〇三、いちだんらく?
○
その後。少女と青年は、往来の店でお茶を飲んでいた。
店といっても非常に簡素な造りのものであり、いわゆる掛小屋に近い。
扱っている飲食物も、安価なものばかりのようだった。
店の前に置かれた床机に、二人は並んで腰をかけて、お茶を飲んでいる。
――時代劇とかの、茶店? みたいだなー……。
少女は、往来を行く人々を見ながら、お茶を飲む。
お茶は緑茶でも紅茶でもなくって、味も匂いも麦茶そっくりだった。
それが注がれている容器は、いかにも安物っぽい陶器製のコップ。
「この飲み物は、なんていうもので?」
「麦湯」
コップをあおりながら、青年は答えた。
――……麦茶の親戚みたいなものかな?
べつに不味いわけでもないので、少女は深く考えずに横の皿へ手を伸ばす。
皿の上には、小さくて白い饅頭のようなものが数個並んでいる。
食べてみると、饅頭と言うよりは蒸しパンに近い触感だ。
中には何も入っていないがほんのりと甘みがあり、空腹も手伝ってかなりの美味。
「これはなんていう食べ物でしょう?」
「そりゃ蒸しパンってんだよ!」
「へえ?」
やっぱりパンなのか、と考えつつ、少女は食べ続ける。
気がつけば、数個とも全て少女の胃袋とおさまっていた。
まだ腹の虫は満足していなかったが、多少はおとなしくなったようである。
そこで、少女は別の質問に移ることにした。
「まず、えーとですね……ここってどういうところですか?」
「ドゥーエだよ」
「国の名前で?」
「この町の名前。国名は、クガワートだ」
「へえ」
やっぱり、聞いたこともないような名前である。
「こら完全に、ファンタジーだわ……」
「ふぁん、た? なんだって?」
「いえ、こちらのことで」
訝しげな青年に、少女は首を振り、空を見上げた。
何かも違い異郷の地。ただ空だけは、かつて見ていた空と同じように思える。
今まであんまり、ボケッと空なんか見たことなかったけど。
「自分の名前もわからないのに恐縮ですが、あなたのお名前は?」
「アハト・ゴーロ」
「あはと、のほうがお名前ですか?」
「当たり前だろ」
「そですか」
どうやら、名前のほうが先に来る文化圏らしい。
「お前、本当に、自分の名前も忘れたのか?」
「はい、間違いないことです」
疑わしそうなアハト青年の顔に、少女は真顔でうなずく。
「名前もわからんとなると、難儀だな……。身元を捜す手がかりとか」
「とりあえず、テキトーな名前で呼んでくれてもいいですよ」
少女は軽く言った。
どうせ一度死んだ身なのだ、特にこだわるところはない。
「確かに、名無しのゴンベェっても不便だしなあ。何でもいいのか?」
「はい。そこは見つくろいで」
「みつくろいって。おかしなヤツだ……」
「はは。そうでしょうねえ。仕方ありません」
「仕方ないって……。ふん、名前……名前な」
アハトは少女を見ながら、人差し指で額をかく。コリコリと。
しばらく考えてから、アハトはクルッと視線を上にやって後――
「ミクロカ、とでもしとくか?」
「なんですか、それ?」
「俺の故郷に、昔いたっていわてれる女の名前だ。お前と同じように、黒い髪をしてたと伝わってるんでな」
「珍しいんですか、これ」
少女――は、自分の髪の毛を弄りながら尋ねる。
「黒い髪自体はそうでもないが、その肌の色とか、瞳の色。全部の特徴が一緒だとなるとあんまり見ないな?」
ふむ、と、アハトは顎に手をやって答えた。
「ミロクカ、ですか……。まさかとは思いますが、何かの蔑称とかじゃないですよね?馬鹿とかマヌケとか。あと、エッチな意味とか」
「そんなもんねーよ!」
ミクロカの問いに、アハトは憤然とする。
「さようですか。わかりました」
その様子を見てから、少女はゆっくりと一礼をする。
「じゃあ――これからはミクロカと呼んでやってください」
「あ……ああ」
「ところで、本当に変な意味とか、いやらしい意味はないんですよね?」
「しつこいッ」
「すみません。後々嫌な思いをしたくもないので」
「変なとこで警戒心出すんだな」
アハトは感心したような、呆れたような顔をする。
「で。これから、あたしはどうすればよいのでしょうねえ?」
「よいのでしょーねーって……」
少女……ミクロカの問いに、アハトは少し目を閉じて、
「お前、何もわからんとか言ってたけど、今までどこにいたんだ?」
「どこと――おっしゃいますと?」
「だからな? いきなり天から落っこちてきたわけでもないだろう」
「まあ、そうですね。気がつくと――」
と、ミクロカはこれまでの経緯を簡単に説明した。
研究室? のような場所で目を覚ます、そこからいきなり路地裏に出て……。
「んーむ……」
黙って聞いていたアハトは、何やら顔をしかめていた。
「どっかの、地下室にいたって?」
「本当に地面の下かどうかは確証が持てませんけど。案内しろって言われたら、ちょいと自信がないです。すみません」
「確かに胡散臭いわな。ただ……」
「ただ?」
「普通に考えれば、お前の言ってることはほとんどタワゴトだが」
アハトは冷然と言ったものである。
「そうっすか。そうでしょうね」
「しかし……研究室、な」
研究室、とアハトは数度口の中で転がし、また黙然となる。
しゃべっている時は昼行灯な雰囲気だったが、真面目な表情になると精悍だ。
イケメンとか美形というよりも、いい男――この言葉が似合う。
童顔だけど少年ではなく、やはり『青年』という感じなのだ。
「お前妖術使いだの、そんなのと関わりがあったんじゃあるまいな?」
――おおっ?
ファンタジーな単語がアハトの口から語られ、ミクロカは驚く。
「ヨウジュツ? それってつまり、魔法とかのことですか?」
「そうとも言うな」
「あたしは使えませんよ、多分。そういうジョブではないと思うので」
「じょぶ? ……何のことか知らんけど、お前がいたっていう変な部屋はそういう連中が使っていたものかも知れんってことだよって」
そこで、アハトは言葉を区切り、
「……妖術とか、そんなのもわからんのだよなあ?」
と、面倒臭そうに言った。
「んー。どうでしょう? まあ、そうなんでしょうねー」
大体、ここで言われる魔法がどういうものなのか、さっぱりわからない。
ただ魔法といっても、フィクションに限ってさえ、そのあり方は個々の作品で、かなり変わってくるのだ。
さらに、現実で語られる魔法と比較すれば、差異はさらに大きくなるだろう。
そして、そのいずれも少女は具体的なこと、詳細はほとんど知らない。
魔法とは、何か? と考えてみたところで……。
やっぱり、適当なイメージらしきものがボンヤリとあるだけだ。
「すみませんけど……。魔法っていうのは、なんですか? 炎や氷を発射するとか異世界からヤバいものを呼び出すとか、地下迷宮から一瞬で脱出しちゃうとか? 宝箱の中身がどんなものか判別するとか、動物に変身するとか、そういうヤツですか?」
「何かよくわからんのもあったが……そんなもんかなあ?」
「アハトさんは、魔法とか使えないですか? 回復とか、解毒的なやつ」
一応聞いてみる。
RPGでは、僧侶系は補助とか、神聖系というの使うことが多いわけで。
「坊主が魔法や妖術なんか使うかよ」
呆れた顔でアハトは否定。
「なるほど。そういうもんですか」
ここは、竜を探す旅とか、最後の幻想的な世界ではなさそうである。
「妖術にしろ魔法にしろ、どっちにしたって坊主の使うもんじゃない」
「悪魔の技ってことですかね、すると」
「建前上な。坊主の言葉だとそうだな。外術とか、左道と言うが」
「だったら、お坊さんの使う不思議な力とかあるんですか? 参考までに」
「宗派によっちゃ白術を使うとこもあるが、俺は使えん。そんな修行もしてない」
「はくじゅつ?」
「簡単に言えば、その理がハッキリとしてるってことだ。法術とも言うな」
「つまり? どゆことっすか?」
「例えばな? ある薬草があったとする。それをどういう風に使えば、どういう病に効く――そういうことを明確にして、世の中に公表してるのが白術だ」
「え。じゃ、他の魔法はそういう原理とか仕組みって、わからないんですか?」
「わからんというか、秘密にしてるのがフツーだ」
「へー……」
「……いや、そんなことはどうでもいい」
アハトは首を振ると、茶を飲み干し、床机から立ち上がる。
「他に何か?」
「非常に重要なことだがな。お前、今晩泊まるとこあるのか?」
「あると思います?」
「……元いた場所に戻るとか」
「やですよ。それに、戻りかたもわかりませんし。言いましたよね?」
「ああ、そうだったな――わかった、ついてこい」
そう言って、アハトは親指を立てた拳を、くいっと持ち上げる。
かくして、茶店を後にして、二人は歩き出すのだった。
その間にも、ミクロカの眼には街の様子、特に道行く人々が映っていく。
「色んな人がいるんですねえ、ここは……」
ミクロカの言葉に、アハトは肩をすくめて、
「このドゥーエは、東の中心みたいなとこだからな」
「あそこの、ちょっとお耳の長い女性は?」
ミクロカは、横長の耳をした美しい女を指す。
「ありゃ西方人だな」
「つまり、西から来た人? ふーん……」
女性の姿を見ながら、ミクロカは首をかしげる。
彼女の姿は、やはりファンタジーによく登場するエルフ族にそっくりだ。
「西方の人は、みんなあんな感じだ?」
「ああ。基本あんな感じだ」
「西の人って、ひょっとして魔法が得意だったりします?」
ミクロカは、何気なく尋ねてみる。
物語の中では、エルフは魔法など神秘的な力に長けていることが多い。
「そうだな。こちらよりは多いだろうな。歴史もあっちのほうが古いし」
アハトはそう答えて、軽く笑ったようだった。
「あのですね? 西方のお人には、他の呼びかたってないんですか? 例えばですね?エルフ……とか」
「おい」
ミクロカの言葉が終わる前に、アハトはすごい勢いで振り返った。
その顔は、まるで棒でも飲み込んだような表情となっている。
「な、なんですか?」
「お前な? どこでそういう言葉を聞いたのかは知らないが、西方人の前でエルフなんて言葉を間違っても口にするなよ? ぶん殴られても文句言えんぞ?」
アハトは周りを警戒した後、小声でそう忠告してくるのだった。
「……悪い意味なんですか?」
つられて、ミクロカも小声になる。
「お前……エルフって、どういう意味か、知ってるのか?」
「いいえ」
だろうなあ……と、ミクロカの顔を見て、アハトは嘆息しながら首を振った。
「化け物とか、お化けとか、そういう意味だぞ? 西方人の蔑称でもある」
「そうだったンすか!?」
「今さらあわてるな、あと声がでかい」
アハトは仔犬でも叱るような口調で、ポコンとミクロカの頭を軽く殴った。
「……教えていただいて、ありがとうございます」
ミクロカは何度も頭を下げ、お礼を言う。
下手をすると、後々魔法で吹っ飛ばされていた可能性を考えながら。
「お前、ホンットに常識ないんだなあ……?」
アハトはそんなミクロカを見ながら、ガックリと肩を落としたようだった。
色々と話をしながら、ミクロカはアハトに共に川沿いの道を上流へ、上流へ。
かなり大きな川で、何艘もの船が行ったり来たりしている。
川筋を遡るに連れ、次第に人通りは少なくなり、建物の様子も変わってきた。
さっきまでの大通りはかなり活気があったが、逆に騒がしく、雑然としてもいたが──この辺りは閑静で、落ちついた雰囲気である。
そして、アハトは一軒の大きな店の前で立ち止まった。
――多分、店だよねえ……?
人の出入りはあるようだが、商品らしいものは並んでいない。
見た感じは、飲食店に近いようだった。
「ごめん」
アハトが店先で声をかけると、
「あンれま。アハトさんじゃないかね?」
一人のメイドが飛び出し、親しげに声をかけてきた。
若い女である――少女とするほうが正しいか。
白緑の髪の毛に、大きな深緑の瞳。
大きなアマガエルみたいな雰囲気の、愛嬌はあるけど田舎臭い少女だった。
「女将さんは?」
「いるよ? 奥で帳面さ、おっぴろげてるだよ」
「悪いな。ちょっと、呼んできてくれるか?」
「んー。あんたさんのこったし、別に良いけどよ?」
メイドは、アハトの後ろにいるミクロカへ視線を送ってくる。
ども……という感じで、ミクロカは軽く会釈。
「じゃ、ちょいと待ってろや?」
メイドは大きな口に笑みを浮かべるとパタパタと奥へ走っていった。
――けっこう待たされたり、するのかな?
だが、ミクロカの予想に反して、待ち人はすぐに顔を見せた。
店の女将――ミクロカは、太った中年女性をイメージしていたのだが……。
(おおお……)
出てきたのは、胸元を大胆に開いたドレスを着た女性である。
太ってはいないし、極端に痩せてもいない、均整の取れた肢体。
どうやら、彼女が『女将さん』らしい。
色の白さと服装などのせいか、白人のような印象だが、やはりどこか違う。
その長い髪の毛は、濃い目の青。瞳の色は水色に近い青。
年齢はよくわからないが、少なくともオバサンという感じではない。
貴婦人という言葉が似合いそうな、驚くほどに美しい女性である。
「まあアハトさん、いらっしゃいませ。さ、どうぞ奥へ」
「いえ。今日は別に客として来たわけじゃないんです。少し、お願いが……」
「でしたら、なおさら。こんなところではバタバタしますから。ささ、どうぞ」
遠慮がちなアハトに、女将愛想よく笑いかけながら、
「ね? お連れの可愛いかたも」
何気ない、でも射抜くような眼をミクロカを向けた。
ほんの一瞬だけれど、ものすごく艶っぽい微笑が、その唇に浮かんだような。
――……!?
ミクロカは、ざわっと鳥肌が立ってしまった。
それから。女将に先導され、ミクロカたちは店の奥へと進む。
飲食店のようで、またホテル――宿泊施設のようでもある。
「ここは、どういうお店なんでしょう?」
「どうということのない、舟宿ですよ」
つぶやいたミクロカに、女将は愛想良く応えた。
舟宿。
言葉では聞いたこともある気がするが、実質どういうものかはわからない。
語感からすると、やはり宿泊施設の一種だろうか。
――川が近いから、舟とも関係してるのかな……?
歩きつつ、ミクロカはキョロキョロ視線を動かす。
何故だろうか? どことなく懐かしいような感じのする構造である。
ふと廊下の角からチョンマゲのおさむらいさんが出てきそうな――そんな感じの。
どうしてそう感じたのか、ミクロカにもわからない。
屋内で靴を脱ぐ習慣はないらしく、そのへんの風習も日本とは違うようなのに。
そして、ミクロカたちが通されたのは、綺麗だがちょっと寂しい感じの部屋。
静かなのは良いが、客室というには若干無愛想すぎる。
置かれているテーブルや椅子は、シックで高級そうなものだが。
「どうぞ、おかけに」
女将はミクロカたちに席をすすめ、二人が着席した後で自分も席についた。
「――で、アハトさん? ご用というのは、そちらの可愛らしいかたのこと?」
「ざっくばらんに言うと、そういうようなことです」
アハトは頭に手をやりながら、困り顔になる。
「何かにつけてお世話になっているんで、こっちも心苦しいんですが……」
「ぶっちゃけると? その子をうちで預かればいいのかしら?」
女将はニコリとして、アハトを見やる。
「……まあ、そうです。お願いできませんか?」
「それなら願ったりかなったり。ちょうど新しいメイドが欲しかったところだし」
――まさかあたしゃ、ここに売られるんかい、おい。
ミクロカはちょっと不穏なものを感じたが、とりあえず黙っておく。
「ただ……こいつは、ちょっと問題というか、困ったことがあって」
アハトはミクロカを見ながら、ため息。
――なんかムカつくなあ、こういう態度は……。
ミクロカが内心ムッとしていると、
「困ったこと? 夜中に首が伸びるとか? それとも月に向かって吼えるのかしら」
女将はケッタイなことを言いながら笑う。
――オイコラ。あたしゃバケモンか……。
立腹するミクロカだったが、それと同時に、もしかすると……とも思うのだ。
何しろ、自分の正体がまるでわからない。
正確には、今のこの肉体の素性が。
――もしかすると、何かトンデモナイものってことも、あるのかなあ……?
ミクロカが密かに悩んでいるところへ、メイドがお茶を運んできた。
さっきのアマガエルみたいなのではなく、別のメイドだ。
背が高めで、くせのない薄い紫の髪をしている。
メイドは淀みない動作でお茶をテーブルに並べ、音もなく退室していった。
「……そういうこともある、かもしれませんね。ひょっとすると」
お茶を出すメイドに会釈をして、アハトは言った。
「ふうん? それはそれは」
女将はニコニコしているだけ、まるきり動揺した様子はない。
どうにも、つかみどころがない人柄だった。
「こいつは自分が誰だか全然わからんらしいです。本人の弁によれば、ですが」
「それはまた。記憶喪失とかいうやつなのかしら」
女将は、楽しそうな顔で眼を細めるのだった。
――こっちにもあるんだ、そういう言葉というのか、単語。
ミクロカはずいぶんと懐かしい気分になった。
女将は、そんなミクロカを見つめながら、
「トロル、じゃないわね。ゴブリンでも、猫間族でもない。マミ? いえ、違うわねえ。フォルミカ……? んー……。どの系統なのかしら?」
何やら、〝ファンタジー〟な単語を並べてくださっている。
――なんで出てくるのが、怪物とかの名前ばっかりなの。それとも違う意味なの?
並べられた単語に、ミクロカは好奇心と不安を同時に煽られる。
前世の世界では、ゲームや物語でお馴染みの怪物たちの名称ばかり。
少なくとも、ミクロカにとってはそうだった。
ミクロカの記憶というか、イメージでは――
トロルは絵本でヤギを狙って返り討ちにあったりする大柄な怪物。
ゴブリンは小鬼で、RPGの序盤に出てくるやられ役だった。
ただ。それがこっちでも同じ意味で、同じものを指すとは限らない。
同じ文字、同じような発音の言葉が、一方の言語ではまるで別のとなる。
そういうことも、よくあることだ。
例えば、ある言語で贈り物を指す言葉が、別の言語では毒を意味するのだから。
――そーいや……。 ここへ来る途中も、エルフという言葉で、アハトから注意を受けた。
エルフという言葉は、西方人を蔑む言葉だ、と。
「あのー、少し質問よろしいでしょうか?」
チョイッと、ミクロカは片手を挙げた。
「なぁに?」
ツイッと、流し目をするように女将はミクロカの顔を見た。
同性同士であるが、いや? 逆にそれ故にか、驚くほどに妖艶な視線と表情。
――えーと……。えーと……。えーと……。
その視線に圧倒されて、ミクロカは一瞬何を言いたいのか忘れかけたほどだ。
「あたし、本当の名前は、忘れてしまったんですけど、アハトさんからミクロカという、仮名というか仮称というか、ともかくそういう名前をいただいておりまして」
どうぞ、よろしく――と、ミクロカは頭を下げた。
――……何言ってるんだろ。なんか、違う気がするな?
一気にしゃべってから、ミクロカは頭の中でつぶやき、首をかしげていた。
話した内容は、質問したいこととは別のものだった気がする。
――でも、挨拶はちゃんとしておいたほうが後々のためだし? いやでも……。
「ミクロカさんね。良い名前をもらったわ」
女将はアハトと、ミクロカを順繰りに見つめ、また微笑む。
アハトは何となく居心地が悪そうに視線をそらしている。
――背中がムズムズする……。
とでも言いたそうな顔、頭を掻いていた。
「では、私も。私の名前は、ルザ・ワカ・タイガ。このお店の主です」
胸元に手をやって、女将は人好きのする笑顔で名乗った。
ミクロカはついその笑顔に見蕩れてしまったが、あわてて、
「は、はい!」
「はい。どうぞよろしく」
思わず気をつけの姿勢となるミクロカに、女将は鷹揚にうなずいてみせた。
こういった所作の一つ一つを見ていくと、やっぱり、
――ベッピンやなぁ……!
と、ミクロカは思わざるえない。
――名前が三つになっとる……。タイガが、名字でいいのかしらン……この場合。
前世では、周りにはこんな美人はいなかったせいだろうか?
同性であっても、ルザの美貌と魅力は、威力・破壊力・貫通力が非常に高い。
これからのこと、ここに来たこと。不安がないわけではない。
しかし、女将を見ていると、 まあ、いいかという気分になってしまうのだ。
映画やドラマでは、そりゃあ美男美女を見ることはできた。
しかし、生身で直に接して、直に見て、声を聞くとなると、これは比較にならない。
なんてたって、〝迫力〟が違う。
美しさは凶器という言葉があるが、それは実に的を得たものかもしれない。
「あと……ホントか、嘘かはわかりませんが、こいつの言うことにはですね……」
ミクロカが前世のことや、女将ルザの美貌に気を取られてる横で、アハトはミクロカがこの街に来てしまう前――あの奇怪な部屋のことを話していた。
「話だけを聞くなら、魔法使いの研究所ってところね、学徒派かしら?」
ルザはチラッとミクロカの横顔を見て、軽くうなずく。
――がくとは?
言葉を耳にしたミクロカは、我に変える。
印象派とか、タカ派とか、そういう派、なのか?
二人の会話からすると、魔法使いといっても、一括りにできるものではなさそうだ。
「それと、もう一つ」
言って、アハトはミクロカを肘でつつく。
「アレ出せ。あの巾着袋」
巾着とは言われて、思い当たるのは一つしかない。
この服に入っていたらしい、金貨の入ったあの巾着である。
元々あの部屋にあったもので、持ち主の素性はまるでわからない。
ミクロカは少しためらったが、元々自分のものでもわけで。
そんな気安さ・無責任さから、懐中の巾着をテーブルの上に置く。
「──これは?」
「こういうもの、のようです」
訊ねるルザに、ミクロカは巾着の中身をいくつか取り出すことで答えた。
テーブルの上でキラキラと光る金貨、銀貨。
「あら、綺麗」
さすがと言うべきか、ルザは特に動じる様子もなく金貨銀貨を見ている。
「ミクロカさん。これ、少し見せてもらってもいいかしら?」
「……あ、はい。どうぞ」
ミクロカに了解を得てから、ルザは金貨の一枚を手に取る。
「ふーん……。ミクロカさん、あなたはこれを部屋で見つけたの?」
「いえ。部屋にあったといいますか、この服に入ってたらしくって」
ミクロカは自分の着ている服を見ながら、
「なので、落とした時も、全然わかりませんでした」
「無用心ねえ」
ルザは苦笑しながらも、どこか冷徹な視線で金貨を見ている。
「でも、これは大きなヒントになるわね。こういうものを持ち歩ける魔法使いはそれほど多くはないはずだし」
「けっこうな大金ですからね」
「何言ってるの? これ、本物のお金じゃないわよ」
重々しくうなずくアハトに、ルザは苦笑を漏らした。
「……え?」
「――え?」
ミクロカ、アハトの両名は異口同音につぶいた。
「確かに意匠も良くできているし、見た目にはわかりにくいけど」
と、ルザは金貨をテーブルに戻すと、何かを取り出して見せた。
それもまた、金貨だった……が。
「これが、ごく一般的な、普通の金貨」
ルザはそれを、巾着の金貨の横へ並べて見せた。
並べて比較すると、違いは明らかだ。
巾着のほうはまるで新品のように綺麗だが、ルザの出したものは手垢などで汚れて――いや、それ以前にデザインが全然違っていた。
巾着の金貨は何かわからない動物だが、ルザの金貨は鳥の横顔が刻まれている。
「それと、重さを比べてごらんなさい?」
ミクロカは促されるまま、両手にそれぞれの金貨を載せてみる。
これも、違いは明らかで、ルザの金貨のほうがずっと重い。
「で、これは銀貨」
次に出された銀貨も、同じことだった。
「……なんだ、ニセモノかぁ」
巾着の金貨を見つめながら、ミクロカは何となくホッとした気分でつぶやく。
「やれやれ。なんだかなあ……」
横では、アハトは自嘲的につぶやき、肩をすくめている。
「まあ金貨なんか馴染みのない貧乏坊主ですからね」
「そう気落ちしないで。たいていの人は勘違いすると思うわよ?」
「確かに、金貨に日常的に触れてる人間は、そう多くはないでしょうけど……」
――ん~~……。
アハトとルザが話している横で、ミクロカはニセ金貨を再確認していた。
非常に出来が良く綺麗なので、間近で見つめてもなかなか飽きない。
――むぅ?
やがて、ミクロカはあることを発見した。
微かではあるが、ニセ金貨から何か香りがすることに気づいたのだ。
意識を集中しながら匂い嗅いでみると、それは甘い香りだとわかる。
――これって……。
ミクロカは、そうっとニセ金貨の表面に触れて、
ピリ……。
金貨の表面が裂けた。いや、裂いた。
その裂け目から中から黒いものがのぞいて、香りがより鮮明になる。
「あら?」
「……何やってんだ?」
気づいたルザとアハトの訝しげな視線の前、金貨の表皮――いや包装を半分をはがしたミクロカは、そっと露出する黒い部分をなめたてみた。
──甘い。
単なる甘味ではない。脳みその奥深くまで染み込むような心地の良い甘さだった。
それから、包装を全て取り除いた後、黒一色となったそれを、パクリと食べた。
甘い香りを放つ黒いものは、ミクロカの口中でふわりと溶け、上品な甘みをゆるゆると広げていく。
「うまっ……!」
ミクロカは、思わずそう言ってしまう。感動の叫びだった。
まさしく言葉を口に出さずにはいられないほど、美味だったのである。
しかも、ただ美味なだけではない。
その味と匂いは、かつて慣れ親しんだもの、とても懐かしいものでもあった。
――ああ、これって。チョコだ……。
それは紛れもなく、チョコレートの味であり、匂いだった。
ただし、前世――日本で暮らしていた時も、これほど美味いチョコレートは、口にしたことなどなかった。
「お前、平気なのか? それ、食って。というか……食い物なのか?」
アハトは警戒をしながら、ミクロカの様子見ていたが、
「あら美味し。お店でも使いたいくらいね」
ルザはミクロカと同じようにニセ金貨の包装をはがし、食べ始める。
その行動に、一片の躊躇や迷いも見当たらなかった。
「……ちょ!? 女将さんまで!?」
「大丈夫よ、毒じゃなさそうだし」
呆れるアハトに、ルザはイタズラっぽいウィンクをしてみせる。
「なさそうって、あなた……」
アハトは呆然としていたが、やがて呆れたように椅子に座り直す。
それでもなお警戒してか、ついに〝ニセ金貨〟を口にすることはなかった。
――コインチョコ、つうことになるのかな、これ。
ミクロカはニセ金貨改めコインチョコを見ながら、頬杖をつく。
どうやら、ここにもチョコはあるらしい。
それを思うと、何となく嬉しくなってくるような気がした。
「これは、ある木の実を原料にして作ったお菓子の一種よ。その産地は南のほうだから、この辺りではまず見かけないわね」
ルザはお茶を飲みながら、コインチョコを見つめて説明をしている。
「珍しいものなんですか?」
「ええ。とても美味しいけれど言ったとおり原料になる木の実が遠地に行かないと手には入らない。だからけっこうなお値段がするの。今のところはね」
「今のところは……?」
ミクロカがその言葉が引っかかり、顔を上げる。
「最近はどんどん流通が発達してるから、遠くから色んなものが運ばれてくるの。例えばこういう珍しい食べ物とかもね──」
言いながら悪戯っぽく微笑むルザは、見ているだけでゾワゾワとしてくるような色気に満ち溢れてている。
それにしても――と、ミクロカは女将の美貌に見蕩れながら心の内で思う。
これは、現実なのだろうか。
肉体の感触としては、現実以外の何者でもないのだが、体験していることはあまりにも非現実的で……。
でもやっぱり、現実は現実だった。
そして、前世の名前は、まだ思い出せない。