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おやすみなさい

 私が言った科白は二人の度肝を抜いたようだった。


「……正気かい?」


 目を剥かんばかりに目を見開いて、おばあさんは私に詰め寄った。


「あんた、今自分が何を言ったのか分かってるのかい? 奴隷を買うってのと等しいんだよ? 人助けなんて甘い問題モンじゃなく―――」

「―――でも、そうじゃないと助けられないんでしょう?」


 主人がいなければ彼は助からない印を押されているのだ。なら、私がなればいい。一番簡単な解答だ。


「他に方法があるかもしれませんし、貴女がそんなことをせずとも私が奴隷契約を結んだっていい……」


 ナタリアさんも反対らしく、戸惑いを含む視線で口早に反論する。おばあさんはそこに活路を見出したように、叫んだ。


「そうさ! あたしの方が人手が必要だし、あんたがする必要はないだろう!!」

「はい、でも……私が一番いいと思うのです。おばあさんもナタリアさんも、お二人ともどちらも手が足りていらっしゃることは知っておりますし……それに、生徒の私が奴隷を伴っていても可笑しいことではありません。何人もおりますよね」


 使用人という名目で奴隷を学園に連れている貴族達は多い。

 先生達の中にも奴隷を扱って仕事をする人もいる。ナタリアさんは事務員でおばあさんは一般の魔導具の主人。それよりは私が彼を引き取った方が面倒事は少ない。私は書類を一つ書くだけで済むのだ。


「そういう問題じゃないんだよ! これは個人奴隷ってことで……むぐっ!?」


 おばあさんが言いかけた言葉はナタリアさんが口を塞いだ事によって分からなくなる。その突然の所業に私は驚いてしまう。


「ちょいと、ナタリア、あんた!」

「〈ウォーター〉、〈水鎖アクアカデナ〉」

「ふが……ッ!」


 一瞬手を離したナタリアさんは呪文を唱え、おばあさんの口周りに水を出現させた。息は出来る様に鼻は塞いでいないものの、手足も水の輪が取り巻いている。魔法とはそのような使い方もあるのか、とナタリアさんの行動に唖然としながら思う。ナタリアさんは「よし」とおばあさんの様子を見てから、私へ視線を合わせた。

 真剣な顔と空気に私も居住まいを正す。


「主人を貴女に登録する事は出来ますよ。テリセンちゃん。でも、テリセンちゃん。そうすると、彼は正式な貴女の奴隷になるんですよ。もう非合法奴隷の被害にあった方だと通報できなくなります。この契約印は完璧で、彼が非合法奴隷であったのを助けただという弁は信じてもらうことは難しいのですよ。……それでも貴女は主人契約を望むのですか?」

「助けられるのなら。―――私に出来る事があるなら、やります」


 はっきりと眼を見て私は頷いた。


 勿論、彼を奴隷商のところまで連れて行く選択肢もあった。

 けれどその選択肢は、ナタリアさんのところへ連れてきた時点で既に消えてしまっているのだ。一刻を争う程に彼の状態は悪いのだから。

 ナタリアさんは瞼を閉じ、考える素振りを見せて、ゆっくりと開けた。


「分かりました。私は貴女を彼の主人に書き換える事にしましょう。それでしたら、私にも出来ますからねぇ」

「がぼぼぼ!!!」


 視線だけで人が殺されるのなら、私とナタリアさんはおばあさんによって何度となく殺されているに違いない。


 私が余計な問題を背負う事になると心配してくれているおばあさんには罪悪感が募って軽い会釈をした。

 申し訳なさが伝わればいいのだけれど、私はやめる気はない。必死に横に首を振って、やめろ、と伝えてくるおばあさんを横目に私とナタリアさんは粛々と準備をした。


 *・*・*・*・*・*・*・*・*


 保健室と言うのが創作物語のファンタジーなどでも真っ白なのが通常であるのは、清潔感が伴うからかもしれない。ベッドで横たわりながら、思う。怒涛と思える時間も日が暮れる程ではなく、開け放たれた窓からは暖かい光が室内へ滑り込んでいる。


 その場面だけを見るなら、緩やかな日常に心も身体も休養が出来る光景だ。


「……チュベローズさん」


 底冷えするような声の持ち主が後ろから圧迫してこなければ、もっと解放感に包まれて休養できたはずだ。


「はい、せ、先生」


 返事をしながら、普段は穏やかな笑顔を浮かべているカハール先生が無表情になった時の事を思い出していた。


 私が奴隷くんの主人となる契約を済ませた後、私はおばあさんに怒鳴りつけられ、ナタリアさんと共に正座をさせられた。

 考えなし過ぎるとかもっと考えろとかこの場をやり過ごせればいいという問題じゃないとか、とにかくそういう事を延々と怒鳴られていた。

 奴隷くんにはナタリアさんがちゃんと治癒魔法をかけた後だったので、彼のことを心配する必要はなくなっており、大人しく聞いていたのだったのだけれど―――私はくらりと視界が回って床へ倒れこんだ。


 私は急いで保健室へ運ばれた。


 どうも貧血だったらしい。

 心臓の鼓動が激しいのは奴隷くんを心配していただけではなく、動悸も入っていたようだ。全く気がつかなかった。思い返せば変な汗も多かったし、誰が見ても私の制服は血だらけ。貧血にもなる。


 が、問題はそのようなことではなく、カハール先生である。


 とりあえず、運ばれた私を見てきちんと治療をしてくださった先生は表情を消したままで低い声で「……チュベローズさん」と名前を呼んだ時、冬が舞い戻ってきたのかと錯覚した。カハール先生は怒鳴ることはしなかったし、叫ぶこともしなかった。

 ただ無表情で静かに私の名を呼び「また怪我をしたんですか?」と静かに聞いただけだ。

 まるで凪いだ湖の如く。それだけで私の背筋は震え、血の気が引いたのが分かった。誰に言われなくても理解した。私の生存本能が逃げろと訴えていた。だが、カハール先生は「とりあえず、聞きたいことはありますが……今は少し寝なさい」と告げられ、私はただ頷いてベッドに横になった。一応眠ることは出来たのだけれど、ゆっくり寝たとはいえない。


 そっと起き上がり、ベットの端に腰掛ける。

 大丈夫ですか、気分は悪くありませんか、と淡々と尋ねられて、はい、はいと私は答える。

 そして、カハール先生は一呼吸置いて口を開いた。


「……また怪我をしましたね」


 はい、と消えるような声で言うと。


「そんなに血を出して」


 と、また質問という形の詰問だった。

 はい、と更に消えるような声で答えた。


「怪我は誰に治して貰ったのですか」


 ナタリアさんです、と答える。


「なるほど。どうしてあんなに血を出したんですか?」


 こけました、とこのような感じで私はカハール先生の無表情を見ることが出来ず、床を凝視しながら答え続けた。永遠に続くのかと気が遠くなりそうになった頃、ナタリアさんとおばあさんが保健室に入ってきた。


「やめな。色々あったんだよ。あたしがちゃんと治療してやらなかったのも悪いんだからね」

「っ!? あなたは……!」

「で? あんた、気分は?」


 おばあさんが素っ気なさそうに言う。けれど、その瞳は私の心配をしてくれていることを何より雄弁に語ってくれていた。さっきまで極寒の地にいるような心持だったけれど、それは私の気持ちの問題であって身体は至って健康だ。


「はい、大分よくなりました。……それで、あの……彼は……」

「まだ目覚めてませんねぇ。こちらで預かっていますが、一応、カハール先生に診てもらいますか?」


 ナタリアさんは私に尋ねた。


 そこで、そう言えば私は彼の主人という立場になったのだったと思い出して「はい、そうですね」と伺うようにカハール先生を見た。


「……先生、診て欲しい人がいるのですが、ただ今のお時間は宜しいでしょうか」

「ハッ!? え、ええ、大丈夫ですが。一体、誰を?」

「私の奴隷です。……ですよね?」


 口にしてから不相応な気がして、不安にかられておばあさんとナタリアさんに尋ねてしまう。おばあさんは片手で顔を覆っていた。カハール先生が目と口を大きく開けて、叫んだ。


「はぁ!? 『私の奴隷』!?」

「そうですねぇ、まあ、そういう言い方もありますけどねぇ。うーん、もう少し柔らかい表現の方がきっと他の方にとって気持ちが楽になりますからねぇ……うーん……」


 ナタリアさんは何故か悩み始めた。あれ?と思ったら、おばあさんが眉間に皺を寄せた顔で私を見た。


「そういう言い方はするもんじゃないよ。正しいけどね。とりあえず、先生はこっちに来てくれればいいのさ。あんたは大人しくベッドで寝ていな。分かったね?」


 はい、と頷いた。


 おばあさんはそのままじっと私を見つめる。ちょっと考えて、ベッドに横になって掛け布団から顔を出して見上げた。おばあさんは満足げに頷いて、カハール先生を伴って出て行った。くすり、と笑う音がした。楽しそうにナタリアさんが保健室の扉を見ている。


「可愛いですよねぇ、クラリスちゃんって。貴女の事、本当に可愛がっているみたいですねぇ。人命を助けるためとはいえ、酷な事をしてしまいましたねぇ」


 返事をしていいのか、よく分からなくて黙ったまま、見ていると、ナタリアさんは私に顔を向けてにっこりと笑った。


「今はゆっくりしてるのが一番ですからねぇ」


 近づいてくる掌に目を向け―――意識が無くなった。無くなる直前に聞いたのは「〈睡眠スリープ〉」というナタリアさんの声だった。


 *・*・*・*・*・*・*・*・*


 意識がゆっくりと浮上していく。

 誰かの言い合いの声が聞こえている。一体何が起きたのかしら……。誰が怒鳴っているの?


「―――もう少し、寝ていて頂戴ねぇ」


 そんな声と共に私の意識は闇へと引きずり込まれた。


 *・*・*・*・*・*・*・*・*


 光が眩しくて、蒲団を被る。

 ……蒲団?


「……」


 身体を起こした。

 眩しいと思ったのは部屋の明かりだったようだ。妙にだるい身体は血を流しすぎたからかもしれない。

 それとも、単純に身体の重さが普通ではないからかもしれない。


 ゆっくりと眠る前のことを思い出し始め、私はどうやらナタリアさんに眠りの魔法を使われたようだと結論付けた。

 あの場合、私はカハール先生からの空気に押し潰されかけていて、ゆっくりと眠れる精神状態ではなかったので眠れたのはよかったのだろうと思う。

 随分久しぶりにベッドに寝たなぁ、と溜息を吐いた。


「―――目覚めましたか?」

「カハール先生」


 身体の調子を聞いてくる先生に、大丈夫だと答えた。だるい感じがするものの、その他に不調を訴える感覚はない。


「彼を……診ましたよ」


 慎重に言葉を選ぶように言われ、私は何を言っているのだろうかとカハール先生の顔を見つめた。

 一拍遅れて、カハール先生は奴隷くんのことを言っているのだと思い出して不安になった。


「もしかして、何か問題が?」


 重い口調の理由はそれくらいしか思いつかない。

 私が最後に見た時は、ナタリアさんの治癒魔法をかけられて顔色が大分良くなったところまでだ。もしかして、体調が急変したなんてことになったのだろうか。


「ああ、大丈夫です。まだ寝ていますが……」


 ちらり、と隣のベッドへ先生の目線が行く。あそこにいるのか、と確認してからカハール先生に視線を戻す。


「血が足りなくなってはいましたが、あなたほどではありませんでした。グルセフさんが治療してくれていたので、心配する事はありません」

「そうですか」


 胸を撫で下ろした。

 初等部の頃からお世話になっているカハール先生に太鼓判を押されて、漸く人心地が着いた。


「今日はここに泊まりなさい」

「……え」


 驚いて目を見張る。


「君の身体はまだ万全じゃない。寝ている間に診せて貰ったけど、かなり無茶をして身体が休みたがっているんですよ。そもそも、君は全身火傷をしていたっていう自覚がないのかな? ん? 普通ならあれくらいの出血量で貧血にはならない。体調が万全じゃないのに無理をするからこんなことになったんですよ。……何か激しい運動をしてませんか?」


 激しい運動なんて最近は全くしていない。毎朝のジョギングと朝の体操が激しい運動なら、毎日教室まで歩いて行くのでさえ、激しい運動に入ってしまう。

 そんな馬鹿な話はないため、心当たりがなくて首を傾げる。


「せめて、今夜だけでも身体を休ませます」


 もう私に聞く形ではなく断言する形で予定を告げた、私を見下ろすカハール先生に大人しく頷いた。断る理由はないし、奴隷くんが目覚めた時に側にいたかった。ちゃんと説明する責任があると思っていたからだ。出来れば、目覚めるまではここにいたい。


「食堂には自由に行っても構いませんが、行く時は言うように。お風呂もトイレもそこについていますから好きに使ってください。他に何か聞きたいことはありますか?」

「おばあさんとナタリアさんは?」

「……お二方は随分前にお帰りになりました。元気になったらまたおいで、とロルエさんは言っておられましたよ」


 ロルエ、というのがおばあさんの苗字である事は空気を読んで尋ねなかった。

 カハール先生は当然知っているだろうという態度だったし、ここで尋ねるのは違う気がしたのだ。今度本名をちゃんと尋ねよう、と思いながらも、ちゃんと覚えておく。クラリス・ロルエ。おばあさんの名前。

 おばあさんがちゃんと次の約束をしてくれたことが嬉しくて、頬が緩む。


「……食堂に行きますか?」


 首を振って「このまま、また寝ます」と答えた。今日もまた疲れたなあ、と昨晩も思ったような事を考えながら、私はベッドへ身体を沈み込ませる。食堂へ行くには気力が足りない。あの針の筵とモーゼ現象を耐え切る気力が足りない。


「じゃあ、明かりは消しますよ。隣に居ますから何かあれば言ってくださいね―――おやすみなさい、チュベローズさん」

「ッ、あ……は、はい……」


 突然の眠りの挨拶に咄嗟に反応が出来なかった。カハール先生は不審に思うようなことはなく、明かりを消して出て行った。僅かの間、放心状態だった私はカハール先生が扉を閉める音に我に返った。


 何年ぶりかの『おやすみなさい』。


 蒲団に包まって身体を抱きこむ。顔に熱が集まって叫びだしたい衝動に駆られる。蒲団を身体に巻きつけてその衝動をやり過ごして、返事をしなかったことに気づいて後悔する。


 まさか、おやすみなさい、なんて。


 ―――嬉しい


 暗くなった部屋の中でベッドに仰向けに寝転んで天井を見つめる。

 だんだん目が慣れてきて、暗闇に浮かぶ物体が見えてくる。先生がいると言った方向からは明かりが漏れて、明かりの消えた保健室に暗い影を作り出している。

 ゆらゆらゆらゆらと影が揺れているのを見つめながら、私は眠りに落ちた。

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