかってるのね? 頭の中に何もない、空っぽちゃんかと思ったけど」
意外そうな顔をしてから、アシエは紅薔薇のような唇を歪めた。
「なぬ……?」
ミクロカは本当に、適当に言っただけにすぎなかったのだが――
「あは…………は、はは」
無自覚のうち、ミクロカは乾いた笑い声をあげていた。
どうやら、さっき並べた単語は正解だったらしい。
少なくとも、大はずれでということはなさそうだった。
アシエは、言っていた。
『お父様に造られた』
つまり、この肉体、ミクロカという少女は……。
「え、つ、つまり? この、体……っていうか、あたしは――」
ミクロカは大き目を、さらに大きく見開いて、
「あたしは、あなたのお父様が造った、人造のナニか――な、わけ?」
「その通りよ」
アシエは両手を広げた、例の芝居がかった動作で肯定した。
「製造にかけられた日数は、一年か、そこらかしら? 動き出したのは七日ほど前から。手間取ったわよ? 勝手に脱け出したあなたを探すのはね」
――なのか、まえ? それって……。
ぐらん、と、ミクロカの視界が大きく揺れた。
七日前――それは、ミクロカが目を覚ました時ではないのか。
あの円筒形の容器が、母親の胎内の代わりだとすれば、だ。
つまりあの時から、ミクロカの……この肉体の生命活動は始まった。
そう考えて、いいのだろうか?
なら、それ以前の記憶がまったくないとしても、至極当然のことだ。
〝それ以前〟は、文字通りゼロ――ただ、眠っていたようなものだから。
ならば、自分の中に厳然として根付く、過去の記憶はどうなる。
ミクロカではない、この肉体ではない、この世界ではない記憶だ。
それは前世の、〝この世〟に生まれ落ちる以前の記憶。
やっぱり、そういうことになるのだろうか。
様々な情報が急速に叩き込まれ、混乱するミクロカはひどい頭痛をおぼえた。
脳裏に、あの記憶が再びフラッシュバックする。
人だかり。
道路に放り出された人間の体――少女の死体。
すなわち、前世の自分。顔は思い出せず。
違う人間。違う人種。違う世界。そして、違う人生。
でも、その記憶が自分の中にある。いや、自分そのものだ。
ただ――……
名前だけは、どうしても思い出せないけど。
「……それで、あたしに、どうしろと? おっしゃるんで……」
頭痛がおさまるの待ちながら、ミクロカは搾り出すように言った。
「――ふーん? てっきり自分は人間だー! とか、大騒ぎでもするかと思ったけど? 案外冷静じゃない。それとも、そういう〝設計〟なのかしら?」
ミクロカの反応を見て、アシエは若干つまらなそうだった。
――しらねーよ、そんなこと……。
自分……この肉体が、誰に、どういう意図で製造されたのか、そんなことはミクロカの知るところではない。
わかっているのは、これが〝二度目の生〟だということだ。
あるいは、
――輪廻転生……。
仏教の用語が、ミクロカの頭に浮かぶ。
それを信じるなら、今の自分もおぼえていないだけで、幾度目かの生かもしれない。
残念なことに、それを確かめることも証明することもできないけれど。
――てことはナニ? あたしゃ死んでからフランケンになったの? 生まれ変わって? ふんがー、ふんがーってか? あはは……。
「何がおかしいのかしら?」
アシエが不快そうな声を発するまで、ミクロカは半ば現実逃避をしかけていた。
「いえ。別に……」
「はン。いいわ……。余計な前置きはおいて、本題に入りましょうか」
アシエはテーブルに戻ると、あの巾着を手に取った。
それを丁寧に開けると、中にあったものをテーブルに並べていく。
キラキラと光る、金貨、銀貨だ。だが、本物ではないようだ。
ミクロカはそれがどういうものか、知っている。
それが金銀の包装された、お菓子……チョコレートであることを。
「ねえ、あなた。この中にあったはずの鍵は、どうしたのかしら?」
尋ねるのアシエの声は静かだが、猛獣の牙みたいに鋭利だった。
「は……? かぎ?」
そんなものがあったのか? と、ミクロカは思い返す。
〝最初の日〟――巾着の中身を改めたルザは、
「食べても害はないと思うけど、一応とっておいたほうがいいわね、このお菓子。何かを思い出すきっかけになるかもしれないし」
それから、
「貴重で高価なものだから、あまり人に見せびらかさないように」
とも、言われた。
――だったら、ポリポリ食べないで欲しいんだけど……。
そんな言葉を飲み込みつつ、ミクロカはうなずいたものだ。
なので、巾着は服と一緒にしまいこんで、取り出すこともなかったのである。
この後も日々の仕事に追われる中、コインチョコの存在は、ほぼ忘れていた。
「知らないって、顔ね。盗まれたのかしら?」
そうかもしれない、とも思うミクロカだが。
――その鍵とやらが、あんたの勘違いなんじゃないの?
ミクロカも一応巾着を調べたけれど、そんなものはなかった。
盗まれたとしても、良い気持ちになんかならないが、特に腹もたたない。
あれは別に、ミクロカの所有物ではなかったからだ。
「答えなさい」
「わかりません」
ミクロカの即答に、アシエは額――こめかみあたりをピクピクと蠢かせた。
「……そう、ならいいわ。別に探させるから」
アシエは押し殺したような声でつぶやき、パチリと指を鳴らす。
同時に、控えていたメイドの数名が流れるような動作で、部屋を出て行く。
「あの――なにする気……ですか?」
ミクロカは嫌な予感をおぼつつ、アシエを見た。
「あなたが失くしてしまったものを探すだけのよ。アレはお父様のモノだもの。返してもらわないとねえ。絶対に、何があっても……!」
アシエの声は、鈴を転がすように綺麗だったが――
同時に、地獄から響く亡者のようでもあった。
「あんた……」
アシエの銀の瞳──の奥にある危険なものに、ミクロカは総毛だった。
『こいつは、まともじゃない。目的のためなら、何をするわからない』
計算機で弾き出されたように、そんな確信がミクロカの内を駆け巡った。
「浮き舟屋の人たちに、何かする気じゃないでしょうね?」
「それは探索の状況や展開しだいね。もっとも、わたくし――盗人に情けをかける気など毛頭ないけれど? そう、ひと欠片たりとも」
「そう決まったわけじゃないでしょ……」
「ええ、その通りね。だから、あなたも祈りなさい。そうではないように」
「祈るって……。誰に……?」
酷薄なアシエの言葉に、ミクロカは表情を変えずに問う。
「信仰する神に……と、一般的な人間なら言うのでしょうけど、わたくしはそんなものを信じていないから? そうね、お父様にお祈りなさいな」
アシエは歌うように、どこか陶酔したような顔でそう言った。
その視線の先にあるのは、彼女の言うお父様――顔でもあるのだろうか。
ミクロカにとっては、創造主とも言える人物の顔が。
――やばい……!
ミクロカは、さっきメイドたちが出ていったドアを見る。
アシエの眼はまだ、そこにはいない【お父様】のほうを見ている。
いつの間にか、ミクロカの体はドアに向かって走っていた。
驚くような速度だったが、本人には自覚がない。
ひと呼吸も経たぬうち、ミクロカはドアノブをつかんでいた。
しかし、ドアは開かない。
ドアノブをいくら押しても引いても、物音一つたたなかった。
「無駄よ。このうちを今管理しているのは、わたくしなのだから――」
背後から、アシエが嘲りのこもった声を投げかけてくる。
「勝手は、許さないわよ?」
アシエはその場から動かず、メイドたちもまるで反応しない。
ミクロカの行動は何の意味も成さない――そう宣言しているかのように。
「あなたも一応お父様によって造られたモノだから、このお屋敷に置いてあげるのよ? おとなしくしていなさいな……。でないと――ひどいわよ?」
カッと、アシエの銀眼が見開かれた。
「……ひっ」
その悪魔のような眼光に、ミクロカは慄然とする。
「あなたがおとなしくしているのなら、別にひどいことはしないわ。さっきも言ったけど……あなたもお父様も作品なのだから、わたくしだって無碍にはしないわ」
アシエの物言いに、ミクロカは嘔吐に似た何かがこみ上げてくる。
モノ扱いされて、不愉快……というのも、もちろんある。
が、それ以上に、ミクロカが【お父様のお手製】という言葉だ。
【お父様のお手製】だから、特別扱いしてやっている――そうことだろう。
それは逆に言うのなら、【お父様】と関わりのないモノには……。
「……あたしが、その【お父様】の作品じゃないとしたら?」
「なんですって?」
ミクロカの言葉に、アシエの表情が変わる。
「……だとしたら、どうします? どうするんですか?」
「ふん? 何を言うかと思えば、あんたのことはお父様の資料であらかた知っているの。今さら自分の出生について文句を言うつもり? スクピディア」
アシエの言動はあくまで傲慢だった。
「仮の話ですよ……」
と、ミクロカは恐怖をこらえ、強い視線でアシエを見る。
「生まれたばかりの分際で……。どこでそんな小ざかしいモノを身につけたのかしら?
でもそんなことが気になるなら、答えてあげる」
アシエはゆっくり、ゆっくりと、ミクロカに近づいていきながら、
「あんたが、お父様の創造物じゃないなら、別にどうもしない。関係ないもの。だけど、仮に邪魔になるようなら、まるめて、ポイッ……よ?」
アシエは微笑みながら、紙くずを丸め、投げ捨てる仕草をしてみせた。
「わかったら、自分の生まれに、お父様に感謝することよ。おとなしくしているのなら、ちゃんと綺麗にして、メンテナンスもしてあげる。そうねえ? なたの態度次第では──スクピディアじゃなくって、〝アデルフィア〟と呼んであげてもいいわよう?」
――なんのこっちゃ……。
スクピディア――アデルフィア。
それらの呼称に、どんな違いや意味があるのかミクロカは知らない。
知らないが、たった今理解できたこと、確信できたことがある。
〝スクピディア〟は、決して良い意味の言葉ではない、ということが。
「うあああッ!」
気がついた時には、ミクロカはドアに体当たりをしていた。
何がそうさせたのか、ミクロカ自身にもよくわからない。
ただ余計な思考が何も入らないその行動は、事態を急変させることになる。
ドアはあっさりと破壊され、ミクロカはそのまま廊下に転がり出た。
「まさか……――!」
――そうか。そういえば、力持ちだったんだな。あたしって……。
ミクロカは浮き舟屋で苦もなくこなした力仕事を思い返しながら、
「ここで、ハッキリと言っておくけど」
部屋の中を振り返りながら、奥にいるアシエに向かって、。
「――あたし、あんたの言うスクなんとかって名前は、嫌い!」
胸にたまったものを吐き捨て、ミクロカはドレスの裾をつかんで走り出した。
思い切り、全速力で。
「追いなさい! 追うのよ!」
ヒステリックなアシエの叫びが聞こえたが、構ってはいられない。
衝動や鼓動の命じるままに、ミクロカは走り続ける。
走りやすさや動きやすさとは無縁の格好なのに、ミクロカの体は疾風のように屋敷内を駆け抜けていく。
廊下を抜け、階段を下りる。
途中でメイドたちに出くわしたが、捕まることはなかった。
ミクロカの速度と勢いに、メイドたちは誰もついてはこれなかったのだ。
気がつけば、もう玄関の扉が見えていた。
「ちぇりゃああああああああッ!!!」
ミクロカは床を蹴って、扉に向かって、全力でキックした。
何か深謀遠慮があったわけでは、当然ない――その場の勢いだ。
真っ黒な弾丸は、ぶ厚く頑丈な扉をあっさりと貫き、屋敷外へと飛び出した。
「ぐはっ……」
地面を転がりながら、ミクロカは草の臭いを感じた。
ミクロカは急いで起き上がり、振り返ると、扉の穴を確認する。
「すげえ……。さすが、フランケンボディ……」
我ながら、実に、驚くべき身体能力だった。
前世の自分と比較すれば、いや、普通の人間と比較しても凄まじい力である。
――けっこう気分が良かったりして……。
思わず笑ってしまうミクロカだが、楽しい気分に浸ってなどいられない。
「何をしているの、早く、早く捕まえなさい!」
アシエの叫び声と、屋敷からわらわらと出てくるメイドたちの姿。
「やばい!」
ミクロカは走り出すが、目の前には、高い鉄柵が立ちはだかっている。
遠回りする余裕はないし、そんなところがあるかわからない。
ミクロカは助走をつけて、大地を蹴り、思いっきりジャンプ。
体が浮いた。地面が遠い。空が近い。わりと。下の方には、木々がある。
ミクロカの体は優々と高い鉄柵を飛び越え、落下していった。
地面が、ドンドンと近づき、それと共に体感時間が戻っていく。
――あ、やば。
ミクロカは猫のように四つんばいになって着地。衝撃が、手足を走る。
――でも、できた。できちゃった……。すっげ、マジですっげえ!
自分の身体能力をさらに実感し、ミクロカは震えながら、笑う。
これなら、逃走だって楽にできそうだ。
「何か知らないけど、悪くはないよね、コレ……」
ミクロカは鉄柵の向こうに見える屋敷を見てから、一目散に逃げ出した。
アシエは庭に立ちつくし、無言でミクロカが逃げ去っていく様を見送る。
黒い衣装に包まれた細い体躯が、熱病にでもかかったように震えていた。
「…………もう許さない。絶対に許さないわよ、〝スクピディア〟が!」
アシエは小さく叫ぶと、屋敷に向かって戻っていった。
怒りの形相のまま、屋敷内の奥――階段のそばにある小部屋に入っていく。
一見すると小さな物置みたいな部屋だったが、アシエが大きく床を踏むと――
床の一部が大きく展開して、地下へ続く階段が現れる。
アシエが階段をおりていくと、それに伴い、階段や通路自体が淡い光を放ち始めた。
地下には、無数の道具・器具が、所狭しと並べられており、その中で特に目を引くのは円筒型の鉄の塊である。
もしも、この場にミクロカがいたのなら……。
自分がいたあの部屋を、自分が入っていたあの容器を思い出しただろう。
そんなものが何十と列を成し、部屋全体を占拠しているような状態である。
アシエはいつの間にか、薄く小さな石の板みたいなものを手にしていた。
「せいぜい、遠くまで逃げるがいいわ……」
指を走らせると――石板に無数の文字らしいものが浮かび上がって、点滅しては消え、また浮かび上がっていく。
そして、円筒鉄器の上部――すなわち、蓋が蒸気を上げながら開き始めた。
やがて各円筒鉄器の上から、人影がゆっくりと姿を見せ始めて……。
ギョロリ、と剥き出しの眼球が、アシエの姿を捉えた。
○
同じ頃。
ルザは、図書館前で青い小鳥を空へと放っていた。
小さい体躯に似合わない力強い羽ばたきを見せる鳥を見送って後、
──私としたことが……とんだ失敗だったわ。間に合うといいけど。
美女は己の失態に歯噛みしながら、風のようにドゥーエの街を進んでいった。