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〇四、浮き舟屋




       ○


 目を覚ますと、そこは自分の部屋で。自分のベッドで横になっていて――

 全ては、夢で――


 と、いうような、都合の良いことはなく。


「おめ、いーつまで寝てんだよ、新入りのくせに。とっとと起きれ?」


 大きな大きな少女の声で、ミクロカは夢の中から引きずり出される。


「…………ふぁ~」


 ミクロカはゆっくりと目を開いてから、大きなあくびを一つ。


「ああ……。夢……か。どんな夢だっけ?」


 夢を見ていたことはわかるのだが、その内容は綺麗さっぱり抜け落ちている。

 ミクロカはむっくりと起き上がりながら、半分寝ぼけたまま目をこすった。

 簡素なベッドの横には、大きなアマガエルみたいな少女が立っている。

 窓の外から見える景色は、まだ夜明け前の、薄明かりの中だ。


「まだお日様も出てないンすけど……」


「あーにを寝言ぶっこいやがる。お休みの日でもあるめえに。おめ、使用人がいつまでもグースカグースカと寝ていられかっよー。ほれぇ」


 と、アマガエルは強引にミクロカの布団をはいだ。


「は~~い……」


 あくびのような返事をして、ミクロカはベッドから降りる。

 降りたはいいが、しばし室内をキョロキョロするばかりだった。


「あにしてんだよ?」


「……あたしの服ってどこにあるんだっけ?」


「あなたの使う。クローゼットは、こっち」


 そう言ってミクロカの手を引っ張ったのは、紫の髪をした少女だった。

 近くで見ると、ほんの少しつり目気味なのがわかる。

 部屋には小型のクローゼットが三つ並んで配置されており、それぞれに番号札がある。

 左から、一、二、三──と。


「おおう。これこれ。ありがとうね?」


 引っ張っていかれたミクロカは、礼を言ってから三番目のクローゼットを開く。


(……そういや最初はこの数字も何て書いてあるか読めなかったんだよなあ)


 寝ぼけた頭でも、中から支給された服を取り出し、着ることに支障はなかった。

 ただし、


「おめ、ブッサイクなことしてンなー? ダメだ、エプロンそんなつけ方しちゃ」


 最後につけたエプロンだけは、アマガエル少女にダメ出しされてしまったが。


「その前に、髪の毛もちゃんとしたほうが良い」


「はーい」


 紫の少女に言われて、ミクロカはブラシと手鏡を手にする。

 それらも、支給品だった。

 この店では、基本最低限の衣服や日用品は全て支給されるのだとか。

 基本使い古しの中古品が中心だが汚いものはないし、下着類だけは新品だ。

 鏡の中には真っ黒な髪の毛をした、白いというより灰色に近い肌の少女がいる。

 起き抜けのせいか目が濁っていて、ものすごく不健康そうな容姿だった。

 病人? いや……ゾンビっぽいというか、吸血鬼的というか。


 ――……誰だ、これ?


 思わず、ミクロカは首を傾げる。

 鏡面の少女が、自身の姿だと思い出すのに、二、三秒ほどかかった。


「あああ……」


 意図せずして、あくびのような声が漏れてしまう。

 ああ、そうか。

 自分は、かつての自分ではないのだ、とミクロカは改めて思い出すのだった。

 徐々に昨日のことを思い出しながらミクロカは同室の少女たちを振り返る。


「えーと……」


 アマガエルみたいな少女と、紫の少女。


「ラオカさんと、ネスクさん――でしたよね?」


 二人の名を、確認する意味でも呼んでみた。


「んだよ」


「ええ」


 二人は顔を見合わせた後、うなずくのだった。



       ○



 昨日、一通りの話が終わった後――


「ねえ、ミクロカさん? 少し顔を見せてもらっていいかしら?」


 女将のルザはミクロカを立たせ、正面から見つめた。

 この一瞬、柔和の印象の青い瞳が、鋭く冷たく光って見えたのは気のせいか。


「んー……」


 ルザはミクロカの顔を見つめた後、ペタペタと頬に触れてきた。

 少し冷たいが、柔らかく、良い香りのする手。

 と、思うや、その手はミクロカの胸、腹、腰、と順繰りに触れてくる。


 ――な、なに……?


「口を開けて、それから舌を出して」


 瞠目するミクロカへ、ルザは最後にそんなことをを要求してきたのである。

 変な人だ、と思いながらもミクロカが従うと、ルザは口中や舌をジッと観察して、


「もしかすると体が弱いのかと思っていたけど、健康そうね?」


 ニコリと笑って、ミクロカの頬を撫でたのだった。


「そ、そうですか?」


 よくわからないミクロカであったが、確かに目を覚ましてからここに来るまで、肉体に不調を感じたことはなかった。


「さてミクロカさん? あなたをうちでお預かりするこにはなるわけだけど、お客さんとして扱うというわけにもいかないの。わかるかしら?」


「まあ……はい」


 確かに、素性もわからない相手を家に迎え入れたがる者はいないだろう。


「なので、あなたには一応メイドとして働いていただくことになるけど?」


 よろしい? と、ルザは確認をしてきた。


「メイド、ですか」


 お手伝いさんとか、そういうものなのか。

 メイドという言葉や、職業は前世にもあり、知ってはいたが――

 これも、具体的にどういうものかはわからなかった。

 何とか喫茶とか、ヨーロッパ文化的なものという漠然とした情報しかない。


「気持ちの上では喜んでお引き受けしたい所存なのですが、困ったことに……」


 ミクロカは曖昧な笑顔を浮かべる。


「その経験はない。どういうものかもわからない。そんなところかしら?」


 ルザは人差し指を立てながら、そう言った。


「恥ずかしながら……」


 ミクロカが首肯すると、テーブルのほうでアハトが困った顔をしつつ、

「馬鹿ってわけじゃないんでしょうが、世の中のこと……どころか、一般常識も知らないらしいんですよね」


 補足するように言った。


「それならちゃんと教えればいいだけだわ。メイドの仕事だって同じ。ちゃんと指導して補助のできる子と一緒なら大丈夫でしょう」


 ルザは気にした素振りさえ見せずに、明るい顔で言った。

 それから、先ほどお茶を運んできた紫髪のメイドを呼びつけ、


「ラオカさんを呼んできてちょうだい。あなたたち二人に頼みたいことがあるの」


「かしこまりました――」


 紫髪メイドはすぐに、アマガエルみたいなメイドを連れて戻ってくる。


「女将さん、どんなご用事だね?」


 アマガエルは部屋に入るなり、ズケズケとした物言いで尋ねてきた。


「あなたがたを見込んでの、ことよ?」


 ルザはメイド二人に、艶っぽい微笑で笑いかけて


「今度、うちで預かることになった、ミクロカさん。彼女のことを任せたいの」


 と、ミクロカをメイド二人に紹介したのだった。

 二人とも一応初対面、ではない。

 ラオカはこの店で最初に会った人間だし、ネスクは部屋にお茶を運んできた時に。


「紹介するわ。ラオカさんとネスクさん。年もそう違わないと思うから、気がねしなくていいわよ。何より二人とも良い子。保証します」


 ルザはまた蕩けるような笑みで、そう言ったのだった。

 それにしても色気があるというのか、人を引き寄せる笑みである。

 ちょっと大げさかもしれないが……。

 見る者がついつい緊張や警戒を解いてしまいそうな、それこそ魔法みたいな笑顔。


「そんなに言われっと照れちまうねぃ。ついでに給金も上げてくれっと嬉しいがよ」


「ふふっ。それはあなたの努力次第よ」


 ルザは人差し指を唇に当てて、少女を思わせる仕草でウィンクをする。

 妖艶さや大らかだけでなく、こんな表情もするかとミクロカは嘆息した。

 何とも図々しげなラオカとは対照的に、ネスクは


「はい」


 と、つぶやくよう答えながら、うなずいただけだった。

 本当に色々と、対照的な二人ではある。

 ラオカはミクロカと同じくらいの背丈――つまり、小柄。

 ネスクのほうは少女としては、けっこう背が高い部類に入るようだ。

 また、ラオカはおしゃべりで、ネスクは無口なほうらしい。


「で、つまりは新入りのメイド見ろってかい?」


「そうよ。部屋も、あなたたちと同じにするから」


「はいよー」


「承知しました」


 二人のメイド少女はそれぞれに答え、ミクロカを見る。

 少女二人の瞳には、強い好奇心の光があった。

 ラオカはものすごくわかりやすく、ネスクも静かだかハッキリと。


「よろしく、お願いします……」


 ミクロカは二人の前で、ペコリとお辞儀をしたのだった。



       ○



 そして、日付は再び今日に戻る。


「あー……」


 意味のない声を発しながら、ミクロカはブラシを髪の毛から離した。

 ボサボサだった黒髪は、まあまあ小奇麗にはなったようだ。

 これなら、見るほうも不快感はあるまい。


「ほれよ、とっととコレつけろやぃ」


 間髪入れず、ラオカがエプロンを差し出してくる。


「……はーい」


 エプロン、それにフリルのついた帽子をつけると、メイド姿の完成である。

 ただし、前世でテレビやアニメの中で見たような華やかものではない。

 帽子にフリルこそついているが、服の造りは非常に地味なものだ。

 ある種の作業着とも言えるのだから、当然と言えば当然かもしれないが。

 今度は手際良く、とは言えなかったが、ちゃんとエプロンもつけることができた。

 先輩二人の顔つきを見るに、一応及第点はもらえたらしい。


「んじゃ、いくぞ? シャッキリ目ぇさまして、ついてこゥ」


「ごはんは?」


 先導するように部屋を出るラオカに、ミクロカは聞いてみる。


「馬鹿コケ。そんなの、後だ後」


「まだ朝食の支度はできてない。当番が朝食を作っている間、まず一仕事するの」


 ラオカの言葉を補足するように、ネスクが言った。


「……ああ、そういうもんなんだ」


 文字通り、朝飯前のお仕事があるらしい。


 ――朝飯前っていうから、そんなにハードでもない……と良いなあ。


 二人にくっついていくと、屋外を出て井戸のあるところへ到着する。


「ここが水場。まずはあそこで、水汲みだ」


 ラオカが、井戸を指して言った。

 井戸と言っても、時代劇のような釣瓶はなく、井戸側は木製の蓋で覆われていた。

 その上には、手押し式のポンプが設置されている。


「んじゃ、ちょっくらやってみろや」


「はい」


 ラオカに言われて、ミクロカはポンプの取っ手をつかむ。

 ひんやりとした金属の感触に、寝ぼけた頭は急速にさめていく気がした。


 ――おっ。おっ?


 ポンプを押して、引く。その過程で、ミクロカは意外な感覚にちょっと驚いた。

 見た感じかなり力のいる仕事だと思っていたが、ポンプの取っ手は軽い。

 適当にギッコンギッコンするだけで、勢い良く水が噴き出てくる。

 やっていて、面白くなるくらいだ。

 ネスクが持ってきた大きめの手桶二つ、それがあっという間に一杯になった。

 水道の蛇口をひねるのと、手間は大して変わらない気さえする。


 ――……ここって案外技術というか、そんなのが進んでるのかしらン?


 一見古臭そうなこのポンプも、実はかなりすごい技術の結晶かもしれない。

 ポンプを見ながら、内心感心しているミクロカへ、


「なんだい、なんだい。おめ、案外やるでねえか?」


 見直したぞ、という顔でラオカが言ってくる。


「へ? はあ、どうもっす」


 ミクロカには、その意図が良くわからなかった。


 ――そんなに、誉められるようなもん? 今のが。


「こりゃ、おらっちも楽ができてそうだわ。じゃ、この桶持ってついてこい」


「あ、了解です」


「二つとも持たせる気?」


 すると、少し非難するような口調でネスクが口を挟んできた。


「でーじょーぶだろ、さっきの様子からすりゃよう?」


 パタパタと手の平をを上下させながら、ラオカは気楽な顔で笑っている。

 ミクロカは、水を入れたばかりの手桶の見つめた。

 抱えるような大きさではないが、持ち運ぶのはなかなか大変そうだ。

 しかし、先輩の命令であるし、聞かねばならない。

 ミクロカは小さく気合を入れてから、左右の手に一つずつ手桶をつかむ。


「……ん?」


 持ち上げた途端、ミクロカは違和感に首をひねり、手桶の中を確認した。

 中は、水で一杯である。さっき自分で汲み入れたわけだから、間違いはない。

 間違いなどなくって、当たり前なのだが……。


「どしたい?」


「いえ、大丈夫です――」


 口では何でもないと答えるミクロカだったが、違和感は消えていなかった。

 別に、桶を運ぶのに、問題があるわけではない。

 むしろ、両手に感じる重さは予想外――それ以上に軽かった。

 その気になれば、これを持ったまま長距離走が簡単にできそうなほどだ。


「で、これを持ってどこに行けばいいんでしょ?」


「おう、便所掃除だ」


「――え」


 快活に答えるラオカの言葉に、ミクロカは一瞬色んなものが詰まる。


「お客様用のお手洗いを掃除するの。隅から隅まで綺麗にしないと怒られるから」


 気をつけるように、とネスクが注意をした。

 歩きがてら、二人の先輩より受けた説明にによると?

 この店では、トイレはお客用と、使用人が使うものが厳然と区別されている。

 女将でさえ客用のものを使うことはまずないのだという。

 現場に向かってみると、客用のトイレは実に綺麗なものだった。

 男性用、女性用の区別はなく、大きい部屋の中に、それぞれ『個室』が四つほど。

 後で使用人のトイレにも掃除に行ったが、こちらは木造で、不潔ではないものの暗くて夜などはさぞ不気味に感じることだろう。

 こちらは白と青のタイル張りで、花の……香料の匂いが漂っている。


「埃一つ、汚れ一つないように、常に気を配っている場所」


 と、ネスクが説明してくれた。

 確かに、こういう場所なら、気持ち良く用を足せることだろう。


 ――それにしてもさあ……?


 使用人のトイレはいわゆるボットン型だったが、こちらは……。


「水洗式、なわけ?」


 個室の中には白い便器の他、同じく白いタンクが設置されていた。

 タンクについているレバーを回すと、タンク内の水が便器の中を流れる。

 つまり、前世にあったロータンク式水洗トイレと同じような構造らしい。


「ここで流れたオシッコとか、どこに行くんですかね?」


 ミクロカは掃除をしながら、何となく聞いてみた。

 この質問に、ラオカとネスクは顔を見合わせる。


「確か……アレだ、土ン中に埋まってるどっかから、外に行くんじゃねーか?」


「ん……。ちょっと待って……」


 どうやら二人とも、よくわからないらしい……が。


「もしかしたら、間違ってるかもしれないけど……」


 ネスクが、自信なげだが答えてくれた内容を要約すると――

 地下の下水道(に相当するもの?)に通じており、そこから川に流されるようだ。

 そこは、基本使用人のトイレも同じらしいが、造りはかなり雑であるらしい。


 ――そういえば……水の流れるような音がしたっけ。


 ミクロカは使用人便所を使った時のことを思い出す。

 どうやら汲み取り式というのは、勘違いであったらしい。


「まあ~ここらは川も近いしな。他のとかぁ、てーげー、汲み取りだ」


 と、ラオカの弁。


「うちは客商売だし、清潔にしないといけないって、こともある」


 さらに、ネスクが補足した。

 だから、こういった不浄の場所ほど、神経を使っているわけなのだろう。

 客用のトイレは掃除の他、香料が切れていないかチェックしたり、タンクの水を補充、あるいは入れ替えるなど、細かい作業が欠かせないそうだ。

 万一手落ちがないように、日に何度もチェックし、掃除をする。

 どの個室も明り取りの窓があり、窓は全てすりガラスとなっていた。

 また掃除をするうちに気づいたことだが……。

 トイレの天井には、小さな金網のようなもので蓋をされた穴がある。

 これは、全ての個室にあるようで、


「何ですか、これ」


「排気口」


 ネスクに尋ねると、変なことばっかり聞く子……と、つぶやかれた。


「おめー、ゴチャゴチャ色々聞くけどよー。ここの工事とか? そういうのは魔法使いが図面を引いてやったもんだからよ、おらたちにゃわかんねーっての」


「……魔法使い、の?」


 水洗トイレとか下水道工事などは、魔法の力によって行われたものなのか?


 ――それって、土木関係とか、そういう人の仕事じゃないの?


 ミクロカは驚いた。何か、イメージが違う。

 が、ミクロカの考えはあくまで、前世においての話だ。

 この世界、この街においては、魔法使いもそういう仕事に従事するのが、


 ――普通なのかしらン?


 考えつつ、ミクロカはブラシやモップを使いながら、ともかく掃除を続ける。

 細部まで注意しなければならないこの仕事、力はあまりいらないが色々手間だ。

 けっこう根気もいる。

 ただ、客用トイレ自体さほど大きいわけではないし、三人一緒にやっているおかげで、時間はそうかからない。

 トイレ掃除が終わると、今度は廊下、続いて中庭、最後に玄関前を念入りに掃き清めて朝の仕事は終了となった。


「あー、終わった、終わった。っとに、腹へっちまったよ」


 背伸びをしているラオカたちの横で、ミクロカはあるものを見上げていた。

 店の前に掲げられた看板を見見上げる。

 青い塗装がされ、舟の姿が彫りこまれた美しい意匠だ。

 腕の良い職人の仕事なのだと、素人のミクロカにもよくわかる。

 何かの文字が並んでいるようだが、ミクロカには読めない。


「看板が、どうかした?」


 尋ねてくるネスクに、


「いえ、これって何て読むんでしょうかね? あたし、字が読めないんで」


「浮き舟屋――。この店の名前」


 浮き舟屋……。口の中でその名前を転がしながら、ミクロカは気づく。


 ――そういえば、この名前って、初めて聞いた……。


 その後、やっと朝食となる。

 ミクロカたちが食堂に行った時には、すでに食事は始まっていた。

 その中には、すでに食べ終えた者もいるようだ。

 太陽はすでに昇っていたが、それでもまだ早朝の範囲である。

 使用人の食事は、基本キッチンに隣接する専用の部屋で行われるらしい。

 食事の用意はキッチンメイド中心に行われるが、片付けなどは当番制である。


「おいしそう……」 


 テーブル上の料理を見ながら、ミクロカは首をひねってしまう。

 野菜中心のスープが大鍋の中に入っており、各自で横に置かれた容器に盛る。

 テーブルの上には大型のパン籠がいくつも並び、丸いパンが香ばしい匂いを放っており労働を終えたミクロカたちの食欲を刺激した。

 このパンというのが、前世食べたものとは一味違う代物なのだ。

 昨夜夕食として出されたものを食べた時、ミクロカは大いに驚いた。

 ここのパンは何と言うのか、非常に密度が濃くて食いがあり、全体的にモチモチとして一個食べただけでも結構腹にたまる。

 パンに違いないが、ミクロカとしては米で作ったおにぎりに近い印象を受けた。


(色んなものにあいそうで、飽きのこない味だったなあ……)


 ミクロカはパンの味を思い出してたまらなくなり、つい舌なめずりをする。


「お行儀が悪い」


 すかさず、ネスクに注意されてしまった。

 そしてミクロカは、二人の後ろにくっつきて、スープの大鍋のほうへ行く。

 この時である。


「そこの――新しく入った、あなた」


 声がかかったのは、ラオカがスープを持った、ちょうどその時である。

 狙いすましたようなタイミングに、ミクロカは内心大いに舌打ちをした。

 しかし、返事をしないわけにはいかない。


「はい?」


 新入り、というと、自分しかおぼえがないわけだし。

 ミクロカができるだけ殊勝そうに返事をしながら振り向くと、先輩のメイドが腕を組み妙な目つきでミクロカを見ていた。

 その後ろにも何人かのメイドがいて、みんな同じような目つき。


「ちょっと、裏のほうに行って、荷運びの手伝いをしてきなさい。すぐに終わるから──食事はそれが終わってから、とるように」


 当たり前のように、命令される。いや当たり前なのだけど。


「あの、それ――」


 横からネスクが何か言おうとしたようだったが、


「ほら、早く行く! ごはんを食べる時間、なくなるわよ!?」


 ミクロカは素直に従いながら、腹の内では下を出すが、先輩命令だし仕方ない。


「じゃあ、ちょっと行ってきます――」


「ちゃんと、場所わかっか?」


「大丈夫ですよ」


 ミクロカはラオカとネスクにうなずきかけてから、足早に食堂を後にした。


「荷物は全部、外の水場に運ぶのよ? 全部運び終えるまでは、戻ってこないように! すぐに終わるんだから!」


 出て行くミクロカの背中に向かい、先輩メイドたちは念を押すのだった。


 【すぐに】という言葉を、やけに強く強調して。


「はい。わかりましたー」


 ミクロカが出て行った後、クスクスとし忍び笑いがあちこちから漏れた。


「…………ねえ?」


 何か言いたげに、ネスクはラオカの顔を見る。


「ま、でーじょぶだろ? すぐに戻ってくんじゃね?」


 ラオカは気楽そうに言うと、席について朝食を取り始める。


「でも……」


「ダメだったら、あとでこっそり何か差し入れしてやんべ。先輩がたもそれくらいなら、いくらでも目こぼししてくれっからよ?」


 言いながら、ラオカはバクバクとパンやスープを口に放り込むのだった。


 ミクロカが言われた通り、裏手のほうへと行くと――

 垣の向こうに、大きな荷車が停まっているのが見えた。

 荷車の前には、これまた大きな黒牛がいる。

 どうやら、この牛に引かせて移動する、いわゆる牛車らしい。

 荷台の前で老人と、十二、三歳くらいの男の子が、荷物を降ろしている。


「あのー、お手伝いにきたんですけど?」


 声をかけると老人が顔を上げて、


「おお、新しく入った人かい?」


「はい。はじめまして。それで、この荷物で間違いないんですよね?」


 降ろされた積荷は全て木箱であり、箱ごとに色んな野菜が入っている。


「ああ、そうだよ」


「わかりました」


 老人の返答を聞いて、ミクロカは木箱に近づくが、


「余計なこともしれないが……あんた、大丈夫か?」


 何を思ったのか、老人はそんなことを言ってくる。


「え? 大丈夫って、どこに運ぶとかは聞いてますけど」


「いや、そうじゃなくってなあ。お前さん、すごい顔色してるぞ?」


「あああ……」


 老人の指摘に、ミクロカは自分の頬を撫でた。

 確かにこの顔──病人というか、死人のような顔色である。

 当初は女将のルザにも、健康面を心配されたほどなのだから。


「これは元からこういう顔なので。別に病人とかそういうのではないです」


 簡潔に答えて、ミクロカは荷物の一つを持ち上げた。

 そこそこ重量はあるものの、見た感じよりも、ずっと軽い。


「……え? それ、手で運ぶの? 台車とか使わないの?」


 ミクロカの行動に、男の子が驚いた顔をする。


「は? いや、そういうの、出してもらってないし。大丈夫でしょう」


 確かに台車を使えば楽かもしれないが、なければ困るというほどではない。


 ――必要だったら言われるはずだから、いらないんでしょ? おそらくだけど。


「…………そうなの?」


 男は何だか微妙な表情をして、老人と顔を見合わせる。

 ミクロカは彼らの態度を特に気に留めず、運搬作業を開始したのだった。

 野菜の木箱を、水場――井戸の近辺まで運ぶ。

 荷は思ったよりも多くて、何往復もせねばならなかったが、大した重さでもないので、それほど特に苦にならない。


 ――確かに、台車とかあれば手間いらずだったかも……。


 作業中にふと思うミクロカだが、早く食事にありつきたい一心で懸命にやる。

 慣れてくると、木箱を二個いっぺんに持ち運ぶこともできた。

 運んでおろし、戻って、また運んでおろす。

 何往復したか考えるのが面倒臭くなった頃、ようやく運搬作業は終わった。


 ――案外、時間かかっちゃったな……。


 最後の箱を地面におろしながら、ミクロカは背伸びをした。

 軽く二深呼吸をした後、残したものがないか、荷車のほうまで確認にしにいく。


「もう、荷物残ってないですよね?」


 突っ立っている老人と男の子に声をかけたが、即答はこない。

 変だなと感じるミクロカだが、しばらく間を置いてからもう一度声をかける。


「あのー? もう荷物はないですかね?」


 今度は少し大きな声で、ゆっくりかつハッキリとした発音で尋ねてみた。


「ああ……うん」


 老人は、呆けたような顔でうなずいたのだった。

 ひょいと荷車を見てみると、荷台は空っぽになっている。

 この大きな荷台に積まれていた荷物を全部運んだわけだから、それは時間がかかるのは当然であったのだろう。


 ――何がすぐに終わる~だよ。こんな手間隙かかること……一人でやらせやがって! 新人いびりかよ、このヤロー)


 ミクロカは心の中で先輩メイドたちに毒づきながら、


「じゃあ、あたしはこれで。失礼しまーす」


 老人と男の子に挨拶をしてから、急ぎ食堂まで戻っていった。

 残った老人と、男の子は、用事が終わったであろうに、まだそこの立ち尽くしている。


「……何なんだ、あいつ」


 少年は震え声で、ミクロカの後ろを見ながらつぶやいていた。


「……まあ、世の中には色んな人間がいるからな」


 目を皿のようにしている男の子の頭を、老人が骨ばった手で優しく撫でていた。


 食堂に戻るとメイドたちの朝食は終わっておらず、ごはんが残っていないということもなかった。

 やれやれと安堵しつつ、ミクロカは先輩メイドたちに報告下のだが──


「……終わった? もう?」


 戻ってきたミクロカに、先輩メイドらは唖然とした顔で言ってくる。


 ──もうって、けっこう時間食ったと思うんだけどなあ?


 ミクロカの認識では長時間が経過したような気持ちだったが、どうやら時間はそれほど経ってはいなかったようである。


「──嘘でしょ」


 一人のメイドが、鋭い視線で切りつけるように言ってくる。


「いや、ホントですって」


「嘘つきなさい!」


「ホントですって。何なら確認してくださいよ?」


 やけにしつこいので、ミクロカは作業を先輩メイドたちを水場まで連れて行く。

 戻ってみると、井戸の近くに大量の木箱がずらりと並び、積まれている。

 作業中にはあんまり意識をしなかったが、


 ――我ながら、結構な仕事をしたもんだわ。


 その壮観さに、ミクロカはちょっと自画自賛をしてしまうのだった。

 だが、それとは対照的に先輩メイドはみんな絶句している。


「これ、一人で運んだの……?」


 そう尋ねてきたのは、いつの間にかやってきていたネスクだった。


「うん。そう」


「――……やってやれないことは、ないのかもしれないけど」


 ネスクは、マジマジとミクロカの顔を見つめてくる。


「ほらみろ。おらの言ったとおりだ。こいつはえかく馬鹿力があるんだから」


 愉快そうに言ってミクロカの肩を叩くのは、ラオカだった。


「ばかぢから? 馬鹿力……ねえ」


 この肉体、現在の自分は、人よりも、腕力があるらしい。

 見るからに不健康な容姿に反して、この体は健康以上のもののようだ。


「…………まあ、虚弱体質よりは、いいんだろうね」


 おかげで、ミクロカは仕事初日を朝食を無事に食べることができるのだから。




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