〇五、死んだらどーなる
○
時間にして――午前十時を過ぎたあたりだろうか。
「よいっしょ、っと…………」
ミクロカは少し事の手を止めて、屈伸運動をする。
朝食が終わった後、ミクロカに言いつけられたのは薪割だった。
積み上げられた木材を鉈、あるいは斧で使いやすいサイズに割る。
出来上がった薪は指定の場所まで運び、きちんと積み上げるのだ。
薪割作業は置き場所のそばでやっているので、運ぶのにさして手間はかからない。
ミクロカの腕力ならば、薪を割るということだけなら苦にもならなかった。
問題は、その薪を積み上げていくというさぎょうだった。
薪は工業製品などと違いサイズはまちまちで、これを綺麗に積むには工夫がいる。
慣れるまで多少時間がかかったせいか、作業はまだ半分も終わっていなかった。
――これも、他の人が教えてくれりゃいいのに……。
ミクロカはこの仕事を適当な説明をされただけで、一人でやるように命じられた。
人並はずれた腕力を持つことが、自他共にわかってしまったためらしい。
――別に、いいけどさ。
嘆息して、作業を再開する。
ミクロカが斧を振り下ろすたびに、木材は二分割、四分割されていく。
時間を経るごとに、その作業スピードは確実に上がっていった。
ミクロカにとって、まるきり馴染みのない、未知のものだったが……。
――人間、何にでも慣れるもんだわ。
すでに、この作業の要領も、肉体はつかみつつあるようだった。
前世の凡庸な女子高校生の肉体であれば、色々悲惨なことになっていただろう。
――高校か……。
生前、ミクロカは高校一年生だった。
まだ誕生日も迎えていなかったから、享年は十五歳ということになるか。
思えば短い人生だったなあ、と思う。そして、凡庸な人生でもあった。
恐ろしく悲惨なこともにないが、リア充と言えるほど満たされたものでもない。
もっとも? 言った何を持ってリア充と呼ぶのか、今いちわからないが。
『まさに、フツーの人生。フツーの女子高校生』
その凡庸な高校生活さえ終わらぬうちに、人生終わってしまったわけだ。
と、こう考えれば立派な悲劇でもあるのか。
――みんな、どうしてるのかなあ……。
ミクロカはまさに、死別してしまった家族や友人のことを思い出す。
彼らの、彼女らの、声も、顔も、忘れてはいない。
忘れてしまった小さな記憶も、ひょっこりと顔を出す。
それなのに、やはり自分の名前だけは、思い出せなかった。
――……難儀だよねえ。
作業を再開しようとした時、ミクロカ誰かの気配を感じて振り返る。
そこには、赤毛をした青年僧侶――アハトが立っていた。
「アハトさん」
「もう働いているのか」
若干驚いた顔で、アハトは言った。
「ええ、おかげさまで」
「いや、仕事の手を止めなくっていい」
駆け寄ろうとするミクロカを、アハトは軽く制する。
「そうですか。じゃあ……――」
言葉を素直に受けて、ミクロカは薪割を再開した。
いつの間やら、初めのぎこちなさが嘘のように木材はパカパカ割れていく。
「仕事をしながらでいいから、聞いて欲しいんだが……」
「なんでしょ?」
「お前、記憶は戻ったか? 何か、ほんの少しでも」
「――いいえ」
ミクロカは思わず手を止めたが、わずかな沈黙の後短くそう答えた。
嘘ではない。
現状で、忘却された自分の名前は、思い出せないのだから。
ミクロカは内心でそんな言い訳して、薪を割り続ける。
「そうか。まあ、昨日の今日じゃな」
アハトの声は、穏やかだった。
暫時二人の会話は途切れ、ただ薪を割る音だけが響く。
パカン。パカン。パカン。パカンと──
「あのー、一ついいですか?」
やがて先に声をあげたのは、ミクロカだった。
「なんだ?」
「アハトさんは、お坊さん、なんですよね?」
「その端くれではあるな」
「じゃ、ちょっとお尋ねしたいんですが……」
「何だよ?」
「人間って、死んだらどうなるんでしょうね? どこに、行くんでしょうね?」
「は?」
予想外の質問だったのだろうか、アハトは絶句してしまった。
「そんなこと考える暇があったら、修行をしろ――と、俺は師匠に言われた」
絶句から立ち直ったアハトの返答は、これだった。
「……なんスか、それ」
「まあ、そんなしょーもないことは考えるな、ってことらしいが」
「しょーもないって……そら、そう言われればそうかもしれませんけど」
ミクロカはいつの間にか作業を中断し、アハトに向き合っていた。
「と言っても、こいつは坊主専用の教えらしいがな。一般人には少し違う説明をする……と思う。そんなこたぁめったに聞かれないと思うけど」
「何か、曖昧ですね」
「実際に行って確かめて、その証拠を持ち帰るなんて無理だからな」
「そりゃまあ」
天国に行って天使の羽根を持ち帰るとか、地獄に行って鬼の角や、悪魔の尻尾を持ってくるというわけにもいかないだろう。
死んだ人間は、基本返っては来ない。来れない。
そう考えた時、ミクロカは胸の中を薄ら寒い風が吹きぬける気がした。
かつての自分は、自動車事故にあって死んでいる。
何もわからないままここに来たけど、それは事実であると確信できていた。
もはや、かつて生活していた家、国、場所、世界――そこには戻れない。
改めて、それを実感してしまったか。
それは引き裂かれるほど悲しい……というわけでもない。
だけれど、その傷は残り、疼くのだ。それも絶え間なく、しつっこく。
いつの間にか、ミクロカは深い深いため息を吐き出していた。
「ただ――人間は死ねば腐って、土に還る。それだけは、本当のことだろうよ」
ミクロカの胸中を知ってから知らずか、アハトはそう言葉を紡いだ。
「それは、体……肉体のことですよね?」
ミクロカはゆっくりとアハトに背を向け、作業に戻りながら。
「じゃあ、魂はどうなるんですかね? どこへ行くんでしょう? いえ、そもそもが……魂って本当にあるんですか?」
「…………」
この問いに、アハトは無言で頭をかく。
――面倒臭いこと、聞いてきやがったな……。
と、という顔で。
「お前、何か変なことばかり聞きたがるんだな?」
「──お前じゃないですよ」
ミクロカは首だけ向けながら、アハトに抗議した。
「前の名前は思い出せないけど、今はミクロカって名前があります」
あなたが付けてくれたんじゃないですか、と黒髪の少女・ミクロカは静かに言う。
「……そうだったな」
「昨日のことですよ。忘れないでほしいです」
「ああ。でも、抵抗感とか、慣れないってのは、ないのか?」
どこか照れたような顔で、アハトは少し視線をそらす。
「いいえ? それよか名前がないってほうが、落ちつかないもんです」
「そんなもんか」
「そうです」
と、ミクロカはうなずいて後、
「で、人間には、いえ、生き物には魂ってあるんでしょうか?」
「――知らん」
青年僧侶の返事は、実にそっけないものだった。
「知らんって……」
「あるという意見が世間に相当多いが、実際どうなのか、俺はわからんよ。確かめたことなんかないしな。あんまり知りたくもない」
アハトはフッと、息を吐いた。
「ただまあ世間一般じゃ、死後罪の軽い者は天国に行き、罪の重い者は地獄に落ちる――ということになってるな。他にはまあ、違う人間、違う生き物に生まれ変わるとか」
アハトは最後に――これも、本当のところはわからん、付け加えた。
「はあ」
アハトの話は、まあイメージはしやすかった。
ミクロカが生前生きた日本でも、わりと一般的な考えかたでもある。
それを真実として、真剣に信じているかは別としてだが。
天国うんぬんは、キリスト教だったか。
生まれ変わりは、仏教? いや、他の宗教でもあったように思う。
――しかし、生まれ変わり、かあ。
かつての自分は死亡しているのだから、今の自分はその生まれ変わりである。
そう考えるのが、わかりやすくはあるのだけど。
――生まれ変わったとして……昨日までの記憶がないってのはどういうわけ?
実質的な感覚として、今の自分は生まれ変わったと言うより、
『ある日突然、唐突に、まるで世界に来て、違う人間になってしまった』
というほうが、的を得ているのだ。
そも、今の肉体の記憶がないから、違う人間というよりは違う体とすべきか。
深く考えれば考えるほど、わけがわからなくなる。
思い出すのは、一番最初に鏡で見た――現状の自分。
死人みたいな肌色の、黒い髪の少女。
夜中にいきなり出くわしたら、さぞかしゾッとするであろう容姿。
――死人。
そこから、ふと前世の記憶、その一部から不気味な考えが浮かび上がる。
死者が生者に憑依して、恐ろしいことを起こす。
そんな語を聞いたような、あるいは読んだような記憶があった。
もしかすれば。
異国の死者が、少女の内に入り込み、生きているように振舞っていたとしたら。
――うええ……。
とんでもないホラーだ。
あるいは生者ではなく、少女の死体に異界の悪霊が侵入し、操ってるとしたら。
ナントイウ、オゾマシイハナシカ。
──最悪だよ……。
しかも、この場合……――
その『異国の死者』、『異界の悪霊』は他ならぬミクロカ自身のことだ。
「何やってんだ、おい」
ミクロカはいつしか頭を抱えて、それをアハトに突っ込まれてしまう。
――ま、まあ、実際にそうだと決まったわけじゃないし……。
アハトの声を無意識的に聞き流しながら、ミクロカは気を取り直す。
少なくとも、この体が死体という線はあるまい。
見た目はゾンビかヴァンパイアかという感じでも、中身はいたって健康なのだ。
死体であるなら、食事も必要としないだろう。
ついでに、『大』とされる固形物も、『小』とされる液体も、排出はしまい。
ぶっちゃければ、ごはんも食べないし、ウンチやオシッコだってしないであろう。
吸血鬼が生き血を吸い、ゾンビが人間の脳やら内臓を貪り食う場面――
映画などで見聞きしたその光景を、ミクロカは忘却の彼方に蹴り去っていく。
「おい」
そんなミクロカの肩を、アハトはポンと叩いた。
「のわあっ!?」
考えに没頭していたミクロカは、奇声を発してのけぞった。
「……何て声出すんだ、お前は」
驚かしたアハトのほうが、むしろ引き気味になっている。
「いや、声くらいかけてくださいよ。いきなり肩ポンなんてあーた……」
「何度もかけたけど、全然聞いてなかったんだろうが」
ミクロカの抗議に、アハトは呆れた声で言い返す。
「あーもー。ホンットに、びっくりした……」
ミクロカはブツブツ言いながらも、次に割る木材へと手を伸ばす。
また、パカン、パカンと言う音が空に響き出した。
アハトは無言で、ミクロカの背中を見るでも見ないでもなく、一人で首をひねる。
そこへ――
「あら。アハトさん、こんにちは」
のほほんとして、鈴を転がすような美声が薪割の音へ割って入ってくる。
「はい?」
「……!」
ミクロカとアハトが同時に振り向くと店の女主人である、ルザが立っていた。
「女将さん、昨日はいきなり、すみませんでした」
ミクロカが何か言う前に、アハトが言った。
「あら。いいのよ、そんなことは」
ルザは手の平をひらひらさせて、頭を下げようとするアハトを止めた。
――相も変わらぬ、美女っぷりやなあ……。
ついつい、ミクロカは見惚れてしまう。
改めて見ても、その美貌には驚かされるばかりだ。
「――お、おはようござい、ます」
完全に出遅れながら、かつ噛み気味に、ミクロカはルザに挨拶をする。
ちゃんとせねば! という気負いが逆に舌の動きをぎこちなくしてしまう。
「おはよう、ミクロカさん。調子はどう?」
「いやー、けっこー余裕っす。他の人とか良くしてくれるんで」
普通にしゃべれいいものを、変なテンションで答えてしまうミクロカ。
この場合、『他の人』というのは、ラオカと、ネスクのことだ。
他のメイドはまだよく知らないし、何よりも朝飯前に面倒な作業を言いつけられた。
覚えてろよ、ちくしょー、とミクロカは密かに思っていたりするのだ。
「そう。あの二人、ちゃんとしてくれてるようね」
ルザは右手を頬に添えるような仕草をして、微笑する。
「何かあれば、ラオカさん、ネスクさん、どちらでもいいからすぐに相談してね?」
「は、はい……。はい!」
「そんなに、緊張しなくってもいいわよ」
無駄にペコペコするミクロカに、ルザは微苦笑を投げかけてから、
「ところでアハトさん? これからお時間はあるかしら?」
「は? まあ、暇といえば暇ですが」
「良かった。それなら少し手伝って欲しいことがあるの。お願いできる? 相応のお礼はするから。ね?」
ルザは薔薇のような――男なら、いや、女でも、抗いがたい笑顔で言った。
「いいですけど――」
しかしその笑顔を向けられても、アハトの反応はどこか淡白なものだった。
横で見ているミクロカのほうが、よほど大きな反応をしている。
それでも、否とは言わなかったわけだが。
○
「葡萄酒の樽は……そう、そこにまとめて置いてくれる?」
ひんやりとして、微かに黴臭い地下室の中である。
アハトが頼まれた仕事は、室内の整理及び、新たな荷の運搬だった。
ルザの指示に従い、酒樽を共に室内をあっちへ来たり、こっちへ来たり。
かなり力の要る仕事だから、女性にはかなりハードなものではあろう。
「ごめんなさいね? うちって女所帯だから――」
ルザは保管されている酒類のチェックをしながら、苦笑い。
「いえ、大したこっちゃないですし。こっちも昨日おかしなお願いしたばかりですし?いきなり変なものを押し付けちゃって、申し訳ない」
と、アハトは少し目を閉じて、
「うちも、男所帯っていうか、寺ですからね。若い女を寝泊りさせるのは……」
「いいのよ。困ったときはお互いさま。そちらのお住持は、うちのお得意様だし?」
「そうですか」
ルザに対して、アハトの表情は微妙だ。
――お得意様、と言えるのかね、アレが……。
アハトの師匠であり、在籍する寺院の住持は度々この浮き舟屋を利用している。
それは、移動手段として舟を使う、というのではなくって――
店で飲み食いして、女と騒いで、という方向なのである。
しかも、基本ツケでだ。
寺院に借金取りが押しかけてこないのは、この女将の好意に過ぎない。
そのツケはどうなるのかといえば、たまに住持がどこから工面して払うか……。
あるいは、現在のアハトがしているように、『働いて返す』かである。
もっとも、働くのは基本アハトの役目になっているのだが。
住持は放浪癖のようなものがあるようで、しょっちゅう預かる寺院を留守にする。
「しかし……。連れてきた本人が言えることではないんでしょうが、昨日と今日で何故に働かせることにしたんですか? あいつを」
「彼女、力持ちでしょ? おかげで助かってるわ」
「そのようですね。しかし、まあ言ったら素性の知れない、もっとハッキリ言うのなら、得体の知れない相手を――」
アハトは一瞬探るような目つきで、笑顔のルザを見るのだった。
身寄りがないというのならまだわかるが、どこの誰とも知れない人間を即座に採用し、使用人として認めて働かせる。
普通に考えれば、ずいぶんと軽率な行為だ。
もしかすれば高貴な身分、あるいはその関係者かもしれないし、逆に悪巧み……例えば盗賊の引きこみ役かもしれない。
または、もっともっと厄介な素性を抱えた人間であるかもしれないのに。
アハトがそんなことを話ると、
「別に、厄介ごとだとは、思っていないけど?」
ルザの返事は、あっけらかんとして言った。
それは一歩間違えば、絶望的な楽観主義とも言えそうだったが……。
「失礼ですけど、女将はあいつについて、何かわかっているんじゃないですか?」
思い切って、アハトは本音を語る。
「何かって?」
疑わしげな視線を送るアハトに、ルザはキョトンとした顔をするが、
「……そうね。肌の色具合は少し白すぎるけど、ちゃんとすれば立派なレディになるわ。うん、これは間違いなし!」
少しばかり顔をうつむかせた後、そんなことを自信たっぷりに断言したのだった。
「……そういうことじゃ、ないんですが」
アハトは嘆息して、額を左手で押さえる。
「じゃ、どういうことよ」
「それは……」
具体的なことは、アハトにもうまく話すことができなかった。
ただ、今までルザという人物に接してきた経験から、どうにも納得できないのだ。
彼女は、一見ぽややんとした印象ではあるが――
悪人ではないにしても、腹に一物抱えたような、つかみどころのない女である。
親切な人間であることは間違いない。地域でも信用のある人物だ。
例えば、ミクロカを二つ返事で預かってくれたこと。
正直それは意外でもなく、むしろそこを見込んでルザに頼んだ。
しかし、預かってくれるにしても、正直しばらく様子見をすると思ったのに、
――まさか、翌日からすぐに働かせるとは……。
追求したところで、どうせ無駄だと、アハトはこの話題を打ち切ることにした。