全ての始まり
深夜から明け方にかけて関東に上陸するという予定の台風は、朝になっても勢いを失わず、激しい風と雨が窓ガラスに叩きつけていた。
ため息をつきたくなる。
しかし私は堪えて、大きく深呼吸をした。
そうしてから洗面所に向かう。
蒸し暑い夏の夜にかいた汗をシャワーで流し、仕上げに顔を水で引き締めてさっぱりする。
鏡に映る自分に笑いかけてみる。
よし! 今日も元気。大丈夫。
そう気合を入れ直した。
今回の展示会は、アニメーション制作会社Decim Animationの二十周年記念を祝う大きなイベント。
まだ若手である私がコーディネーターに抜擢されたのだから、気合が入るというものだ。
こんな雨風なんかに、負けていられない。
自分にエールを送ってから、私はキッチンに向かう。
食パンをトースターに放り込み、その間にスクランブルエッグを作る。
あらかじめ洗って冷蔵庫に用意しておいたレタスを添えて、いつもの朝食を整えた。
野菜ジュースを飲みながら食べ終える頃には、八時になっている。
今日アテンドする舞原監督に電話をかけた。
舞原監督は、世にヒット作をいくつも送り出しているアニメーション監督で、
今日の展示会ではトークショーを行ってくれる予定だ。
映像の制作人というと、芸術家肌だったりマニアックだったりする人が多そうだけど、
舞原監督は気取ったところがまったくなく、優しいオジサンという感じの方。
「舞原監督、おはようございます! 本日はよろしくお願いします。
九時頃にお迎えのタクシーをそちらに向かわせる予定になっています。
ただ、この天気ですので、少し遅れるかもしれません」
『まあ、イベントは午後からだし、午前中は打ち合わせだけだから問題ないよ。
十和ちゃんは大丈夫? こんな台風の中、移動は危なくない?』
“ちゃんづけ”で呼ばれているけれど、そこにセクハラ的ないやらしさはない。
年長者が小さい子どもを気遣うような感じがする。
その分、自分の未熟さや幼さを突きつけられている気がして、少しだけ胸がちくりとした。
でも、まだ社会人三年目なのだから仕方がないとも思う。
それに、こうやって逆に心配してくれるところが、舞原監督の優しいところだ。
デリカシーもなく傍若無人な私の父親とは、えらい違いである。
「大丈夫ですよ!
なんとスポンサーさんが心配してくださったみたいで、私もタクシー出動なんです」
今回のイベントのメインスポンサーであるトカズコーポレーションは、登壇者の交通費だけでなく、台風の影響を考慮してスタッフのタクシー代まで出してくれている。
さすが大手、というか、本当に太っ腹だと思う。
戦闘服であるスーツに着替え、化粧もばっちり決めて、
アパートの前まで迎えに来たタクシーに私は乗り込んだ。
七星四季館に着いたのは、九時半少し前。
展示場でスタッフに挨拶をしてから、スタッフタグを手に取り、
舞原監督を出迎えるためにロビーへと戻る。
ロビーに着いたタイミングで、タクシーが玄関に滑り込んできた。
舞原監督の姿が見えたので、私は手を振りながら駆け寄り、スタッフタグを手渡す。
二人で他愛ない挨拶代わりの会話を交わしながら、展示場へ向かう。
Decim Animation Studioの広報である橘さんも交え、簡単な打ち合わせを済ませたあと、
私は舞原監督の案内で展示場を回ることになった。
普段はただの優しいオジサンという印象の舞原監督だけど、
展示物を前にして語る姿を見ると、やはり名監督なのだと思い知らされる。
制作者ならではの視点での解説は非常に面白く、今回アテンダーとしてご一緒できたのは、役得だったのかもしれない。
この展示会を訪れた人の中で、私がいちばん贅沢な鑑賞体験をしていたと思う。
しかし、穏やかに話していた舞原監督の表情に、ふと翳りが差し、言葉が途切れた。
そこは、昨年亡くなられた脚本家・時田氏の追悼コーナーだった。
黙って時田さんの写真を見つめる舞原監督。
私は少し居心地の悪さを感じ、視線をプロフィールへと移す。
「時田さん、私と誕生日が同じなんですね」
沈黙を埋めたくて、ついどうでもいいことを口にしてしまった。
舞原監督がこちらを見るので、思わず視線がぶつかる。
「十和ちゃんと違って、こっちはおっさんだけどね。
育ちが良くて真っ直ぐで、四十を超えているのにロマンチストでさ。
一緒に美味しく酒が飲める、いい奴だったよ」
寂しげな笑みでそんな思い出話をされて、私は何と返せばいいのか分からなくなる。
時田氏の死は、今もなお、舞原監督に深い悲しみを残しているのだろう。
その前では、私はあまりにも無力だった。
「……優しそうな方ですね」
そう言うだけが、精一杯だった。
舞原監督は目を細め、再び時田氏の写真を見つめる。
ここは二人が向き合う場所。私は邪魔な存在だ。
小さく頭を下げて、私はそっとその場を離れることにした。
隣のエリアで楽しそうに展示物を見ている女性客二人に軽く会釈をし、
通り過ぎようとした、その時。
背後から、大きな異音が響いた。
――ドゴォォン、ゴシャッ。
硬いものが砕け、何かが潰れる音。
それに続く、ビリビリとした振動。
振り返った時には、もう異様な音は止んでいた。
恐る恐る、音のした時田氏の追悼コーナーへと足を踏み入れ、私は息を呑む。
時田氏の写真が飾られていた壁に、大きな穴が空いている。
身体の奥底から、震えが湧き上がってくるのを感じながら、
私はそこにあるはずのなかった、派手な赤色の方へ視線を向けた。
ひしゃげた赤いキッチンカーが、そこにあった。
そして、その運転席があったであろう場所を見た瞬間、
私は悲鳴を上げることしかできなかった。
助けなきゃ、という感情と、
この状況で生きているはずがないという冷静な判断が、
頭の中でぐるぐると回る。
身体から力が抜け、私はその場に座り込み、
叫びながら、ありえない光景を見つめ続けることしかできなかった。
コチラは【ペトリコールに融ける】の直後から始まっています。
そちらを読まなくても楽しめますが、それ以前の世界が気になる方は、そちらも読んでいただけたら嬉しいです。




