ご、ごめんなさいッッ!!
微睡みの中で私は誰かが私を見ているような気がした。
「せんせ……?」
声をかけても返事がなく、瞬きをして目を開けた。
眠る前に漏れ出ていた隣室の明かりは既に消え、静寂が保健室を支配している。どうやら寝ぼけていたらしい。
真っ暗闇であることに、ちょっとだけ怖くなってぶるりと震えたものの、ベッドから抜け出た。窓の外を見て、今どれくらいの時間かを確認しよう、と思いついたのだ。
ヒスイが何時もの場所に来るだろう。
夜明け近くなら、外へ出るつもりだ。
目は既に慣れていて物の輪郭が朧げに分かるようになっているため、ぶつかって物音を立てるという失態は演じることはなかった。
カーテンから外を覗くと、暗闇が広がっていた。飲まれそうなほど暗い。
白んでいる様子もないため、随分早く起きたのだなと驚いた。
けれど、よく考えると貧血で気を失って日が暮れるまで眠って、また眠りについたのだ。身体が寝たりているということだろう。早く寝たら早く起きるものだ。
「……」
自分のベッドへ戻りかけて思い返した。
出来る限り、気配を殺して寝ていたベッドの横の住人に近づく。
まだ寝ているのかしら、と覗いた瞬間。
引っ張られるような感覚と衝撃が襲う。
驚愕に固まった私の首に人の手がかかった。
上に被さるようにして重さがかかり、足の間に滑り込まれた。
体躯からして男だと分かるものの、私はどうにも出来なかった。驚きに喉が引きつって、叫び声もあげられなかった。
「―――ここは何処だ」
掠れた様な低い声だ。
妙に色気のある声だ、と場違いにも思う。
まだ私は混乱しているのかもしれない。
「ここは、何処だ」
首を絞める手が強くなる。ぱさり、と顔に相手の髪がかかった。乗られているのに随分長い髪の毛だ。
「かれ、は」
声が震える。
「彼を、どうしたの」
奴隷くんがいた場所に私は押さえつけられている。
なら、そこにいた奴隷くんは何処に行ってしまったのだろうか。学園の防衛は完璧なはずなのにどうして。
誰かを暗殺するために? それにしては、ここが何処か分かっていないようだ。
様子の可笑しい顔の見えない相手は私の首を絞める手を強くした。空気を吸い込めない程の力強さだ。
生理的ではない涙が溢れ始める。
それが見えているだろう彼は弱めるどころか、更にその手に力を込めた。
「質問に答えろ。ここは何処だ」
「ッ!!」
「―――何?」
ふ、と首にかかっていた手の力が抜けた。
ごほごほと咳こみ、空気が私の肺に入り込む。
涙を拭いながら、私を押さえつけていた男を見る。
彼は空中を睨みつけているようだった。
私も同じ場所を見るも、何もない。
暗闇があるだけだ。これからどうなるのか、という恐怖が遅れてやってきた。
未だ彼の手は私の首にあり、逃げる事は出来そうにない。今度は生理的な涙が溢れ出した。
その時、急に周りが明るくなった。
「チュベローズさん? もしかして―――」
隣室から現れたカハール先生の顔が驚愕に染まり、すぐに険しいものになった。
「……君は……何をしている!? その子から離れろ!!」
存外、乗りかかっていた男は素早く私の上から離れた。
カハール先生が私の側へ立ち、庇うようにその背が見える。
私は起き上がって先生の後ろから、相手の顔を見ようと覗かせた。
「あなた」
そこにいる姿に目を見開いた。
腰まである髪がさらりと揺れる。
涼しげだと思った双眸には紅の瞳がはめ込まれ、こちらを睨みつけていた。
柳眉は寄せられ、唇は引き結ばれ、いつでも走り出せるようにその身を低くしている。
よく出来た人形のよう、と眠っている時には思ったけれど、動いている時の方が美しさを増していた。
私は引きよされるように魅入ってしまう。
彼の身体から『生』が迸っているかのようだ。目が離せない美しさがある。しなやかな美しさ。
「何のつもりだ?」
カハール先生が敬語ではない。それほどに本気だと窺い知れた。
「―――……」
彼はカハール先生を警戒しているようで答えない。
私もカハール先生の問いに我に返り、改めて奴隷くんを観察する。カハール先生と睨みあいをしている為、私には考える時間があった。先ず、私は彼の手に目をやる。
そして自分の首に手を置いた。あの手の力強さと先程の離れていった身体能力を考え合わせると―――
「身体、無事だったのね……」
よかった、と息をついた。
少なくとも息を引き取りそうな程衰弱していた人間が行える所業ではない。
ナタリアさんもカハール先生も治療してくださったのだから、無事なのは分かるのだけれどやはりこうして動いているのを見るのとは違う。視線を感じて、顔をあげると紅と目があった。
「もしかして、身体のどこかに不調があるのかしら? 大丈夫? ちゃんと動かせる? お腹が空いているのなら、何か持ってくるわ。何か食べたいものがあるかしら? あ、でもカハール先生に許可を取らないと……」
やはり病み上がりだから食事は消化のよい物がいいかもしれない。お肉とかは止めた方がいいかもしれない。
「チュベローズさん」
呆れたような声が降ってきた。
顔を上げるとカハール先生がこちらを振り向いて声と同じ顔をしている。
更に、カハール先生の後ろに見える彼の顔はなんとも言えないような表情をしていた。はあ、とカハール先生の口から溜息が聞こえた。
「……とりあえず、話を聞いてください。それから、どうするかを決めましょう」
カハール先生が奴隷くんに言った。
*・*・*・*・*・*・*・*・*
警戒してはいるものの、結果的に彼はカハール先生の提案を飲んだ。
「チュベローズさん。君は病み上がりなのですから、ベッドに座りなさい」
と、カハール先生が私をベッドにあがらせた。奴隷くんは腕を組んでカハール先生の正面に立った。
奴隷くんの方がずっと重体だったのに、申し訳ない。でもカハール先生が怖くて異議は唱えられず、身を縮こませて座った。
「先ず、君は彼女の奴隷になりました。契約印を彫られているのは君も知っていたんでしょうが……一刻を争う状況だった為、彼女が主人となり、治療を施しました。もうどこも痛くないでしょう? 血が足りていないかもしれませんが、それも数日すれば治ります」
奴隷くんは真偽を確かめるかのように目を細めた。
「ここはアリッサム王国の魔導具都市アルメリア、アルメリア学園内です」
僅かに目を見開いた彼は思案する顔になり、伺うようにカハール先生を見つめる。
「私は保険医のアレク・カハールです。そして、こちらは君の主人となったチュベローズさん」
「あ、はい。あの、ご紹介に預かりました。チュベローズ・テリセンと申します。おはようございます」
カハール先生が促すような視線を向けてきたため、慌ててベッドの上で正座をして頭を下げた。
「……」
彼からの返答はない。
「君は非合法奴隷だったようですが、その契約印に不備は見当たらない。気を失っている時か正気を失くした時にでも書かれたのでしょうが、どちらにせよ彼女の許可なく逃げ出した場合、君はもう正式な逃亡奴隷となり手配される事になります」
「!?」
驚愕の色に染まった後、私を敵のように睨んできた。
彼からすると私のようなものが主人と言うのは甚だ不本意だろう。目が覚めたら正式な奴隷契約を結んでいたなんて、どんな悪夢なのか。あの時は仕方かなかったというのはこちらの都合でしかない。
「だ、大丈夫よ! 直ぐに解放するわ! 契約を結んだのは、そうしないと貴方に治療を施せなかったらで……奴隷が欲しかったわけじゃないもの!」
だから、安心するようにと言いたかったのだけれど。
「―――それは無理です」
カハール先生に良くわからないことを告げられた。
「……え?」
カハール先生は私へ視線を合わせた。痛ましげな表情の意味する所が分からない。
「最低でも1年は、主人として過ごさなければいけないんですよ、チュベローズさん」
「え? ど、どういう」
何を言っているのだろうか。ナタリアさんが解析は済ませたと言っていたのだ。それなら、すぐに契約印は解除出来るはずだ。そもそも主人がすぐに変えられたのだから、彼を奴隷から解放できないなんて可笑しい。
私は混乱し始めた頭でカハール先生に説明した。
絶対に、彼は解放出来る、と。
けれど。先生は首を横に振る。
「私達の国では奴隷とその買い手が本契約を結んだ時、最低でも1年間は解放できなくなっているんです」
「え」
「……普通、奴隷を買う場合は仮契約というものを結びます。それから一定期間、主人は奴隷との相性や自分の欲しい能力があるかなどを見極めるんです。もしいらないと思えば、奴隷商に返しに行き、仮契約を破棄します。しかし、その奴隷がいいと思った場合、本契約を結ぶんです。本契約を結んだ場合、最低でも一年間は面倒を見なければなりません。そもそも、本契約は主人側が望んで結ぶものなので間違いでした、ということが起こらないんですよ。更に、その人間の人生を背負うという意味を自覚させるために、この国ではかなり多くの誓約があるんです。その誓約で本契約を交わした奴隷の場合、奴隷側に明らかな過失がなければ1年以内に契約の破棄は出来ない、というものがあり……」
チュベローズさんは本契約を結んでいるので、と続けられた言葉に何も言えない。
ふいにおばあさんの言葉を思い出す。
―――奴隷を買うっていうのと等しいんだよ? 人助けなんて甘い問題じゃない―――
ここに来て、おばあさんが何を言いたかったのか理解した。おばあさんは主人なる事がどういう意味を持つのか、理解していたのだ。
―――私が何も分かっていないことも
愕然と私はカハール先生を見つめる。
「それは、本当に? 絶対ですか……?」
黙って頷かれた。
呆然と見回すと奥で立っていた奴隷くんを視界に入れた。瞬間、飛び上がってベッドの上で土下座する。
「ご、ごめんなさい!!!! 本当に、本当にごめんなさいッ!! 浅はかな私が……! 物を知らないばっかりに! こんな私と1年間、奴隷として過ごすなんていう苦行を課す事になってしまって……!!」
「ッ!!?」
物凄く警戒されて跳び退って離れられた。人外じみた跳躍だ。
不気味な生き物を見るみたいな視線を向けられている。
顔を上げていることに慌てて、もう一度頭を下げた。
「出来る限り、貴方が早く奴隷から解放されるように尽力致します。だから暫くの間、私との生活を我慢していただけないでしょうか……」
「なんでそこまで低姿勢……」
隣で小さく呟かれたカハール先生の言葉に「当たり前です!」と力説したい。
目が覚めたら奴隷であるというだけでも最悪なのに、そこに来て、私がその主人なんてもう人生のお先は真っ暗だ。彼の運は今日一日、底辺を這っていたのではないか。
憐憫の情が湧く。あまりにも哀れである。なんて運のない人だろう。
「―――俺に何をする気だ」
「何も! 本当に何も!」
不審そうな声に顔をあげて必死に首と両手を振る。切れ長の瞳が更に細められ、私の身体を滑る。品定めされている、と感じるその視線に冷や汗が止まらない。
私の肩に圧力がかかった。見上げると、カハール先生が微笑んでくれた。
……どういう意味?
その微笑の意味がよく分からず、首を傾げかけた私は先生の瞳が険しくなるのを間近で見る事になった。
「何を喚こうと君は彼女に従うしかない。何も彼女がしていないのに傷つければ、君が咎を負う事になる。分かりましたね」
低い声でカハール先生が彼に言う。奴隷くんは更に眉間の皺を濃くした。
どうも、2人の間はかなり緊迫した空気が漂っている。
私は本当に奴隷くんにごめんなさいして許しを請いたいところだ。人権を無視したい訳ではないと分かって貰いたい。そこからして烏滸がましいのかも。
「一先ず、チュベローズさんは彼に自分を傷つけないように命令をしてください。厳命しておけば彼はその契約印の効果によって、2度と先程のような事は起こらないでしょう」
にっこりと微笑まれる私はきっと情けない顔をしているだろう。断るような空気は先生から発せられていない。
カハール先生は命とか怪我に関わる事だとすごく怖い、とここ数日で骨身に染みた。
そう言えば前世を思い出した時も私の豹変振りに驚きながら、頭をぶつけた事に関して口にしていた。
保険医根性、極めり。保険医の鑑だ。
「さあ、どうぞ」
「……はぁ」
首を絞められるというような命の危機は、主人と奴隷との間には起こらない。
そういう契約をされるらしいのだけれど今回の立会いはプロのものではなく事務員のナタリアさんであり、本業ではないために不備があったのだろうとカハール先生は私に言った。
「……どうすれば、いいのでしょうか……」
「普通に命令すればいいんです」
「普通に」
普通に命令ってどうするのか分からない。
とりあえず、起きたら乗っかって首を絞められていたという状況は心臓に悪いので心の中で謝罪を繰り返しながら
「めっ、『命令します! 私に危害を加えちゃいけません!』」
叫んでみた。思わず、目を瞑ってしまった。開けたら、何故か右手の人差し指を奴隷くんに指差していた。ハッ!と手を降ろす。
「……これでいいのでしょうか」
「問題なく、発動したと思いますよ」
別に魔力の時みたいに力が巡ることもないし、何かが起こったような感覚も全くない。自分の行動に微妙な気持ちになっていてカハール先生を伺うように尋ねてしまった。
けれどカハール先生は面倒そうな顔もせずにしっかりと頷いてくださった。ありがとうございます、先生。普段は本当に優しい先生ですよね。
「これで一応は安心ですね。チュベローズさんには後で彼に関する書類を渡します。困ったことがあれば私かグルセフさんに相談するといいでしょうから―――ああ、そうでした。激しい運動は今後暫く控えてください。まだ君の身体は本調子ではないのですから」
微笑を浮かべていたのに、急にすとんと感情が抜け落ちる様に背筋を震わせる。
私はカハール先生の眼を見て小刻みに何度も頷いた。先生怖い。
せっかく、他の筋肉運動も出来ると踏んでいたのにまだジョギングと体操を続けなければならないのか、と気持ちが下に向いた時。
「あっ!!」
慌てて窓の外を見る。カーテンが閉まっていても、うっすらと空が明るくなっている。これは不味い。既にヒスイはいつもの待ち合わせ場所にいるかもしれない時間だ。
「先生、私、少し外に出てきますね! 用事があるのです! それから、奴隷くんは帰ってきたら名前を教えてくださいね! 自己紹介はまた後でお願い致します!!」
私はベッドから転げ落ちて、呆気に取られているカハール先生を尻目に保健室を飛び出した。
既にヒスイはその場にいた。
私は走りながら「ヒスイ!」と叫び、その身体に抱きつく。ごめんなさい、と遅れたことを謝りながら首を抱きこんだ。
「キュゥ……」
「ヒスイ?」
ヒスイの様子が可笑しい。
いつもなら、気にしないでというように大きく返事をしてくれるのに返事が小さい。
「どうしたの? 何かあったのかしら」
「キュ、キュキュウ」
何でもないよ、とヒスイは首を振る。伝える気はなさそうだ。ちょっと寂しい気もするけれど、教えてくれるまで追求しないことにした。誰だって聞かれたくないことは十も二十もある。勿論、例に漏れず私も、だ。
「ヒスイ、聞いてくれるかしら」
「キュゥ!」
「ふふふ、ありがとう……。あのね、私、奴隷くんの主人になったの」
「キュゥ?」
意味が分からないだろうヒスイに私は微笑む。
「私、頑張るわ。彼が何をしても、私は全部私が責任を取るって貴方に誓うわ。貴方に誓うんだもの。絶対に私、違える事はないわ」
他に誓う人とすると家族以外で言うなら、おばあさんだろうか。おばあさんに恥じない人にという目標なら、私も頑張れるだろう。
けれど、私の始めての友達はヒスイだ。
ヒスイに誓ったなら、私は絶対に血を吐こうと手足が無くなろうと守り抜く。
だからこそ、ヒスイにこの誓いをするのだ。私の決意表明だ。
それが、彼を奴隷に落としてしまった私の責任の取り方だろうと思う。
「……私、嫌われるのは得意なのだけれど……好かれるのはとても不得意なのよね……」
重い溜息が漏れる。
街の人達とは利害関係で繋がっているので、それなりに良好な関係性を保てていると思う。けれど、同年代において人間関係を保とうとするのはかなり難しい。
「奴隷くん、我慢出来るかしら……私と一緒に生活して……」
ちょっと余りにも惨めな考えに自分でうちのめされる。
考え付く限り、快適な一年間を過ごしていけるよう出来る限りの便宜をはかろう。それで、私と過ごす事のマイナスと考え合わせて、ぎりぎり大丈夫ってくらいまで思って我慢してもらえるよう頑張ろう。
ヒスイを撫でながら、自分の不甲斐なさに泣けてくる。
「―――ヒスイ、私頑張るわ。応援してね」
にっこりと笑って言うとヒスイは「……キュゥ」と不満げに咽喉を鳴らした。
ちょっと不思議に思ったけれど、その後、いつも通りの運動をする内に私は忘れてしまったのだった。




